スピカの話
翌日は久しぶりの休日で、ミッシェルと釣りに行く約束をしていたリュカだったが、急遽、出かける事になった。
「昨夜の事で、エヴァンと話をしなければいけない」
との事で、残念がりはしたがミッシェルも納得した。
一方リリーは、
「日頃の疲れも溜まっているだろうし、叩かれたところも心配だから今日は留守番していなさい」
リュカにそう言われ、屋敷に残る事にした。
『久しぶりだね、リリーが居るの。駆けっこする?』
『頭が痛いからイヤ』
日があたるソファーの上で丸まりながら、リリーはチェイスの誘いをキッパリと断ったが、
『それよりも! 昨日は本当にありがとう。スピカお姉さまとチェイスのおかげで助かったわ。あのままじゃわたし、ボコボコにされてたと思う!』
『……やっぱり、こういう時は大きい方がいいわね。わたしはいくら頑張って吠えても簡単に蹴りとばけされちゃったけど、チェイスの迫力には弱腰になっていたものね、あの男』
幸い怪我もなく無事だったスピカが、愉快そうに言う。
『もー、思い出すとムカつく! スピカおばちゃんを蹴ったところは見てなかったんだ。その事知ってたら噛みついてやったのに! 匂い覚えたから、今度は噛みついてやる! こうやって! こうやって!!』
短いロープの両端を結んだ犬用おもちゃを咥えて振り回して見せるチェイスを、リリーとスピカは笑いながら見ていたが、
『……スピカお姉さま、教えていただきたい事があるんです。エヴァン様と、オリヴィア様の事で……』
リリーがそう言うと、スピカは『ええ』と悲しそうに頷いた。
『昨日の事があって、わたしもあなたに話さなきゃいけないと思っていたところだったの。ただ、話せる事はそう多くないと思うわ。だってわたし、あなたみたいに人の言葉がわかるわけじゃないから。……そう、わたしに人の言葉がわかったら、もう少し、オリヴィア様のお力になれたんでしょうけど……』
そう言って、スピカは少しの間目を閉じ、決心したように話し始めた。
『わたしはオリヴィア様がまだ学生で、ご実家の男爵家にいる時に飼われ始めたの。オリヴィア様は外出があまりお好きじゃなくて、リュカ様がたまに会いに来ていたわ。でも、オリヴィア様はあまり嬉しそうじゃなかった。どうせ自分はつり合わない、とか、親同士が決めたから、とか言っていた』
『オリヴィア様はリュカ様の事、あまり好きではなかったんでしょうか?』
『というより、自分に自信が持てなかったんじゃないかしら。オリヴィア様には、歳の離れた姉と妹がいて、二人ともとても、人にちやほやされる容姿をしていたの。それでしょっちゅう、自分たちの方がリュカ様に似合っているのに、と大人しいオリヴィア様に言っていたわ。お父上様だって、お前のような普通の容姿でなんのとりえもない娘が伯爵家に嫁げるのは私のおかげだとか。わたしはあまり難しい言葉はわからなかったけれど、オリヴィア様はいろいろと言われていたわ』
『ひどい! 家族なのにそんな事言うなんて』
『それにリュカ様もねぇ……』
スピカが、溜息混じりに言う。
『今とは全然違っていたの。会いに来たといっても、ただ黙ってお茶を飲んでいくような感じで。感情が無いというか、面白味がないというか、気が利かないというか、優しさが足りない? つまり、女心がわからないのね。オリヴィア様は、自分が愛されていると思っていなかったわ。実際リュカ様は、オリヴィア様を大切にしていたと思うけど、愛とは違っていたんじゃないかしら』
酷い言われようだが、以前エリナに聞いた話を思い出し、リリーは妙に納得した。
『そんな感じで数年経ったの。お姉様が結婚して家を出て行って、次はオリヴィア様、となった頃、ちょっと変化があって。オリヴィア様が明るく、表情がキラキラしてきたの。お姉様が居なくなって、嫌な事を言われる事が減ったからかと思ったのだけれど……ある日、オリヴィア様に連れられて行った先に、あの男がいたわ。リュカ様の弟の、エヴァン』
スピカの顔つきが険しくなる。牙を剥き、低く唸る。
『あの男は、自分の兄の婚約者と付き合っていたの。彼はリュカ様とは違って、陽気で、たくさんほめてくれて、愛していると囁いて、オリヴィア様は本当に嬉しそうで、彼に夢中になっていた。自信を持ち始めて、流行の髪型、最新の化粧、目立つドレスで、それまであまり行こうとしなかった夜会に出かけるようになったの。帰ってきたオリヴィア様からは、決まって、あの男の匂いがしたわ』
予想していた事ではあったけれど、実際に聞くとその事実は重く、辛い事だった。
『でもわたし、オリヴィア様が幸せならそれでいいと思ったわ。人を好きになる気持ちは、抑えようがないもの。オリヴィア様の心が変わったのは、リュカ様がちゃんと愛情を示さないせいだから、オリヴィア様はちっとも悪くないとまで思っていた』
『お姉さま……』
以前、リュカの事が気になっていた自分に『好きになるのは自由。好きになる気持ちはどうしようもない』と寂しげな表情で言ったスピカを思い出す。
『冷静に考えてみれば、うまくいくはずがないのに、どうして良いようにしか考えられなかったのかしらね。オリヴィア様が懐妊した事がわかってすぐ、あいつは侯爵家の娘と婚約したわ。オリヴィア様が部屋に籠って泣き叫んでいるのを、わたしはただただ、見ている事しかできなかった。両家の親とリュカ様に、ちゃんと話してくれると言っていたのに、って、ずっとずっと、泣いていたわ』
『裏切られたんですね、エヴァン様に』
『そう。というか、あの男は最初から、耳に心地よい嘘の言葉を並べていただけだったんでしょうね。真心は、無かったんだと思うわ』
『それから、どうしたんでしょう』
リリーの問いに、スピカが首を横に振る。
『詳しい事はわからないわ。予定通り、リュカ様とオリヴィア様は結婚をし、わたしはオリヴィア様についてこの屋敷に来たの。あの男は、さすがに気まずかったのか、すぐ侯爵家に婿に入ったらしいわ。結婚してからオリヴィア様は長い間、リュカ様を避けているようだった。周りの人達は、『妊娠や出産で情緒が不安定になったのだろう』と理由を付けていたけれど。そしてリュカ様も、あまりオリヴィア様とは係わりをもたなかったの』
『リュカ様は、ミッシェル様は自分の子供じゃないと知っているかのでしょうか』
『どうかしら……でも、ミッシェル様がお生まれになったのは、本当に喜んでいたわ』
『そうですか……』
今も、リュカはミッシェルをとても可愛がっている。
『お姉さま……お姉さまは、オリヴィア様を殺害したのは、既に処刑された強盗だと思ってらっしゃいますか?』
『えっ?』
『実は昨日、エヴァン様がわたしに向かって、お前も殺されたいのか、って言ったんです』
『どういうこと?』
リリーとスピカは、それまでよりもぴったり寄り添って話を続けた。
『わたしがリュカ様の恋人と知って、エヴァン様は自分と関係をもつよう誘ってきたんです。勿論わたしはそれを拒否して、エヴァン様よりリュカ様の方が素敵だって当然の事を言ったら怒りだしちゃって。で、『お前もそういう事を言うのか、お前も殺されたいのか』という感じの事を言って……だからわたし、エヴァン様はオリヴィア様にもそういう事を言って、拒絶されたのに腹を立てて、オリヴィア様を殺したんじゃないかって思って……』
そう言って見ると、スピカは物凄い形相で呻っていた。
『やっぱりあの男だったのね! あの日、冷たくなったオリヴィア様から、微かにだけどあの男の匂いがしたのよ。年をとってあまり鼻が利かなくなってきたけど、あの男の匂いだけはわかる。昨日も、すぐにわかったわ!』
『ええ! さすがです! 助かりました、お姉さま!』
地の底から響くような低い呻り声を上げ続けているスピカにビクビクしながらあいづちをうち……、
『わたし、これからちょっと出かけてきます』
リリーはスクッと立ち上がった。
『どこへ出かけると言うの?』
『オリヴィア様が生前行っていた薬屋さんです。そこから猫を貰う約束をしていて、なんやかんやあって、わたしはここに来たんです。そこで話を聞きたいんです』
『ここから遠いんじゃない? ご主人様に言って、明日連れて行ってもらったら?』
『いえ、リュカ様には内緒で聞きたい事があるので……』
『そう……ちょっと心配だけど、あなたならきっと大丈夫ね。気をつけて行くのよ』
『はい。行ってきます』
トトン、と軽い音を立ててソファーから飛び降り、リリーは小走りで外を目指した。




