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愛の鳥  作者: 天海 悠
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床に溶ける







「そんな態度取って本当にいいの?」

 少女の伯母が電話を切った後、夫が聞いてきた。

「ややこしいことになっても知らんよ」

 半笑いの顔がかんさわ

「何でも勝手に好きにすりゃいいんだわ。知るもんか! 責任も果たさないでさ、脅しかけるようなことばっかり。最低だよ」

 とはいえ、伯母としても、姪の父親が本当にこの外国暮らしの男なのかどうか、完全に確信が持てているわけではなかった。勢いにまかせて言うだけ言ってはみたものの、内心は不安で一杯だった。

 その不安は見知らぬ人々の中で少女の身がどうなるかよりも、()()()()()()()()()()()()()()()、そればかり考えている。

 記憶の中で可愛いまだとおを過ぎたほどの少女が、顔いっぱいに微笑んで手を伸ばし話しかける。

──おばちゃん!

 もともとが父親一人の手で育った姉妹、父はもう亡くて母は生きているのか死んでいるのかもわからない。妹が逝ってしまった今、唯一の肉親と呼べる姪の姿が見られなくなるのはさびしかった。

 それでも、落ち着かなくなる。

 自分の家なのに、自分の家でなくなっていくような気がした。

 熱気や、笑い声や、足音が響き渡って次第に部屋を満たし吐息が積み上がり、壁の色を変えてしまう。

 そうなればもう、窓からのひかりさえ違う。まぶしく差し込む朝の日差しがずっと続けば、どんな人間だって疲れてしまうだろう。

 くすんだ、灰色の部屋でいい。あの姿がこの世のどこかに存在しているだけで十分に満足だ。それでいいじゃないか。

 伯母は食器を洗う手を止めて考え考え、ゆっくり言った。

「あの子を大学に行かせてやりたいけど、正直うちにそんな余裕ない。私が憎まれ役をやることであの子に未来が開けたら、それでいいじゃない」

「もめる元なんじゃない?別にいいじゃないの、大学なんか行かなくたって。何かしら職もあるでしょうよ。やりたいこと見つけて、専門学校ぐらい行かせてあげれば?」

 あの子のことを、あの子の学校のこと、交遊関係、何一つろくに知りもしないくせに。

 伯母は歯噛みをする。

 自分たちには子供もいないし、県外から来た彼は教育に関しては驚くほど無頓着で無知だった。

 あの子が通ってるのがそこそこ名前の知れた私立高なこと、学費の工面に苦労して、母親が身を粉にして働いていたこと。妹にはきっと、そうまでしてあの子を公立にはやりたくない理由があった。

 経済力から身の程知らずと思いながらも、妹のいない今、その意を出来るだけ汲んでやりたくもある。

 あれこれと思考を巡らせやっとのことで、これだけの言葉をひねり出した。

「あの子、頭それほど悪くはないのよ。もったいないじゃない」

 何か食べるものはないか、棚を物色しながら、夫は冗談を装って何気なく言う。

「あっという間に結婚しちゃうかもよ?」

 胸の中の歯ぎしりはなぜ聞こえないのか不思議なくらい大きくなっている。

「学費ぐらい出すでしょ。今まで放置してた罪滅ぼしだよ」

「大丈夫なんかねえ」

「結局、他人事のくせに」

「そりゃそうだよ、口出しできることじゃないもん」

 くるっと振り返った妻の形相に、夫は首をすくめた。

「就職出来たって数年後だし、その間食事作って食べさせるのも、洗濯するのも、服を買うのもそれで面倒見るのはずっとこっちなんだよ?お前はゴロゴロしてるだけじゃないか!」

 ガチャンと食器を乱暴に重ねたので、どこかひびが入ったかもしれない。

 かまうもんか。

 来年の学費をどうにか工面して帰れなきゃ、やめてもらうしかない。それでどうする。転校手続きをして地元の公立高校に通うのか?

 妹は教育ローンを組んでいたが、姪は相続放棄をしたから、高校に通うとすれば自腹になる。

 少女の伯母はうるさそうに頭をふった。すべて後付けの理由なのであって、自分が一番よく知っている。

(金銭的に余裕がある方に面倒見てもらうのなんて当たり前だ!)

 ゲームに集中するふりをする夫は、鼻の下が長くて、ひげの剃り跡が真っ白になっている。頭も真っ白で、小さな目がきょろきょろ動きながらスマホの画面を追っている。

 そんな半分髪に隠れた背後からの横顔をじっと見ながら、これでひとときは、安息が訪れる、と少女の伯母は思った。眠れないままに、家の気配を伺う夜はもうたくさんだ。

 先のことなんてどうでもいい。

 今だ、今、今、今すぐに!

 ただの眠りが欲しい。

 胸が押し潰されるように重く、荒れている。完全に自分が正しいと思っているわけじゃないほど、強い声となってしまう。

 本当にただ一人、自分一人だけでいるのだったら、肩寄せあって姪っ子と暮らす生活は魅力的だったかもしれない。

 姪は明るくて根に持たない。話しているのは楽しかった。

 手当だって申請すれば行政からある程度は出るだろう。

 そうじゃない。そこじゃない。

 無理と思ったらもう無理だった。



 彼女は妹が死んだ当初から、正確に言えば自分が結婚した当初から、妹の動向には注意していた。

「お姉ちゃん、結婚おめでとう!」

 両手を広げて抱きつかれた時も、ありがとうと答えながら注意深く、決して夫婦連れで会わないようにしていた。

 夫がじろじろと探るような目で妹を見るのを見たくない。絶対にそうするに決まっているから。

 妹のことが可愛いのも事実、胸のうちで何度も何度も、繰り返し叫ぶ一言がある。

──わたしに、あなたを、嫌わせないで!

 自分が掴めるのはこの夫程度の男なことぐらいわかっている。

 だから、妹の特徴を持ちつつ、さらに若い娘を家に置くことは出来ない

 はじけるような肉体に見飽きない笑顔、長い睫毛まつげの下には、黒々とした瞳が濡れたように光る。

 どうしても無理。

 どうしても。

 これは姪自身のため、妹のためなの。

 わかんないかな?

 妹から口重くもたさられていた情報を、もう一度頭の中で整理する。こっちがしゃかりきになって調べなくても、相手が勝手にご丁寧に調べるし、不審があれば連絡を寄越すだろう。



 妹は会社の上司から言い寄られていることについて、どうしたらいいかよくわからない、と言っていた。

「セクハラだと言えば、もうしないでくれると思う。彼、そういう分別はあると思うんだ。言わないのは、私にも何かあるのか、ないのか…わからない」

「付け入らせないように気を付けなさいよ」

「食事に行ったり、お酒を飲んだり、おしゃべりしたりするのは楽しいし、嫌じゃない。とっても自然なんだよね。大人っていうか、人柄だと思う」

「気を付けて。距離を取って歩いて」

 なぜなら彼は既婚だからだ。

「一度手の甲がさ、こう」

 妹は姉の手を取って、手まねをした。

「甲と甲が触れて…、めっちゃけちゃった」

「相手は何て?」

「ごめんねって謝られた」



『お姉ちゃん、わたしね結婚してたの』

 五年ほど経過していたか、沈んだ調子の電話が入るまで、あっという間だったような気がする。

『だんなが亡くなったんだけど、妊娠してて…』

「だってその苗字、あの人と?」

 重ねて聞いた。

「前に話してた上司の人でしょ?」

 妹は黙っていた。

 急に、自分のどこからこんな、と驚くような余所余所よそよそしい声が出た。

「トラブルは嫌だから、あまり会わない方がいいよね。わたしも仕事で忙しいしさ。何かあったら、それはいつでも知らせて」

 言葉もない。黙っていると、妹は電話口の向こうで泣き出したような気配があった。

『お姉ちゃんごめん。トラブル嫌かもしれないけど、ほかに頼る人がなくて』



 夫は眉をひそめた。

「死んだってそれ本当?別れたんじゃなくて?」

「わかんない。本当は結婚したんじゃなくて、同棲でもしてたんじゃないの?捨てられたのよあの子」

「でも名前は?」

「どうとでも名乗ることなんてできるでしょ」



 妹が過労で入院したとの知らせを受けて、姉は足早に病室のタイルを踏んでいた。

 あの子は結局、あたしがいないと駄目なんだ。

 病室から聞きなれた甲高い笑い声が廊下に響き渡っていて、入る前から足が止まった。

 なぜ、お前が、ここにいる?

 喜色満面白い髭の下まで真っ赤に染めて話し続けている夫を見ながら、張りつめた不安、気遣い、心配がすべて溶けて床に流れ落ちていく。

 不意打ちだった。

 これだけ気を付けていてこれか。

 気を付けていたからこそか。

 こちらの顔色など伺う余地もないほど、食い入るように妹の顔を見つめ、上機嫌で、笑い声を立てている。妹が下を向いて静かなだけに、ひどく場違いで異様だった。看護師が怖い顔で、扉から中をのぞいた。

「何考えてんの?」

「いやぁ、近くに来たからご挨拶に寄ってみたんだよ。びっくり、けっこう元気。まともそうな子じゃない」

 言ってることもやっていることも、どこにも咎める理由はないのかもしれないが、何もかもが不愉快で気に入らない。

 これが見たくなかったんだ。



 夫の目につかないように、これまで以上に気を付けながら、赤ん坊を預かり世話をした。妹はそこについては、何もたずねなかった。

 可愛い、生き生きした目のよく笑う赤ん坊で、預かっても困ったな、迷惑をかけられたと思う記憶はまるでない。

 それでも子供の成長は早い。小さくても女はどこまでいっても女、男っぽい子だっていくらもいるのに、母親を吸収しているのか危ぶむほどに、みるみる女になっていく。

 しなやかな体つきに、10歳足らずで奇妙なしなを作っていた。

 とがめることもできない。

 出発の前、ああだこうだ理由をつけて姪の髪にはさみを入れた時、けるような悲しさと同時に快感が襲ってきた。さらに、切ってさえこれほど美しいのかと驚嘆した。

 自慢でもあり、憎くもある。

 どのようにしても、この輝きは消せない。

 何だろう、このあたしの用心、黒い予感は?

 夜にはっと起きて耳をそばだてる根拠、理由は。

 過剰反応なのか、冷たいのか、嫉妬なのか、どれも違う、どれも正しくない、どれも当てはまらない。

 すべての女は、安穏あんのんとただ生きていくのでなく、この警戒を持つべきなのだ。決して、決して忘れるべからずと、気を付けろ、油断するなと、赤いペンキでべたべたとすべての家のドアに塗りつけて行く。

 世の中に無数の危険が存在することなど承知の上で、少女の伯母はただ、ひたすら願う。

 喜色満面の顔と、甲高い笑い声、床に溶けていく萎えた体、あれが二度と、もう二度と、目の前で起きてくれなければいいだけだ。











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