7 パンタグラフ・ダンシング
ひどく強い風が吹いている。学は一瞬状況が分からなかった。
「うわっ、つっ、何だ?」
「おちついて木葉君。空間をすり替えたの。ここがどこか分かる?」
学は辺りを見回して、力無く呟いた。
「ひょっとして電車の上?」
「その通り。しばらく、隠れなきゃね。実は、あいつとやり合えるような力はないの」
「えっ」
「つい無理しちゃって」
学と琉歌は、互いに手を握り合って、電車の上に伏せていた。学は、琉歌の顔をのぞき込んでみた。学校では何度もすれ違ってはいるが、こんなに近くで見たことはない。とても明るい瞳だ。これが電車の上と言うことが悔やまれてならなかった。そんな事を言っている場合ではないのだが。
「須理戸さん、あの……」
「待って、詳しいことはまた後で話すから。とにかく次の駅まであと少しだから、じっとしてて」
学は頷いた。とてつもなく厄介なことになったのは分かったが、琉歌とこうして身を寄せ合えるなら、どうでもいい感じだった。学がそう思って視線を移すと、頭上にぼんやりとした光が見えた。
「あれはなんだろう」
「えっ?」
空に何か不審な塊が光っていた。それは唐突に落ちてきた。
「わっ!」
学は、体を横に転がしてそれを避けた。琉歌も同様にしてかわす。学はバランスが崩れて、電車の上から振り落とされそうになった。パンタグラフが風を切って嫌な音を出している。
「木葉君、それが兄木の本当の力よ!」
「そのとおり。殺す」
兄木がその塊につかまって電車の上に現れた。それはちょうど中型犬くらいの大きさと形だ。おそらく、これがブラック・コヨーテの由来だろう。彼は、何だかよく分からない灰色の塊を自由に操作できるのだ。しかも、その上にも乗れるらしい。
(しかし、何でコヨーテなんだろう。ジャッカルやハイエナでもいいような。しかもどちらかというと色はグレーだし)
学の素朴な疑問を無視するかのように、その塊が一直線に向かってきた。学は、他にどうすることも出来ず、思わず目をつむった。
「逃げて学君!」
琉歌の声に学が目を開けると、兄木の真横に座っていた。琉歌がまた空間を入れ替えたのだろう。しかしどうせなら、離れた位置に逃がして欲しいところだった。学はびっくりしたが、それは兄木もどうようだった。
「てめっ!」
虚をつかれたコヨーテの表情を、学は見逃さなかった。
「どあああああ!」
「うおおっ」
学はチューバで鍛えた肺活量を生かして、密かに拡声器以上と自負している自慢の大声を張り上げた。この殺傷能力ゼロの攻撃方法は意外に効き目があった。兄木は驚いてバランスを崩し、電車から振り落とされた。
「助かった!」
「まだよ!」
兄木は、なんと灰色の塊につかまっている。
「反則だ!」
学の抗議に、兄木は憤怒の形相で怒鳴り返す。
「このくそガキどもォ!」
「須理戸さんもう一回」
「残念だけど、この力を使えるのは一日二回までなのよ」
「ほんとに?」
琉歌は電車にしがみついている。どうやら、彼女にこれ以上期待してはいけないようだ。学は幡田が助けに来る事を一瞬考えたが、それは突然地面が割れるよりあり得ないことだ。自分で何とかするしかない。
(一体どうしたらいいんだ!)
学は絶望した。兄木は彼の少し前にゆっくりと降りた。片膝をついて学を睨み付ける。灰色の塊が兄木の前に移動した。狙いを定めるように、慎重に角度を変えて揺れる。電車にしがみついている学は、動くこともままならない。
(だから、応用をきかせろというのだ)
塾の酒井先生の言葉が、不意に学の頭をかすめた。兄木は、進行方向に向かって逆向きに膝をついて立っている。琉歌は、何とかしようと近づいてくるが来ても危ないだけだ。
(僕はもう一度飛べるだろうか。いや、止まるだけでいいんだ)
「くらえ!」
不気味な灰色の塊は円錐形に形を変え、すさまじい勢いで放たれた。その勢いで形は歪んで、ほとんど直線になった。
「ええい!」
学はその場で思い切りジャンプした。塊が右足のスニーカーをかすめる。だが、彼はそのまま空中にピタリと止まった。結果、高速で走っている電車は、兄木の体を学の場所まで一瞬で運んだ。
「何だと!」
空中に静止している学は、ちょうど兄木の顔面に膝蹴りをたたき込む形になった。
「がぁあぁ!」
さすがの兄木もこれに直撃され、悲鳴を上げながら電車から吹っ飛んだ。
「見事な応用力」
だが、学は進歩していなかった。その場に浮いていられたのは、ほんの一瞬である。彼はパンタグラフに当たる直前に落下して無様にごろごろ転がった。それを琉歌が止めようと、飛びついて来たが勢いは止まらない。
「落ちる!」
気がついたときには、彼の下には何もなかった。しがみついてきた琉歌と一緒に落ちている。
(止まれ!)
落ちる速度がわずかに弱まる。しかし、まだ止まらない。
「止まれって!」
学は絶叫した。
「不幸にも今回は何もできなかったのが残念だが、先ずは助かっておめでとうと言っておこう」
電車の脇の草むらで、しばらく夕焼けを見上げていた木葉学と須理戸琉歌を不意にのぞき込む影があった。幡田太平である。
「まあ二人とも助かってよかったよかった。僕は心配したよ」
二人はそんな幡田を冷め切った視線で見つめた。幡田はそれでも、笑っている。どういう神経だ。
「でも本当に成功してよかった。最後はさすがにダメかと思った。須理戸さんと一緒に止まれるなんて」
何か言おうとした琉歌を、幡田が遮る。
「須理戸君、君は少し無鉄砲すぎる。俺がどれほど心配したか」
琉歌は珍しく意地悪そうに笑った。
「そして幡田君は、少し臆病すぎるってわけね」
幡田は、非常に無理をして笑顔を作った。琉歌と学は顔を見合わせて笑った。
「はっはっはっ、これは参ったな。なかなかキツいジョークを言うね」
幡田も無理して笑った。学は呆れるのを通り越して、疲れる人生だろうと幡田に同情した。
「木葉君、これから時間ある? 約束通りちゃんと話すから」
「時間はあり余ってます」
「よーし、決まりだ。行こうか」
「なんで幡田君まで来るの」
学はようやく詳しい事情を話してもらえると聞いて、ホッとした。その時だった。
三人の前に一人の男が立っていた。
「あなたは誰――」
男は最後まで言わせなかった。
「須理戸琉歌、警告二回。理由は、大衆の面前での行使。よって、君は消去となる」
暗がりで見えにくかったが、学はこの前の警察官と似ていると思った。
「木葉学、幡田太平、今回は注意のみとする。お前達は衆人の面前ではそれと分からなかった。だが、全員拘束する」
三人は体が硬直するのを感じた。須理戸琉歌の、めいっぱい開かれた目。それは純粋な恐怖を宿している。
「執行だ」
琉歌の体がゆっくりと宙に浮かんだ。悲鳴を上げることもできないようだ。彼女の体は、ゆっくりと線路の上に移動された。鈍色の線路のちょうど真ん中、枕木から約三十センチ上に琉歌が浮いている。学は、電車が来る気配を感じた。
(須理戸さん)
学は、全く動けない。瞬きさえもできないので、目に涙がにじむ。幡田も同様だ。
今や、はっきりと電車が迫ってくる音がした。学の視界に、電車の鋭いライトの光が飛び込んできた。低いうなり声を上げて、巨大な弾丸のような電車が突進を続ける。激しい警笛。
(須理戸さん、逃げて!)
学の全身の肌が粟立っていた。電車が急ブレーキをかける。
(須理戸さん!)
警笛が高く鳴って、時間が止まる。
何も聞こえなかった。琉歌は電車に弾き飛ばされ、学の視界から消えた。電車が緊急停車する不快な金属音が耳をつんざく。
(あ……)
思考が停止した。どさり、と音がした。琉歌の体の一部が、地面に落ちたのだろうか。
気が付くと、男の姿はなかった。幡田も真っ青な顔をしている。二人はしばらく呆然と座り込んでいた。
× × ×
「よし、今日はもう帰ってもよろしい。後日、また連絡する」
警察官はそう言った。学は自分でも何を喋ったのか分からないまま、辺りを見回した。穏やかな住宅地帯に、パトカーや救急車が喧噪を作り出している。さっきまでそこにいたはずの幡田の姿も見えない。勝手に帰ったのだろうか。
(もうどうにでもなれ……)
学は家に帰ることをぼんやりと思い出した。
翌朝、学は一睡もできなかった目を腫らしながら、家を出た。昨日のことをスマホで調べる勇気もなかった。彼の両親はあれこれ尋ねたが、学は答える気がしなかった。気持ちが落ち着くまで何週間、いや、何年もかかるかも知れない。彼は考える気力を無くして、ふらふらと学校に向かった。今日は終業式だ。
(須理戸さんのことは、みんなもう知っているのだろうか)
知らないはずはない。学は幽霊のような表情で、教室に入った。そこに信じられない者を見て、目を見開いた。
「おはよう、木葉君。今日の放課後、時間ある? 菊ちゃんにも色々聞きたいし」
須理戸琉歌が立っていた。昨日と同じ、明るい瞳と声だった。
「木葉! お前、まさか」
「聞いた? 須理戸さんが木葉君を……」
クラスメイトの冷やかしやささやき声は聞こえるはずもない。あんぐりと口を開いたままの学に、琉歌は実に健康そうな足取りでつかつかと近寄ってきた。
「それでね木葉君、実は前から一つ言いたいことがあったの」
琉歌は、少し拗ねたような顔をした。
「酒井先生に聞いたけど、私が男だっていうのはあんまりじゃない?」