5 猫としての第一歩
猫としての食事の仕方を教わり、猫としての排泄の仕方を教わり、とりあえずその日は眠ることになった。
(食事は、舌を上手に使えるように頑張る。トイレは、人としての羞恥心を捨てる事が必須、と……)
テーブルの下、カミーユが用意してくれた籠にショールを敷いたベッドで寝ころびながら、リリーは心の中で呟いた。
食事の方は、口の周りをベチョベチョにしながらも完食し、ルウが口元を舐めて綺麗にしてくれながら、初めてにしては上手だと誉めてくれた。
しかし、排泄の方はというと……。
(あ~、無理……。無理です、無理……)
猫のトイレは外だ。
草むらの陰とはいえ、外で排泄をするのは辛かった。
(猫の姿だとわかってるけど、わかってはいるけどーっ!)
恥ずかしさで、ベッドの中で転げまわってしまう。
(……ん? なんか体が柔らかい。なんかこう……ねじれるっていうか。すごいな、猫)
面白くなって、手足を伸ばしてグネグネ動いていると、
「何してるんだい?」
食事後もワインを飲み続けていたカミーユに覗き込まれて、リリーは慌てて変な動きを止めた。
『ははっ、なんだか体がすごく伸びるし曲がるから、面白くて』
照れながらそう言うと、カミーユはにこにこと笑った。
「それはいい事だ。自分の体がどういう動きをするか、これまでとはだいぶ違うから知っておくのは大切だよ。……どうだい? 眠れそうかい?」
『あ……えと……正直、なんだかドキドキして無理そうです』
「まあ、そうだろうね。今日はいろいろあったから」
ため息と、苦笑が混じった声だ。
「本当にねぇ……わたしも疲れたよ。ぼーっと子猫を見ていたい気分だ。ほらほら、さっきのグニャグニャダンス、もう一度やってごらん?」
人差し指で喉を撫でられ、あまりの気持ち良さにどんどん首を伸ばしてしまう。そして、ついにはバランスを崩し、コロッと仰向けにひっくり返ってしまった。
「ん~、可愛いねぇ。ホント、見ているだけで癒されるよ。もう、ずっとうちに置いときたいくらいだ」
『えっ? 是非! 是非そうしてもらえませんか?』
慌てて起き上がり、きちんと座ってお願いしたが、「すまないね」とカミーユは首を横に振った。
「約束があるんだよ。あんたの魂を入れたこの子は、今日、その屋敷に行くところだったのさ。だからあんたには、かわりにそこに行ってもらいたい。こちらの勝手な都合で申し訳ないんだが」
『あ~、そうですか。じゃあ、しょうがないですもんね。はい、大丈夫です』
そもそも最初から、ここには置いておけないと言われていた事なので、リリーはたいして気にしなかったのだが、カミーユには意外だったらしい。
「……あんたは、全然文句や恨み事を言わないね。今回の事ではかなり文句を言われると、わたしもルウも覚悟してたんだよ。でもあんたは怒らなかった。それどころか、自分が勝手にした事、なんて言うし。違う場所に行ってもらうのだって、もっと、抵抗していいんだよ? 『責任とってここに住まわせろ!』って」
『え? 抵抗したら、それも有りですか!?』
「う~ん、それは……まあ、困るんだが」
言う事に一貫性のないカミーユに苦笑しながらも、リリーは少し考えてから言った。
『……わたしは孤児でした。親の事は何も知りませんが、わたしはいらない子だったのだろうかと考えたりする事もありました。赤ん坊のうちに里子にもらわれていく子もいましたが、わたしを引き取ってくれる人はいなくて……だから、あまり期待をしないように……というか、希望を持たないようにしているのかもしれません』
孤児院には仲間がたくさんいて寂しくはなかった。しかし、孤独を感じる事はあった。
『失望しているわけじゃないし、悲観しているわけでもないんです。ただ、置かれた状況でどうするかを考えるのが性格に合っているんだと思います。あと、どういう事であっても、必要とされたり頼られる事は嬉しいので……まだ自信はないけど、新しい屋敷に行くお役目、精一杯果たしたいと思います』
「……なるほど、そうかい。……悪かったね、変な事言ってしまって。ちょっと、酔ったのかもしれない」
そう言ってカミーユは笑うと、おもむろに籠ごとリリーを持ち上げた。
『わっ!? なんですか?』
「必要とされる事が嬉しいんだろう? だったら、ルウのところに行ってもらえるかい? 寝室にいるんだが、さすがに今日の事はきつかったようでね。一緒にいてやってくれ」
そういえば、トイレを済ませて戻ってからルウの姿を見ていない。
『はい。あ、でも……』
「ん? どうかしたか?」
『あの……わたしが側にいてもいいんでしょうか? ルウさんの子供の体をもらって生き返っちゃって……ルウさんにとっては複雑なんじゃないでしょうか? わたしが側に行ったらかえって辛くさせるんじゃないか心配で……』
「わたしはそう思わないが。ほら、さっきだって、あんたに『ルウさん』って呼ばれて寂しがってたじゃないか」
『えっ?』
「さっきのトイレの時、『ルウサーン、デキマセーン、ムリデース!』なんて騒いでただろう? わたしは散々笑わせてもらったけど、ルウは寂しそうな顔をしてたから。その後すぐに、休みたいって寝室に引っ込んだし。『お母さん』って呼んでやれば、元気になるんじゃないかい?」
『えっ? 本当ですか? お母さんって呼んでいいんですかっ?』
誰かを『お母さん』と呼ぶ事に密かに憧れていたリリーは、ちょっと興奮して尋ねたが、
「いや、そうじゃないかと思っただけさ。何十年も一緒にいたからなんとなくはわかるが、心の事だ。完全にわかるわけじゃないからね」
『まあ、確かに……って、え? 何十年って……ルウさんって何歳なんですか? あと、カミーユさんの年齢も……』
「それは秘密だ。まあ、思っているよりはいっているだろう、とだけ答えておこうか。さあ、お母さんと呼んで欲しいかどうかは直接聞いてみるといい」
そう言いながら、カミーユは寝室の扉を開けた。
薄暗い部屋の中を見回すと、ベットの上でモゾモゾと動く姿が見えた。
「ルーウ、ちょっといいかい? リリーを連れて来たんだ。一人で眠らせてもいいんだが、まあ、今日は一緒の方がいいかと思ってね」
「ええ、そうね、ごめんなさい。ちょっと休んだら戻るつもりだったんだけど」
カミーユがリリーを隣に置くと、ルウはペロペロと毛づくろいをしてやりだした。
「今日はみんなで寝る事にしよう。……そうだリリー、なんかルウに言いたいんじゃなかったか?」
『え? あ、あの……』
カミーユの言葉に、毛づくろいを止めて自分を見つめるルウに、リリーは思わず視線を逸らしてしまった。
急いで心の中で『お母さんって呼んでいいですか?』と3回練習してから視線を戻すと、ルウはきちんと座ってリリーの言葉を待っていた。
「なんでも、思った事を言ってちょうだい。あなたには、その権利があるのだから」
『あ、いえ、あの、えっと……』
カミーユが言っていた、『かなり文句を言われると思っていた』ということを思い出し、勘違いされていると慌ててしまう。
『お、おか、お母さんっ!』
「えっ?」
『……って呼んでもいいかって、聞きたかったんですけど……』
目を丸くし口をポカンと開け、驚いた表情で自分を見つめるルウにリリーは小さく尋ねた。
『も、もしルウさんが良かったら、お母さんって呼びたいなって、思って……』
「……ま、まあ、ある意味、母親なわけだし? リリーがそうしたいなら? 別にそう呼んでくれてもかまわないけど?」
プイッと横を向き、早口にそう言うルウを、何も言わないながらもカミーユはニヤニヤ見ている。
『あ……、これ、カミーユさんが言ってた通りだ』
そう思い、リリーはホッと、そして嬉しくなってルウの首元にグイグイと額を押し付けた。
『お母さん、よろしくお願いします。あ、それと、もう一つ気になった事があって!』
「なあに?」
『お母さんは何歳なんですか? あとカミーユさんも何歳かなーって』
「あー、それ? ん~……カミーユ?」
「却下だ。ルウ、お前の娘を黙らせろ!」
「了解」
「ニャーッ!」
ルウに押しつぶされ、抗議の声を上げたリリーだったが、そのうち、ルウの体温の温かさにウトウトしてきて、いつの間にか眠ってしまっていた。
何十年も一緒に、って言ってますねぇ……何歳だ?