8 家というより
終業式が終わると、木葉学と須理戸琉歌、真聖菊と幡田太平の四人は、体育館の横で立ち話をした。
「確かに昨日、琉歌は電車に轢かれたのよね」
「そう、兄木に襲われて、それで電車から飛び降りたところまでは覚えてるんだけど」
琉歌は、悩ましそうに腕を組んで目を閉じた。学も納得できない。
「轢かれたよ絶対。警官の聴取まで受けたんだから」
「僕もだぞ。さすがにゾッとしない光景だった。何か、他にも人がいた気がするが、覚えているか学君」
「なんか、ぼんやりと。いたような、いないような」
「大事なことなんだから、しっかり思い出したまえ」
「お前も忘れたんだろ。助けにも来なかったくせに」
「お前って言うな!」
「うるさい!」
菊に一喝されて、二人は口をつぐんだ。
「朝、琉歌に相談されて私も調べてみた。確かに事故はあった。ニュースにもなってる。でも、死んだのは全然別の女の子よ。犠牲者は琉歌じゃないし、目撃者もあなた達じゃない」
「それってどういうこと?」
「いくつか考えたことはあるけど、今話すのはやめる。あとでじっくり整理した方がいいわ。琉歌と太平は面倒だけど、五時に玄関ホールに来て」
「僕は?」
学が菊に聞くと、すごい勢いで睨まれた。
「パート練習。誰のためか分ってる?」
「たぶん……」
「今日こそ、ちゃんと合わせるのよ」
菊は特別に許可を貰って終業式の今日も練習するようだ。学はげんなりとした。
「頑張ります」
「あたり前よ」
そこから五時までは鬼気迫る時間だった。灼熱の音楽室で、学だけでなく、聡志やユーフォニアムの吉田と峰藤も徹底的に反復練習をさせられた。まさにそれは「徹底的」だった。
全員汗だくで、ヘトヘトになっている。菊も同様だ。日本人形のような髪がほつれてすごい形相になっていた。
「じゃあ、みんな、やるからにはやるのよ!」
その一言でようやく練習から解放された。学は「ミスター・ベースマン」は当分聴きたくないと思った。
時刻は五時五分になっていた。二人が急いで玄関ホールに行くと、琉歌と幡田太平が話していた。どうやら幡田が琉歌を何げなく口説いているようだが、琉歌はうんざりした表情だ。
(ざまあみろ)
「ごめん。遅くなった。どこか静かに話せるところに行きましょう」
「そうね。ファミレスとか?」
「あそこは人が多くてうるさいからダメ」
菊が首を振る。幡田が学の横で、大げさに顔をしかめた。
「それより、学君。その汗臭い体をどうにかしろ!」
「そんなこと言ったって無理だろ。これは努力のあかしだ。ただぼんやりしてたお前が言うな」
「お前って言うなと言っただろ。幡田君と呼ぶべきだ」
「でも、菊ちゃんも確かにちょっと……」
菊は、はっとして自分の制服の臭いを嗅いでみた。そして、わずかに顔を赤らめる。
「自分では分からなかった……」
「そうだ、スーパー銭湯に行こう! あそこなら汗も流せるし、休憩室で話もできる」
幡田が珍しく前向きな提案をしたが、学は首をかしげた。
「スーパー銭湯? うーん、この時間だと静かに話ができるかな」
「困ったわね」
そこで、菊はじっと目をつむって考えていたが、不意に話し始めた。
「そういうことなら、私の家に来なさいよ。お風呂もちゃんと二つあるわよ」
「お風呂が二つ?」
学が聞くと、菊はしっかり頷いた。
「そう二つ。露天風呂もあるわ」
「実家がお風呂屋さん?」
「違うわよ。来ればわかるわ」
それは、一般の基準から言って、家とは呼べなかった。普通はお屋敷と呼ぶだろうが、それでも何かイメージと違う。強いて言えば和風旅館、それも超豪華な旅館に見えた。
本格的な日本建築の家構え。ぐるりと囲む立派な塀と凝った作りの大きな門、広大な中庭、橋の掛かった錦鯉のいる池、いくつ部屋数があるのか分からない二階建ての本屋、多数のはなれ……。
門をくぐった学、琉歌、幡田の三人は、無言でしばらくその光景に圧倒されていた。金持ちだとは聞いていたが、ここまでとは思わなかったのだ。自称・金持ち息子の幡田もその差に圧倒されているようだ。
「お姉ちゃんお帰り! あれ、みんなも来たの?」
玄関から私服の真聖萌夏が走ってきた。Tシャツにショートパンツというラフな格好だ。この日本建築の豪邸には実に不釣り合いに見える。シャンプーのいい香りがする。
「そうよ。ちょっと相談事があってね」
「そんなんだ。うわっお姉ちゃん汗くさっ!」
「それは分かってる! 声が大きいのよ、あなたはいつも」
「ごめんなさーい」
「まったくもう」
彼らが古風な玄関をくぐると、和装の上品な老女に出迎えられた。
「おかえりなさいませ、菊お嬢様。そちらの方々はご友人方でございますか?」
「そうよ。ちょっと奥の間を借りるから。それから面倒だけど、ヨシさん、お風呂二つとも使えるようにしてくれる?」
「はい、今、津弓お嬢様が片方を使われてますが、もうすぐ出られると」
「津弓姉が帰ってるの……」
菊は少し嫌そうに言った。姉妹で喧嘩でもしているのだろうか。学たちは菊に導かれ、長い長い廊下の先の部屋に案内された。何人か使用人らしき人がいて、すれ違うたびに丁寧に挨拶していく。
四人が部屋に入ると、すかさず上等なお茶と茶菓子が出てきた。クーラーはなく、天井に据え付けられた扇風機だけだが、開放的な日本建築なので、暑さは感じない。風鈴の音と蚊取り線香の臭いがかすかにする。
「死んだ祖父が大の風呂好きだったの。それでお風呂を二つも作ったってわけ。まったく、道楽者よ」
広い畳の部屋に他の三人は慣れず、落ち着かない気分だった。その腰の落ち着かない雰囲気のまま、いきなり襖が開いたかと思うと、バスローブを着た女性がずかずか入ってきた。
「聞いたわよ、菊。ボーイフレンドを連れてきたんだって? それも二人。あんたもやるじゃん。さすが私の妹だわ」
「津弓姉と一緒にしないで。また、そんな恰好で出てきて。それにこの二人がそう見えるの?」
「うーん、良くて中の中と、中の上ってとこね。あなたはもっと面食いだから違うのか……おっとゴメンゴメン」
学と幡田は酷いことを言われたが、その女性に見とれていた。バスローブの上からでもわかる豊満な体、アップライトにした薄い栗色の派手な髪型、大きな赤い唇。まるで色気の塊のようだ。目つき以外は菊と全く似ていない。琉歌が密かに目線を下げたのに二人は気づかない。
「じゃあねぇ、ゆっくりしてってよね」
そう言って笑いながら真聖津弓は出て行った。
「彼女が次女の津弓姉。もう一人、長女の祝姉さんがいるけど、体が弱くて普段はずっと部屋で休んでいるわ。今はだいぶ良くなって心配はないけど」
「とにかく似てない姉妹だということは分かりました」
「それはどういう意味?」
「いや、別に深い意味は……」
余計なことは言わない方が良さそうだ。
「あの菊、ちょっとトイレを借りたいんだが」
幡田が菊に言った。
「ここから遠いわよ。そこの廊下を出て右に曲がってまっすぐ行って左の突き当り」
幡田はなかなか帰ってこなかったが、三人は黙って待っていた。考えることが多すぎる気がした。
「やあ、ゴメンゴメン。じゃあ、お風呂に行ってさっぱりしようじゃないか!」
ようやく戻ってきた幡田だけは、いつもの調子だった。