4 襲い来るカレーとか
木葉学は、いつも乗っている普通電車に一人で乗り込んだ。タイミングよく学は座ることが出来た。彼は、夜更かしするタイプではないので、睡眠は十分とっている。だが、座って一分で幸せそうな眠りに落ちた様子は、人間という生き物の神秘を感じさせた。
案の定学は乗り過ごしそうになって慌てて駅から降りた。明るい夕焼け空が広がっていた。そういえば、今日母親は職場の送別会で遅くなるらしいし、父親はそもそも出張中だ。
「一人ってのも悪くないな。まあ、夕飯はカレーだろうが」
昨日の夕食がカレーということは、今日もカレーが継続されるということだ。そんなに料理好きではない母親なので、それは断言できる。最大四日続いたこともある(最後はカレーうどんに変わる)。
(しかし、菊も変わったことばかり言うな。何に気を付けるんだ?)
学はゆっくり歩いて、二十分程で自宅に着いた。電気機器のメンテナンス会社に勤める父親が、無理して買った一戸建てだ。どこにでもあるデザインのクリーム色の建売住宅で、一階にはリビングと風呂、トイレと小さい和室、二階には学の私室と夫婦の寝室、物置になっている六畳の部屋がある。
「ただいま~」
学は習慣でそう言ってから、鍵がかかっていないことに気が付いた。
「まったくズボラな親だよな」
学は中に入って鍵を閉めると、廊下の先にあるリビングに向かった。リビングは食事用のテーブルも含め十二畳ほどの部屋だ。ドアを開けると、テーブルの上の冷めきったカレーと、その前に座っている一人の男が見えた。
「あんだ、ただのガキじゃん。ボスにも困ったもんだ。こんなのほっときゃいいのに」
呆然としてカバンを落とした学は、思わず聞いた。
「まさか、強盗?」
強盗に向かってそう尋ねてどうするつもりか分からないが、学の目の前に立っているのは、やっぱり強盗に思えた。
男はダメージジーンズに狼っぽいイラストがプリントされたTシャツを着ていた。髪は茶色でしかも逆立っていて、細いサングラスをかけている。眉毛がほとんどない。特徴があり過ぎる格好だが、とりあえず学の頭の中には「破れジーパン」という単語が浮かんだ。
「おいお前、今すぐ俺達のチームへ入れ。答えはイエスだけだ」
「なんのことです。強盗じゃないんですか? あなたはいったい……」
学はそう言って逃げる隙をうかがったが、男は油断なく睨み付けてきて隙が全く無い。しかも、右手でナイフを弄んでいるのに気が付いた。
(何でこんな日に送別会なんだよ!)思いついたのはそんなことだけだった。
「へへ、いいだろう。名前ぐらい教えてやる。俺は兄木丸雄、ロックバンド<ブラック・コヨーテ>の兄木ってんだぜ。ゴキゲンな名前だろ。その冴えないおつむに叩きこんどけよ」
(余計なお世話だ、破パン!)
学は、精一杯冴えないおつむの中で反抗したが、声には出せない。
「何だよお前、答えられねえってのか? 俺は気が短いんだよな」
それは見れば分かる。男は立ち上がって、イライラとナイフを振り回した。学は何とか時間を稼ごうとした。
「名前はわかりました。それで基本的な質問で何ですが、そのチームってなんでしょう。ひょっとして暴力をふるったりするんじゃないですよね」
「そんなチンケなもんじゃねえ。俺達は本気でヤルんだぜ。へへへ」
何を本気でやるのかは分からないが、バドミントンではなさそうだ。学は焦った。兄木の眼は、どうやら正真正銘本気色だ。
「あの、まあ、何というか、誠に心苦しく感じるのですが、その、お仲間になるには、少々僕は実力不足の感があり、深層的心理と言おうか健全な青年の主張というかその辺りの感じとしては、どうもこれはあまり好ましくないんじゃないかと、思えないような気がするなぁって、はははは」
遠回しに言ったつもりだったが、兄木の目の色はすぐに変わった。案外理解力はあるようだ。
「へへ、へへへ。お前は俺の話は聞けねえ、イヤだっつってんだな」
「あの、だからですね」
「言ったよな! 答えはイエスだけだって!」
兄木は、ぺろりと薄い唇をなめた。
「ホント、死ぬよ。お前……」
次の瞬間、時間で言えば一秒くらい間はあったが、突然、兄木はテーブルを飛び越え、ナイフを構えて躍りかかってきた。学はとっさに避けたが、テーブルの足に脛をぶつけて派手に転んだ。その拍子に、卓上のカレーが頭の上に落ちてきた。冷めて固くなったカレーが頭の上にご飯と一緒にバラまかれる。
「ラップぐらいしとけよ!」
学はそのことに心の底から怒りがこみ上げてきた。おかげで恐怖心が薄れていく。逃げ場がない以上戦うしかない。兄木も学に避けられてよろめいていたが、すぐに態勢を立て直す。学はその隙にキッチン側に逃げた。
学は必死に投げつけるものを探し、シンクの上にあった食器洗剤を投げつけた。しかし、それはポコンと軽い音を立てて兄木の肩に当たっただけだ。
(補充ぐらいしとけよ母さん!)
「てめぇ、怪我ぐらいじゃ済まなくなるぜ……」
シンクの横には薄いプラスチックのまな板ぐらいしかない。その下の引き出しには包丁があるはずだが、学が開けてみると見事に入っていない。どこにやったのかは分からないが、彼はどちらかというと、母親の方に怒りが傾いてきた。
兄木は油断なくテーブルをよけ、学に襲い掛かるタイミングを計っている。
そこで、学は閃いた。となりの冷蔵庫の中には、コーラのペットボトルがあるはずだ。学はとっさに冷蔵庫を開けると、ペットボトルを引き抜いた。それも空だった。
その瞬間、兄木は飛び掛かってきた。学は無我夢中で冷蔵庫に入っていた豚肉のこま切れパックを投げつけた。ダメージはなかったが、それは兄木の体に当たり、微妙に狙いがずれて突き出されたナイフが冷蔵庫に当たり、はじけ飛んだ。
「もう許せねぇこのクソガキ!」
学は冷蔵庫に体を押し付けられて、いきなり首を絞められた。兄木は本当にキレたのか、首を絞めながら、学の頭を冷蔵庫に何度も打ち付ける。
(ああ、須理戸さんと一度、デートがしたかった)学は薄れ行く意識でそんなことを考えた。
突然、大きな音がして、冷蔵庫の上に無造作に積まれていた「もらい物」が落ちてきた。「高級海苔缶セット」「特選醤油」「サラダ油の詰め合わせ」「プレミアムビールセット」「紅白タオル」「白箱入りそうめんの五年物」……。
それらが次々に学と兄木の頭にぶつかった。ラッキーだったのは「ビール」と「油」、「素麺の木箱」が兄木に当たったことだった。ちなみには学には「海苔缶」と「紅白タオル」と「特選醤油」が当たった。「特選醤油」はけっこう痛かった。
「てぇ!」
兄木は思わず頭を抱えて、その場にうずくまった。学はそこで初めて、警察に電話をすることを思いついた。ポケットにはスマホがある。
「逃がさねぇぞ」
すぐに回復した兄木はさらにつかみかかろうとした。学はそこでリビングへ飛んだ。
約四歩の空中浮遊。兄木はその動きを予想できず、派手によろめく。学はリビングのソファーの上に転がり落ちる。すぐに、起き上がってスマホを取り出した。
「そうか、そういうことか。じゃあ、俺も本気を出すしかないな」
兄木は右手を学に向けて、ニヤリと笑った。次の瞬間、学の頭に何か固いものが激突して、スマホを取り落とした。意識がもうろうとする。何をされた?
「もう一発であの世にも行けるぜ?」
その時、リビングのドアが開いて、一人の男が入ってきた。
「私はそこの交番のものです。パトロール中でしたが、何か激しい物音がしたので失礼ですが勝手に家に入りました。間に合ったようですね。不審者め、お前を暴行の現行犯で逮捕する」
そう言うと、いきなり兄木の手を掴んで手錠をかけた。少し意識が戻ってきた学は、その非現実的な光景をぼんやり見ていた。
「大丈夫ですか、君」
眼鏡をかけた若い警察官はそう言うと、暴れる兄木の耳元に口を寄せ、何かを囁いた。その途端、兄木の顔が青ざめ、静かになった。
「この男は私が連行します。もうすぐ、応援の警官が来るから、後のことは彼らに任せなさい。救急車も呼んであげようか?」
「とりあえず、大丈夫そうです」頭にコブはできていそうだが。
「まあ、念のため病院に行った方がいいだろう。では、少し待っていなさい。それに、君もなるべく使わない方がいいな」
それだけ言うと、若い警察官は兄木を引っ張って出て行った。
しばらくすると、本当に警察官が来て、詳しい事情を聴かれた。とりあえず母親にも連絡した。三十分ほどで帰ってきた母親は警察官と話をしている。
学は頭についたカレーを風呂場で洗い流した。確かに大きなコブになっている。しかし、本当に何を投げつけられたのだろうか。
そこで学は、玄関の鍵を確かに掛けていたことを思い出した。