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愛の鳥  作者: 天海 悠
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チェックイン







 スマホの通知音が小さく鳴って、画面を一瞬だけ開いたがすぐまた閉じた。通知ランプだけが目の奥に残っている。

 兄が聞いて来た。

「連絡、おばさんから?」

「友達です」

 短く答えて手を組んだ。

 小さな機械の固さを腕の下に感じる。返事を待っているのはわかっていた。でも開いたら既読がついてしまう。表示を消そうとして電源ボタンを押す前に、通知バーの文字が目に飛び込んできた。

(ねえ今どこ?めっちゃ寂しい)

 返事ならしようと思えばいつでもできるし、話すことならいくらでもあるのに閉じた。通知ランプの光が閉た扉を叩くように、ねえ聞こえてるんでしょ、まだ?返事してよとせがんでいる。

 こっち夕方だってことは、そっちは深夜だよ。あのこまだ寝てないの?寝れてないんじゃない?

 車が止まり、頭がガクンと揺れた。兄はサイドブレーキを引いてギアを入れる。

「着いたよ」

 路地裏で、縦列を作って並ぶ路駐車の中、兄は器用に車を止めていた。荷物を降ろしながら彼は聞いてきた。

「ともちゃんには返事したの?」

「ともちゃん?」

「友達から連絡来たんだろ。友達だから、ともちゃん」

 急におかしくなって少女は声を立てて笑った。吐きそうに気分が悪いのに、そこだけは笑顔が出た。何のつぼにはいったんだかと、あきれた顔をしているけれど、兄もにっこり笑った。

(この人、笑うんだ)

 薄暗くて見慣れない冬のパリ中心部の持つ意味より、クリーム色の建物のそこかしこに居並ぶ彫刻の魅力より、この年上の兄らしき人のたった一度の笑顔が、少女の目に胸に、くっきりと焼き付いていた。


 兄がチェックインをしてくれている間に、少女はキーだけ受け取った。部屋に先に入ってなとうながされ、機械的に狭いエレベータのボタンを押した。間があって、またスマホを取り出すかどうか、既読を付けるかどうか、少女は迷った。

 毎日、決めてたんだ。連絡しあって一緒にやろうって。絶対ねって。なのにやってない。続きやんなきゃ…勉強。

 頭を振る。違う、だめ。漠然とした不安に襲われた。

 何のために?

 もう、大学なんて行けないかもしれないのに。

 ガタンとエレベータの扉が開いた。新しく綺麗な作りなのに、動きは無骨でぶっきらぼうだった。ちらっと見ると、兄はまだカウンターで何か話しながら書いている。

 少し待ってみたが、行きなさいとジェスチャーでうながされた。


 部屋に入って速攻で頭痛薬を口に放り込み、ベッドに倒れこんで息を大きく吐いた。本当は、下着まで何もかもすべて脱ぎ捨てたい。苦しくて、かすかに胸を掻きむしったが、指は服の上をただ力なく滑るばかりだった。

 もうだめ気持ち悪い吐きそう。何もかもくるくる変わりすぎ。

 あきらめないで!

 また携帯の向こうから、声が響いてくる。今度は伯母だ。ちかちか、とんとん、聞こえてる?返事して。聞いてるの、と語り掛けてくる。

 想像の中の伯母は、腰に手を当てて励まし、勇気づけるように言う。

(頑張りなさいよ。何としてもお金出してもらうのよ。行きたいんでしょ、大学に!男の子の方が、学費出してもらえる確率は高いのよ)

 どうして男の子なら何なんだか、少女には実のところそこはよくわからない。

 ただ目まぐるしい。何もかも捨てて、髪も切って性別も変わって国まで変えてた。

 ほらマルチエンディングのゲームでリセットして、また別のコース、別の人生を送る。

 でもねそんないいもんじゃないよ。実際になってみたらついていけない。心じゃなくて気持ちじゃなくて、体が付いて行かないんだ。地球をたった半分、回るのだってこんなに長くてこんなにきつい。

 海外旅行に行ったことのある子って、こともなげに言ってたっけな。

 うん、全然平気だよ。

 どこが平気なんだよ、全く平気じゃないや。つらすぎる。

 ともちゃん、か。

 指がスマホの表面を撫でた。

 わたしだって会いたいよ。話したいよ。

 でもね…もう。

 うきうきするような冒険が始まると思っていたのに、心も体もこんなに重い。

 理由は危険や安全のことではなくて、景色、建物、全てが見慣れずよそよそしく冷たかった。

 東京が懐かしい。東京に帰りたい。ごみごみした匂い、排気ガス、唐突に現れるぎらぎらしたアニメの看板、薄黒いアスファルト、どぶ川にかかる橋に一目もくれない足早に歩く人々の群れに紛れたい。その先に待っているひとに、会いたいよ。

 違うの。わたしが聞きたい声は違うの。

──どうしたの、大丈夫?

 優しい声、抱きしめて頬ずりしてくれる柔らかな胸だ。

 ここに今いてくれれば。メールしたい。話したい、声が聴きたい。わたしの大事な宝物ちゃん、って言って欲しい。

 このスマホに残してある電話番号にかけても、誰も出ない。そう誰もいない。ママはもういない。

 私は、ひとり。

 世界一美しいと言われるこの街の中で、車の窓から見ていた限り、どこまで行っても似たような景色が続いてた。

 飛行機の上からは平らな緑一色、この市内では高さまで決められた、黒い手すりのアパルトマンが並ぶだけ。

「大丈夫か?」

 スーツの彼が少女の背に手を当てていた。大きな温かいてのひらが触れるのに、がしゃんと割れた音が聞こえそうなぐらい、胸が鳴った。

 はじかれたように体を上げて、まじまじと顔を見た。こんな間近で見るのがはじめてな兄の顔は、特に表情はないが、眉をかすかに寄せている。これは心配していてくれるのかな。考えてみれば彼は最初からずっと、感情を決してあらわにしなかった。口を横に結んだ真面目な目線が、ひたすら少女の顔に注がれている。

 その落ち着きが、静けさが、すっと少女の胸に入ってきた。ここにいてくれる、存在だけでよかった。

 喉から一言、絞り出せた。

「来てくれたんですね」

 兄の唇がわずかに笑顔の形に歪んだ。

「フロントに話してただけだよ。いきなり一人にはしない」

 それきり黙ったまま、少女の背中をさすっている。ひとの体温が気持ちいい。

 もう一度、その声が聴きたい。

 もっと話して。もっと。

 頭痛は、さっきよりもずいぶん引いて思考もはっきりしてきた。

 「今、薬がやっと少しだけきいてきて。もう大丈夫です」

 小さい声でつぶやいた。

「このまま休ませてやりたいけど、せめて外に出てもホテルに帰れるように、周囲だけ歩こうか」

「わかりました。僕は、平気です」

「食事もしないと」

 彼の声は低音のバスなので、耳をそばだてていないと細部が聞き取りにくい。

 深い深い森に投げ込まれた小石が波紋を立てるように、ゆっくりとあとから意味がこちらまで届く。









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