10 きついおしかり
(見えるか?)
幡田はもどかしそうに学に聞いた。学はこれ以上ないくらい真摯な表情で仕切りを凝視している。
(微かに白いものが動く気配がしたけど、湯気が邪魔で……あれはひょっとして)
(おい、一分経ったぜ、次は僕の番だ。早く代われ)
(あれ、何か今、別の人の声が聞こえた気がする)
学は無理やり押し退けられた。
(見せてみろ。なんだ、何か服を着た女が目の前にいるぞ)
(なんだそれ?)
その時、菊の大声が聞こえた。
「太平! その穴から見えている女に今すぐあなたの力を仕掛けるのよ!」
「ハ、バレてるっ!」
真っ青になった幡田にさらなる命令が飛ぶ。
「い、ま、す、ぐ、や、れ!」
それは有無を言わせぬ口調だった。幡田は動転したが、慌てて眉間に指を当て、意識を集中させると女の方向を指さして、
「はぁっ」
と、言った。学の見る所、別に掛け声は必要ないっぽい。
「どうなってるんだ!」
「察しが悪いな学君は。何者かが襲ってきたみたいだぞ」
「それで、何をしたんだよお前」
「お前って言うなと何度言わせる気だ。ちなみに結果は不明だ」
「はあ? 助けに行った方がいいかな?」
「女湯に? 菊に殺される」
「もはや手遅れというか気もするけど」
その時、隣の露天風呂から派手なくしゃみが聞こえた。
間一髪だった。菊が大声を出すと、女は短刀を抱えて菊に突進してきた。その速度は、まるで瞬間移動だ。しかし、襲撃者の香沙禰はくしゃみをして、そのせいで狙いがそれたのだった。
しかし、香沙禰は体勢を立て直すと、短刀を持ったまま、露天風呂の端に移動した。また、くしゃみをする。その距離約二メートル。お湯に入ったので、先ほどの速度は出ないだろうが、それでも一瞬だろう。
「太平がちゃんと役に立つとは、驚きだわ」
「菊ちゃん、どうしよう」
「助けを叫んでも、誰か来る前に確実にやられる」
「じゃあ、私の力で、どこかに移動する? 今ならできるよ。脱衣所か隣の露店風呂くらいなら」
「だめよ。あなたのモーションは遅いし、移動は短距離すぎる。一瞬で見つかるわ。下手したら四人とも死ぬ」
香沙禰が殺意を目に宿して、短刀を構える。また、くしゃみが出たが、だんだん小さくなっていくようだ。幡田の影響力は早くも時間切れのようだ。
「まずいわね」
時間がない。逃げ場もない。厄介な相手だ。
琉歌も必死に考えを巡らせた。そして、あることに気づいた。
「菊ちゃん聞いて。幡田君の持ってたもの覚えてる?」
菊は一瞬動きを止め記憶を高速にたどった。そしてある場面を思い出し、口を結んで琉歌に頷く。
彼女はためらわずに叫んだ。
「太平、スマホを持て!」
香沙禰は、琉歌に狙いを定めて行動を開始した。その時、もう一度だけ、小さなくしゃみが起こった。琉歌はその手を隣の露天風呂に向けていた。
一瞬で琉歌の姿が幡田太平に入れ替わった。そのせいで位置関係が微妙に変わって、幡田の胸辺りに香沙禰はぶつかった。幸い、刀は逸れたようだ。
「いてぇ」
そして、菊はその幡田からスマホの入った防水パックをひったくった。さらに風呂から飛び出て、袋ごと接続ケーブルを引きちぎり、香沙禰のいる露天風呂に向かって投げつけた。短いが強烈な感電が起こる。
「ギャッ」
鋭い悲鳴をあげて香沙禰が失神するのが見えた。幡田も同様だ。菊はためらわずに脱衣所を廊下に飛び出て、人を呼んだ。派手なパジャマに着替えた真聖津弓が驚いてやってくる。
「どうした素っ裸で?」
「風呂場に宇月の部下が来た!」
「それはまずいな」
津弓は近くの部屋の床の間のにあった日本刀を取ってくると、菊と二人で脱衣所から露天に向かった。少し遅れてヨシもやってくる。
しかし、そこには気絶して浮いている幡田太平の姿しかなかった。菊はソレから目を逸らして呟く。
「素早いやつ……」
「面白くなってきたじゃない」
津弓は、刀を持ったまま楽しそうに笑った。
一方、学は、目の前の幡田のケツが、急に全裸の須理戸琉歌に替わるのを目撃した。それは時間にして、ゼロコンマ何秒という時間だった。なぜなら強烈なビンタを食らい、強制的に方向交換させられたからだ。「振り向かないで」と、小さな声がする。
学の中の正義の軍団が息を吹き返し(ビンタの理不尽さにもめげず)両手で目を覆った。扉が開く音がして、琉歌が出て行く。
それからだいぶ時間が経ってから、男の使用人らしき中年の男性が学を呼びに来た。
(小さいが白かった、実に白くて柔らかそうだった)
それが、学の覚えていることの全てだ。
とりあえず、幡田もすぐに気が付いたので、四人とも服を整えて、先ほどの部屋に集まった。幡田はまだあちこち痛いと言っているが、見たところ大丈夫そうだ。女性二人は浴衣風の涼しそうな服だった。
ヨシが冷たい麦茶を運んできてくれた。
「本当に救急車を呼ばなくてよろしいので?」
「大丈夫よ。そこにいる太平の様子を見ればわかるでしょ。全く心配ないわ」
「では、失礼いたします。また、何か御用があればお呼びください。夕餉の支度も整っております」
「ありがとう。またすぐお願いするわ」
四人は漆塗りの黒い和机を挟んで座っていた。菊は学と目を合わせないし、琉歌はうつむいている。幡田はむっつりと腕を組んで目を閉じてる。微妙な空気だ。
「まず」
菊が、学と幡田を睨んだ。
「覗き行為は軽犯罪法二十三条に該当する。三十日間の拘留又は一千万円以下の科料が課される。それ知ってる?」
「いや、あれは出来心でだな、そんなつもりは……」
「スマホで盗撮までするつもりだったわね。この変態。死ねばいいのに」
「菊ちゃん、今回は幡田君のおかげで助かったんだし、それくらいで……」
「ただの偶然の結果よ」
「それに俺は気絶したし、スマホもバッテリーも壊れたんだぞ!」
「それ裁判所で争ってみる? 覗き行為で女湯に侵入した件で」
幡田は、何も言えずに黙り込んだ。侵入は理不尽だが、覗きは事実だ。
「木葉君も覗きに加担していたわね。少なくとも、止めなかった」
「ご、ごめん」
「木葉君も?」
琉歌が不思議そうに言った。どう思われたか分からないが、菊に怒られるより、琉歌に軽蔑される方がダメージがデカい。
「まあ木葉君も駄目なのは確かだけど、この際どうでもいいわ。どうせ何も見えなかったのは知ってるし。実は、私は太平がトイレに行くふりをして風呂場に入ったのも知っていたのよ。私は<感知>ができる」
「感知?」
学が聞くと、菊はゆっくり話し始めた。
「ここまで来たら仕方ないから、私の知っていることを簡単に教えてあげる」
菊はぐるりと三人を見回す。
「まず、私たちは通常の人間には持っていない能力を持っている。それは各自一つだけ。これが最初の決まり」
菊はまず、琉歌の目を見る。
「あなたの能力はごく短距離の<空間置換>。いわゆるテレポートとは違い、人と人を入れ替えることができる。だから、転移ではなく置換。でも必ずしも置換対象が必要がない所と、二人くらいなら一緒に移動できるのが便利ね。残念なのは使用回数が約二十四時間で二回限りなのと移動距離が短すぎること。距離の限界は恐らく五メートル前後ね」
「じゃあ、私が死ななかったのはその力のおかげ?」
「それがよく分からないから悩んでる。一度備わった能力が入れ替わるはずはないし、あったとしても<時間の巻き戻し>や<不死身>なんて能力は聞いたことがないわ。色々調べたけど、記録にも残ってない」
「そうなんだ……」
琉歌はしょんぼりとうつむいた。菊は気の毒だとは思ったが、結論は出ないので、気を取り直して続けた。
「次に、太平。あなたの力は<ごくわずかな体調不良>よ。結果はランダムだから、まさに小ネタ集そのもの」
「その呼び方はやめろ。俺は<感覚変質誘発者>だ」
「ただの変質者でしょ。あなたができたことって、くしゃみ、しゃっくり、深爪、鼻水、それに口内炎? くだらない能力ね」
「くっ。今回は役に立ったろ」
「初めて、今回だけ、ね。そして私は<感知>。あなたたちのような力を持ったものが、どの位置にいるかがほぼ正確に分かる。感知範囲は場所にもよるけど大体半径五百メートル未満ってところ。それ以外の力は何もないから、見た目には何も分からないと思うわ。そして、最後に木葉君」
「は、はい」
「あなたの能力は<透明階段>とでも呼ぶべきもので、空中を何歩か歩けるか数秒止まれるだけ。しかも、思ったときに発動することができない。私たちは、そういう中途半端な人を<なりそこない>と呼んでるわ」
幡田が、にやにや笑う。
「ないそこないか、ぴったりじゃないか、学君」
「うるさい、小ネタ集!」
「なんだと!」
「静かにしなさい!」
菊のきついお叱り。
「でもね、気を付けて。<なりそこない>はきっかけがあると<成る>のよ。そうなると、危ない。あなたの能力は目立ちすぎる。絶対に管理対象になるわ。琉歌のようにね」
菊は少しお茶を飲む。
「そう管理されてるのよ、私たちは。だからこの力を持っていない人間には絶対に自分の力を見せてはいけない。特に派手なものほど危ないわ。琉歌の<空間置換>なんてまさに危険な力よ。このルールを破ると、罰則があるの。例外もあるけど、百人以上に見られた場合は即刻<消去>。いわゆる死刑。それ以下だと<警告>。<警告>は二回で<消去>になる。それ以外にも<注意>と言うのもあるけど、これも繰り返すと<警告>になる>」
三人は黙って聞いている。学は柔道のルールのようだと思った。
「そして、それら刑罰を執行する<管理官>がいる。彼らには私たちの能力は無効で、対抗することはできない。多分、琉歌を一度事故死させたのはその管理官ね。私も祝姉さまも正体は分からない」
「お姉さんは、何の能力を持ってるんですか?」
学の質問に、菊は難しい顔をした。
「それは言えない。私たちは互いに知っているからいいけど、相手に手の内を見せない方がいいの」
「とにかく超能力者になったってこと?」
「なりそこないのな」
菊はそんな二人を見て、深いため息をついた。
「呼び方は超能力でも何でもいいけど、正しくは<虚士>って呼ばれているわ。本来は、実質を伴わない表面だけの名声や事実と異なった悪い噂や嘘を指す言葉よ。つまり、私たちは、あってはならない存在なんじゃないかしら」
それはぞっとしない話だ。学は一応聞いてみた。
「じゃあタレントになって空中に浮いて見せたら?」
「たぶん、次の日があなたの告別式になるわね」
やはり真面目に勉強するしかないのか。
「菊ちゃんはどうしてそんなに詳しいの」
「真聖家は家系的に<虚士>が多いのよ。だから、代々蓄積された知識をある程度持っている。まあ、これは言ってもいいと思うけど、私たち姉妹は四人とも<虚士>よ。だから萌夏や津弓姉さんには隠さなくてもいい。これは言っておいた方がいいかもしれないので、あえて言うけど、萌夏は今のところ何ができるか本人にも分かっていない。年齢が関係あるのかも。強いて言えば、病気を全くしないくらいね。生まれてから一度も風邪すら引いてない」
それはただ超健康なだけじゃないかと、学は思った。
「それに、もう一つ、大事な決まりがあってね。それを話さなきゃ」
その時、琉歌のお腹が派手に鳴るのが聞こえた。とっさに学は咳をした。
「ごめんごめん、今僕のお腹が鳴っただろ。少しお腹がすいたよ」
「いや、今のは琉……」
テーブルの下で、太平は菊に思いきり蹴られた。
「確かにお腹は減ったわ。じゃあ、うちで夕御飯を食べていくといい。そして、できたら今日は泊まっていって。もう一つの重要な話は長くなるから」
「だけど終業式のあとだぜ。成績表とか見せないとまずいんじゃないか」
「でも私、聞いてみる。お泊りなんて久しぶり!」
琉歌がそう言ったので、三人は電話でそれぞれの親に相談した。学の母親は、最初は怪訝な声を出していたが「勉強会」であることを告げると、渋々承諾してくれた。通知表の件はごまかした。見せたら母親が卒倒するような代物だ。
琉歌の母親は、菊の母親のことをよく知っていたので、素直に許可してくれた。成績も電話で伝えたらしい。琉歌に聞くと、割とおおらかなお母さんだそうだ。学は自分の母親を思い浮かべ「おおざっぱ」と「おおらか」はだいぶ違うと思った。
問題は幡田だった。門限まである厳しい家庭だったのだが「真聖家」の名前が出た途端、父親の態度が一変した。どうやら、父親の幡田製作所株式会社は、真聖家の下請けの下請け、つまり孫請け会社のような位置づけらしい。幡田の親父の魂胆は見え見えだが、そのおかげで許可が下りた。この親にしてこの子ありと言うところか。
そして、完璧な和食のフルコースが振る舞われ、四人は高校生らしい食欲ですべて平らげた。食後には凝った漆器に入った抹茶のアイスクリームまで出てきた。ちなみに津弓と萌夏は先に食べたそうだ。そうして食事が済むと、菊は改めて三人に言った。
「最後の決まりは、ちょっと別の場所に行かないといけないの」
「それは?」
「地下にある蔵よ」
そうして案内された厚い木の扉には厳重にカギがかけられていた。扉を開けると長い階段が続いている。さすがに明かりは灯っているが、古い蛍光灯だけで気味が悪い。
「行くわよ」
菊、幡田、学、琉歌の順で階段を降り始めた。
最初の階段を降りると、琉歌はそっと学に耳を寄せた。いい香りがした。
「さっきはぶったりしてごめんね。それとフォローありがと」
学は心の中でガッツポーズを決めた。




