2 灼熱と日本人形
七月の吹奏楽部の練習は、灼熱の地獄だ。比較的涼しい地方の盆地の丘に建つ北倉高校だが、音楽室は女子高生の熱気でむせ返るようだった。総勢五十名あまりの部員が詰め込まれた音楽室の窓を全部締め切って合奏練習を行っていたからだ。受験生の勉強を妨げてはいけないというのがその理由だが、それにしても暑い。
熱中症の件もあってクーラーは設置されているが、人数に対してあまりに小型すぎた。ほとんど冷気を感じることができない。
(単にこの学校に金がないだけじゃないだろうか)
木葉学は休憩時間になったので、汗をタオルで拭きながら楽器を置いた。彼の楽器はチューバといって、金管楽器の中では最も大型だ。細いパイプが何度もループした先に大きいラッパが付いているような構造。メロディやソロがほとんどない低音部、重い、でかいといった理由で、新入部員にはだいたい不人気な楽器だ。
「おい、さっきの二小節目の裏拍のところがズレてたぞ」
同じチューバの大木聡志に言われて学は力なくうなずいた。自分はそもそも音楽の才能がない、と思っている。特にリズム感が。低音部には致命的弱点だ。
(それに同じパートが聡志だけだってのも納得できない。何で七人しか男子部員がいないのに相棒が男なんだ)
聡志は悪い奴ではないが、真面目すぎていい加減な性格の学とはあまり合わない。
学は、暑すぎる音楽室を見渡してみた。
目の前にユーフォニアム担当が二人、その横にトロンボーンが五人、その前にホルンが七人、並んでトランペット、最前列はクラリネットやフルートなどの人気の高音部の部員がいっぱいいる。もちろん、学の目当てはトランペットの須理戸琉歌だ。
明るく大きな目と淡い茶色のショートボブが夏の制服によく似合っている小柄な女子で、明るく聡明、他の部員とも仲がいい。学にも時々話してくれるが、それはあくまで「部員K」としてだ。
対して学は、平均的な身長だがやせ型で、真面目な目立たない穏やかな顔をしていたが、どうも弱々しい印象がある。頭をマッシュカットでキメているつもりだが、意地悪な女子部員からは密かに「しめじ」と呼ばれているのを知っていた。
(うーむ、須理戸さんと一緒に帰ることは受験勉強より難しいかも知れない)
「おい、学。お前今日、二者面談だろ」聡志が学に話しかけてきた。
「そういえばそんな気がする。でも、時間が来たら呼びに来てくれるだろ」
「お前、真面目な顔して本当に何も考えてないな」
(余計なお世話だ)口には出さない。
「木葉君」
木葉学は後ろから呼ばれた。忘れていたが、学の背後には、ただ一人コントラバスパートを担当する真聖菊がいたのだ。コントラバスは、人間の背丈ほどもある大型のバイオリンのような弦楽器だ。チューバと同じ低音部担当の楽器なので場所が近いのだが、学は彼女が苦手だった。
まるで日本人形を思わせる肩の下まである真っすぐな黒髪。前髪は眉の上で切りそろえている。そして、鋭い目つきと百七十センチ弱の長身。シャープで面長の顔は美人といえば美人だが、それより先に「キツイ」印象しかしない。パートリーダーだが、学とはあまり話さない。たまに何か言われると「おしかり」がほとんどだ。
「は、はい」
学はさっきの演奏について注意されると思って、恐るおそる振り向いた。
「面談と練習が終わったら、図書室に来て」
「えっ、何で?」
「必ず来るのよ。用件はその時」
意味は分からなかったが、とりあえず、行かないと怖い雰囲気だ。
「わかったよ」
実は真聖菊には萌夏という一年生の妹がいて、しかも同じ吹奏楽部だ。菊とは見た目も性格も真逆で、少し天然な所があるが小柄でいつも元気、ベリーショートにした髪型も似合っている。リズム担当のパーカッションパートだが、人懐こくて愛嬌があり、どうせ呼ばれるのなら妹の方が良かったと学は思った。
「私で悪かったわね」菊の鋭い目線。
「えっ」
(心が読めるのか?)学は冷や汗をかいた。実際に汗は大量にかいているが……。
その時、部室のドアが開いて、一人の生徒が入ってきた。顧問の谷戸先生に何か告げると、学が呼ばれた。
「木葉君、面談の時間だから、二階の面談室まで行くように。もし面談が長引いて練習が終わっていたら、大木君が楽器と譜面台を片付けてあげなさい」
「はい」
学と聡志は同時に返事をした。
「マウスピースは自分で洗っておけよ」
聡志にそう言われて学は、マウスピースを取り外して、譜面とタオルとペットボトルもカバンに入れて、部室を出た。音楽室を出る前に振り返ると、まだ、真聖菊が睨みつけているのが見えた。
面談室の前には椅子が置いてあって、そこに学は座った。どうやら前の一人が終わると呼ばれるらしい。しかし、中々終わらない。学は仕方なく、今日の晩御飯が何かを予想した。それから二十分も待たされて、学の番になった。結論はカレーだ。
「すまんすまん、待たせたな。まあ入れ、ちょっと色々あってな」
担任の村井という教師と向かい合って座る。
「それで、木葉、お前進路はどうするんだ?」
「さあ、大学進学という道もありますし、労働という手もありますが、僕としてはどちらもあまり気が進まないです。意外なケースだと、山にこもって修験道の荒行を積むとか」
「木葉……」
教師は呆れて腕を組んだ。
「お前みたいな奴が毎年一人は必ずいるな」
「僕は、特別なんですね」
「特別ダメな方だな」
教師は断言した。なまじ学がまともな大学に行けそうもない成績なので、教師として気は楽なのだろう。だが、学も特に傷ついた様子もなく、真面目な顔をして違うことを聞いた。
「所で先生」
「何だ」
「タレントって儲かりますか?」
「いきなり何の話だ。芸能界のことか? そんな道へ進みたいのか」
「と、いうか今はそれしかないっていう感じなんですが」
「お前のその根拠のない自信はどこから来るんだ。どちらかというと、お前は大人しいタイプの生徒だ。もしかして、子供の頃から憧れていたのか」
「昨日の夜決めました」
「……」
教師は呆れてしばらく黙っていたが、強い調子で話す。
「いったい何があったんだ。お前のことだ。ネットで古いお笑い番組でも見て感化されたんだろう」
「当たらずも遠からずと言いたい所ですが、まったく違います。実は、僕はすごい特技を編み出したんです。これを一般大衆に披露すればたぶん儲かると思うのですが」
「ほう」
「僕は空を飛べるのです」
「ふむ」
教師は、はじめ腕を組んで目をつむっていたが、不意に大きな溜息をついて呟いた。
「山にこもるんなら、先生の知り合いを紹介してやろうか?」
「タレントの件は?」
教師は学を伏目がちに眺めた。
「すまん、先生が悪かった。あまり悩んでないように見えたが、お前もお前なりに辛かったんだな。後日、カウンセラーをよこすから、今日はとりあえずゆっくり休め」
「はい、失礼しました!」
学は、素早く面談が終わったので喜び勇んで面談室を出た。
「結局僕の進路はどうなったんだろうか?」
学は呟いた。近くの時計を見ると時刻は午後五時二十七分だった。練習は五時までなので、部員もほとんど帰っているだろう。学はそこで思い出した。
「図書室だ!」
すぐに帰りたいところだったが、行かないと明日の部活で真聖菊にどんな「おしかり」を受けるか分からない。
学は結構勇気を振り絞って、図書室へ向かった。