2 猫でよければ
薄暗い部屋。
壁にたくさんの花や草の束が吊るされ、据え付けられた大きな棚には、小さな瓶がずらりと並んでいる。
(……薬屋さん?)
ぼんやりとそんな事を考えながら辺りを見回すと、部屋の中央にあるテーブルに黒髪の女性がいるのに気付いた。
長い、ゆるやかなウエーブの黒髪、大きな黒の瞳、黒のシンプルなドレス。年齢は、30歳前後くらいだろうか。黒ずくめで、唇だけに鮮やかな紅が塗られたゴージャスな感じの美人だ。
(わたし、どうしたんだろう。ここは……どこ?)
そんなことを考えていると、
「おや、気がついたかい」
女性が話かけてきた。
「早速だが。猫でいいなら生き返らせてあげられるが、どうする?」
『……はい?』
思わず聞き返したが、なんだか変だ。
自分の声が、遠くから聞こえるような気がする。
いや、声だけじゃない。
何気なく下を向いたときに視界に入った自分の手が、
『す、透けてる?』
ゾッとし、慌てて視線を女性へと戻した。
『あ、あの、わたし、一体……』
「何があったのか覚えていないのかい? 名前は言えるかい? 覚えている事は?」
そう言われ、泣きたいほど不安でしょうがなかったが、少しでも落ち着こうと深呼吸を繰り返す。
どうやら自分は、女性と向かいあっているらしい。ただ、身体の感覚がない。
『わ、わたしはリリー。マグノリア孤児院の出身の18歳で、パン屋に勤めています。きょ、今日は、配達に出て、孤児院で一緒だったマーガレットに会って、一緒にお昼を食べて……』
「うんうん、それで?」
『そ、それで、マーガレットと別れてから、お店に戻ろうと歩いていたら、何か……』
そう、何かを見た気がする。
何か、良くないものを。
『……あ……道の真ん中に黒猫が……馬車も通るから危ないと思って……すぐ近くに別の黒いものも見えて……ああ、子猫が怪我をしたか死んだかで、母猫がその場から動けないでいるんだって……それで心配になって見ていたら、ものすごいスピードで馬車がやってきて思わず……』
思い出し、リリーは大きくため息をついた。
『わたし、道に出ちゃったんだ。それで馬車に……』
「正確には馬に蹴られてしまって、残念ながら亡くなったわけだ」
『……そう、ですか……』
ショックだった。
自分は死んでしまったのだ。
あんなに幸せな気分になり、未来に期待もしていた直後に……。
「で、その猫がこれ。子猫はすでに死んでしまっていたけれど、母猫の方はあんたがかばってくれたおかげで怪我ひとつせず、無事だった」
見るとテーブルの端に、ほっそりとした黒猫が座っている。
真っ黒でビロードのように光沢のある毛並みで、宝石のような緑色の瞳のとても綺麗な猫が、まるで人間の言葉が判るかのようにニャーンと鳴いて頭を下げた。
そしてその横には、布に包まれ、眠っているように見える小さな小さな子猫。
「実はこの猫、わたしの猫なんだよ。悪かったね、あんたには迷惑をかけてしまった」
『あ、いえ……わたしが勝手に飛び出したんだし……お母さん猫だけでも無事で良かったです』
そう。せめてそう思わなければ、自分の死が無駄になる。
リリーは自分を無理矢理納得させ、ギュッと目をつむった。
泣きたくても涙が出てこないのは、体が無いせいだろうか。
『あのぉ……ところでわたしは今どうなっているんでしょうか』
「魂だけがこの世に残っている状態だね。それで、最初にも言ったが、猫でも良ければホレ、この子猫の体にその魂を入れ、生き還らせる事ができるが、どうする?」
『ええと……どう、しましょうか……』
なんと答えてよいものか……。
リリーは思わす、尋ね返してしまった。
女性は、カミーユと名乗った。
「今のあんたは、魂だけの存在だ。体の方は残念ながら完全に破壊されてしまった。で、この子猫だが、これは逆の状態でね。体はそれほど損傷がなく修復可能だが、魂はもう、この世のどこにも無い。道の真ん中で怖くなって動けなくなったところで、走ってきた馬車の車輪にぶつかってしまったらしい。その時の恐怖とショックで、魂が先に死んでしまったのさ。と、いうことで……うちの猫が迷惑をかけたんだ、あんたが望むのなら、あんたの魂をこの体に定着させてやれるがね。どうする?」
そう言われても、正直、どうしたらいいのか分からない。
『あ、あの……そうすると、わたしは猫として生きていくって事ですよね、これから先』
「そうだね」
『記憶はどうなるんですか? 気持ちとか、完全に猫になるんでしょうか』
「おそらく魂と体が馴染んでいく過程で一時的に記憶が薄くなり、徐々に戻ってくるだろう。……まあ、いろいろと不安はあるだろうが、あまり時間がないから決断は早めにしておくれ。あんたの魂、どんどん薄くなってきているからね。そのうち、消えてしまうよ」
そう言われ身体を見ると、最初より透明度が増しているようだ。
『あああああっ、やだ、大変! どうしよう! じゃ、じゃあ、決めます! でも最後に一つだけ! 猫としての生活の保障はあるんでしょうか!? ここに置いてもらえるんですか?』
「ここには置いてはやれないが……大丈夫、寒さや飢えとは無縁の、安定した生活を保障しよう」
それを聞いて、リリーの心は決まった。
『お願いします! これで人生終わりなんて嫌です! 猫で、幸せになります!!』
寒さや飢えとは無縁の猫生活は最高だと思うけれど……さあ、どうなるか!