ネオンの尾を引く夜
気を取り直して見回すと、清潔で綺麗だが小さくまとまったビジネスライクな部屋で、少なくとも『超金持ちが準備した婚外子用の部屋』には見えなかった。
バスルームへの扉を開けようとするとベッドにぶつかりそうだ。
自分だけが家ではなくてこちらに連れて来られたことが、ちくりと胸を刺す。
歓迎されてないのかも。
ツインベッドが置いてあり、わりと狭い。
すぐ返されちゃうのかも。
さっきはあれほど帰りたいと願っていたのに、心は沈んだままだった。
「本当にもう大丈夫?」
「はい、ぜんぜん」
「さっきよりは顔色がいいな」
キスされるのかと思った。
何の根拠もない。彼は全然、普通で、あまりにも普通で、不快になるような不自然な密着もなくただわずかに体を傾けて、顔をのぞきこんだだけ。
頭の痛さに動悸が加わって、目が回りそうになる。
「休む?」
「いえ、行きます」
弱気を見せたくない。生来の負けん気が勝った。
ひとりになりたくないから?
あれほど一人を求めていたのに。
父かもしれない人のことを知りたいから?
忘れていたのに?
いいえ、もっとこの人の顔を、姿を、背中を見ていたい。
迷う蛍が拠り所にするかがり火のようにあとを追う。
開いた扉、彼の背中が消えた後に、少女の背中も吸い込まれて消えた。
容姿端麗なホテルマンはこちらを見てもニコリともしない。カウンターをすり抜けて外に出ると、鋭い冬の夜気が襟元をくすぐった。
夕闇が落ちた薄暗い街でも、二人で歩くと寒々しさが薄れてわくわくする気持ちが膨らんできた。兄はあれからずっと笑顔でいてくれている。見るからにクールで笑顔がないのは、気取ったパリ人だからなのか、事件がまだ影響して街に暗い緊張のとばりを降ろしているのか、わからかい。ただ彼が、ずっと表面だけでない笑顔でいてくれることが嬉しかった。
(ねえ寂しい)
まだ、呼び声は少女の後ろに、ポケットからするするとネオンの尾を引いていた。長時間露光で光跡を写す写真のように。
(ひとりぼっちになっちゃったような気分)
(何言ってんのともちゃん、いっぱいお友達いるじゃん)
(おしゃべりする子たちはいるけど…)
ともちゃんが属してるグループに少女は属していなかった。何のグループにも属していなかった。自分から壁を貼っていた。男の子たちは割と単体で動き、またはグループでいながらもそこそこ個人行動は保っている所があったから話しやすかった。女子はそういうものを許さない。
記憶を辿ると、小学生の頃も、さらにもっと幼い頃に戻ってみれば、幼稚園だったかもしれなくて、でも割と私は幸運だったと少女は思う。
そういう子もいていい。寛容な雰囲気はわずかなりともあった。そして時々、グループからぽんとはじかれたりはみ出したり、少しだけそのグループの在り様に疑問を感じた子が、ふらっと少女のところにやってきて話をしては去っていく。彼女は拒否もしないが引き止めもしないし誘いもしない。
そんな中で、兄の言う『ともちゃん』は一番長くそんな付き合いを続けているうちに、お互いの中に気持ちよさを見つけることが出来ていると感じられていた。
あっ!
「パリ・ガルニエだ」
手が動いて、スマホを無意識に探していた。
写真!
(絶対絶対連絡するから、返事してね。教えてよ今どこにいるのか。写真もよ)
あの子のことなら友達って言える。けど?と少女は考えた。
下からのライトアップに照らされた荘厳なガルニエ宮、その黄金の天井は迫り来る闇に沈みかけている。
どうして、反射的に画面を閉じてしまったんだろう。
兄が足を止めて見上げながら言う。
「歴史的建造物なんだろうが、おれもそんなにガイドできるほど詳しいわけじゃなくてね」
「僕だって、ガイドされてもわからない」
輝かしさがくすんだ空に溶け出している。
あの子の寂しさがこんなによくわかる。どんなに恋しいと思っていてくれるかわかる。
顔を見合わせてくすくす笑い、意味深な目付き、何気ないさまざまだ。ウィンドウを見てこれかわいいね、あれいいねと囁きあう。
石を見て草を見て花を見て雲を見て、ねぇ見て見て!と言える。
ほんとだ、という一言だけが、それだけで完全に繋がっているあの完璧な世界だ。
なぜ私はそこに背中を向けるの?
彼女の悲しみの向こうにすけて、誰かの姿がある。向こうも背中を向けている。顔はもう思い出せない。思い出したくない、男の子の姿があった。
(さあ、写真を)
(写真を撮って!)
私じゃない私じゃない。
少年のふりをした少女の中の、女の子が叫んでいる。耳を塞ぎ目をつぶって、思いっきり叫んでいる。
私じゃない違う、こっちを見ないで。あっちに行って、ひっかきまわさないで、面倒なの。関わりたくない、考えたくない。もう誰も、誰もこっちへ来ないで。
こんな言葉は使いたくない。
そう母はシングルマザー、わたしは水商売の子。
「写真、いいの?」
「いいんです。目に焼き付けた方が、心に残るって、ママが」
あっ
つい、ぽろっと出てしまった。
彼は、黙ってじっと待っていた。表情も変えず、お母さん亡くしたんだっけね、との言葉一つもなく立っていた。道路の上で、シリア難民たちに囲まれた時と同じ、あの冷たく感情のない表情のままで。
少しだけ無言で二人で歩いていたが、兄が口を開いた。
「さっき、大変だった」
「え」
「いくらノックして声をかけても返事がないから、フロントに戻って開けてもらったんだ」
「知らなかった」
「聞こえてないとは思ってたよ」
「すみません」
「簡単に開けないのはいいことだから、褒めておくよ」
大股にすれ違う大柄な黒人がいて、反射的に身を寄せたが、彼は避けたりしなかった。むしろ腕を取って軽く引く。
わかる?こっちがあっちで、と少女をぐるぐる回して、
「さあどっちだ?」
いたずらっぽく聞いてくる。「来た方向は?」あっちでもない、こっちでもないと議論しながら歩いていると、薬も効いてだんだん、元気になってきた。
「パン屋がとりあえずの目標、自分でユーロで買ってみな」
「ええー」
「最初の日にどれだけハードルを下げとくかが重要だよ」
背中を軽く叩かれた。
ここでためらったりしたくない。
勇気を出して足を進め、片言の英語で話しかける。売り子の金髪の美少女が優しく微笑んだ。
店を出ると、「よくできた」と、お褒めの言葉が降ってくる。
手はポケットに突っ込まれたままだ。頭撫でてくれたりはしないんだな、と思い、勝手にわずか赤くなって、彼の顔を盗み見る。
カフェの外のテーブルで帽子をかぶり深く座ったトレンチコートのご老人がじっとこちらを眺めていた。
「うちはおやじがヌイイ地区のマンションの一階を借り上げてるんだが、お前用の部屋の始末が間に合わなかったんだ。前にいたやつ絵が好きで、匂いも汚れもすごかった。クリーニングが終わってなくてね。それで最初はパリ市内のホテルの方が面白いんじゃないかとも思ったんだ」
今、いっぱい喋ってくれた。
嬉しくなっているうちに、胸のむかつきも少し薄れてきた。
邪魔者扱いとか、疑われているわけじゃなかったんだ。
密かな望みを察したかのように、こうして話してくれる。
「わざわざありがとうございます」
「その他人行儀。やめろよ」
「いや、まだちょっといっぱいいっぱいで。いきなりアニキ!とか無理なんで」
「そりゃまあ、そうだ」
彼が笑った。
「だいぶ顔色もよくなった。何か食べないと」
バゲットにチキンをはさんだ大きなサンドイッチを買って、ホテルのベッドの上で二人で食べた。
「おれの仕事は食料品、主に塩の買い付け。バイヤーって言うと格好いいかな、下っぱの事務員だよ。よく日本にも帰るよ。ここも日本もどっちも好きだけどね」
放り出された異国の地にストンと現れたのは、スーツを着て働いている大人の青年だ。恋人いるんだろうな、きっと。
かっこいいと言われている男の子たちへのわずかな憧れや、チョコを渡すか渡さないか悩む程度の恋心は、こんなに短く髪を刈った時に後ろに捨ててきた。
母の化粧やふとした仕草にだけ、女でいることの喜びみたいなものを感じ取っていただけだ。
彼は包み紙をくしゃっと握りしめてゴミ箱に放り込むと、立ち上がった。
「狭くてすまないが、ゆっくり眠って。明日また来る」
「お願いします」
彼の笑い方に少しだけ慣れてきた。
窓から外を見ると、完全に四方を囲まれた小さな中庭が下に見える。
慌てて取ったというこのホテルに、眺めという概念はないらしい。薄暗くてよくはみえないが、一階のガラス越しにフロントが見えた。
ぐるっとめぐると、横のロビーの机に兄が座っている。誰か女性がいて、書類を広げていた。ワイングラスが横にある。
大人の世界、関係ない所で話はすすむ。
外の空気が吸いたくて、ガラスをがたがたゆらしたが、窓は立て付けが悪くて開かなかった。
少女の周囲のどこもかしこも、美術品のように調和の取れた色と彩色でそして、どことなく古かった。