美しい瞳
廊下を歩きながらおずおず首を伸ばすと、出入り口に白いカードを抱えた人が数名、並んでいるのが見えた。彼女の名前を抱えているたのは、巻き毛の白人と東洋人の二人が立っている。目ざとくこちらを見つけて巻き毛の方が大きく手を振った。
東洋人の方に彼女は目を据えた。食い入るように凝視した視線を、相手は普通に受け止めた。唇の端が動いて笑顔が見え、かすかに片手を挙げた。
あれがお兄さん?
思うと同時に、この男装姿とあわせてすっかり腰が引けてしまう。足が震え、宙を浮いて雲を踏む。現実の存在を目の前にするのと、想像するのでは、天地がひっくり返るほどに違っていた。所詮、ディスプレイは紙の上の文字とおなじ。重みにかないようがない。
恥ずかしい。
馬鹿げてる、なんて子供っぽいんだろ、これでいいはずがなかった!
血の繋がりなど本当はないものと、自分では騙している気になっているのも、血の気が引いている原因の一つだ。
「緊張してる、ねえ、お兄?」
友人か案内人か何かだろうかと思っていた白人の巻き毛から、流暢どころではない、間違いなくネイティブの日本語が流れ出した。
「そりゃそうか?遠かったでしょ、取り合えずよろしくね」
スーツ姿の東洋人の青年は仕事帰りだという。若い茶色の巻き毛でハーフ顔の男の子を指差してはじめて口を利いた。
「こいつ十五歳、母親はロシア人のハーフ、おれは二十六、オヤジの子にしてはけっこう最初の方かな、三番目?たぶん。一応母親は日本人。他にもいるはずだけどまあ殆ど交わらないから、そこは気にしなくていい」
十五とすれば、わたしよりも年下だ。弟か。これが弟なのか?
背の高さに気をとられていた。顔をしみじみ観察すると確かにとても若い。
「お世話になります」
怯えを隠して兄の方へ頭を下げた。二人が見せる笑顔に奇妙さもとまどいもなくて、特に巻き毛君の方はひたすら屈託がなかった。
二十六にしてはと思う。こちらの兄も大学生のように若い。彼はトランクを少女の手から取った。あれほど引きずるのに手こずった荷物は、当たり前のように彼女の手からするする離れて軽々、兄の後を付いていく。いいです自分で持ちます、と言う余地もないほど自然で、少女はなすすべなく唇を噛んだ。
兄が言う。
「声変わりもしてないんだね」
はっと声を飲んだ。ぎゅうっと腹に何かが降りていき、代わりに顔からは血の気が引いていく。
「十四で、遅いですかね」
本当は十七なのにな、また下を向き声が小さくなってしまう。今度は逆流するように、胸から下は血の気が引いたままで冷たくなって手がしびれ、胸から上は湯気が出ていそうなほどに熱い。
これでも女なんですって、言おうと思ってたのに言いそびれちゃった。どうしよう。
この日本人の兄の、もの柔らかで優しい声が思ったよりも深くて気持ちのいい響きなので、動悸がおさまらない。
叔母に不満顔で口をとがらせ、何度も言った。
「ぜったい、すぐバレるって」
「バレる前に学業だけは修めておきなさい。今はネット環境も充実してるでしょ」
叔母はすましたものだ。女は嘘をつくのが本性でそこは皆、変わらないのだと思っている。
駐車場にとまっている小さな古ぼけた車に案内された。石畳の国で冬は冷え込むと聞いていたのに、それほど寒さを感じない。ダウンジャケットやヒートテックなどいらないぐらいだった。
「今年は特に暖かいんだ」
ロシアのハーフの子がにこやかに言う。荷物をトランクに押込みながら兄が声をかけてきた。
「高速を使うが、カバンは膝じゃなく、外から見えないように必ず下に置いておけよ。強盗が多発してるから」
その指示に、すっと胸が暗くなった。
着陸の揺れに酔ったのがまだ治らず、頭がひどく痛んでパリへの道がおぼろげだ。木が黒々として細いシルエットだなとだけ、ぼんやり思う。道行く壁には、よく港湾部の倉庫や高架下にありがちな落書きがある。どこも似たようなものだ。
車で見る道路の景色は、右左が逆な他は日本とあまり変わらない。ただ、山がないだけだ。
プジョーの小型車の運転をしながら、スーツの兄が言う。
「大人しいね、大丈夫?」
思いきって声を出した。
「どうして、面倒見てくれるんですか」
巻き毛の男の子は完全に流暢な日本語で、外見をのぞいては日本人としか思えない。笑顔で運転席の兄を肘で突いてこちらに笑いかける。
「お兄は面倒見がいいんだよ。純日本人だからかな。几帳面だよね」
「そんなことないと思うがなあ」
パリ市内が近づいたのか、車が増えてきた。生活しているのだから当たり前なのだろうが、左右逆の道路を難無く抜けていくのに感心する。ハンドルを回しながら兄は説明を続けてくれる。
「住むアパルトマンは、オヤジが二階を借りきってる。だから部屋はあるよ。この子のロシア人の母親が、寮長みたいなことやってくれる。無愛想だけど食事は食えるよ」
「何人いるんですか?」
「今はおれたちあわせて三人、あんたで四人、たまに、ふえたり減ったり」
「本当にそんな人がいるんですね」
「他人事みたいだね、お前もその一人だろ」
かすかな皮肉を感じる余裕もなかった。放った当人も感じさせない声音だった。
部屋を一つもらえるのは有難い。本当にばれていないのだろうか?金髪の少年は明るくてしきりと話しかけてくるから、曖昧に受け答えしながら、こちらの方から質問を投げ掛けた。
「みんな車の運転、けっこう普通ですね」
どんなイメージ持ってたの?と二人ともに笑われた。
「普段はもっと混んでるんだが、今日はすいてる」
そんな話をする横を真っ赤なシトロエンが、猛スピードでごぼう抜きしていく。
高速道路を抜けるあたりで車はいっそう増え、高架を目の前に信号で止まった時だった。
体を強ばらせる暇もなく、道路脇に立っていたアラブ系の浮浪者たちがばらばらと車道に出てきて、信号待ちの車のそばに寄って来た。さっと車内に緊張が走り、日本人の兄は表情を変えなかったが、巻き毛の少年は顔色が変わって動きを止めた。
なぜか教えられもしないのに、彼女にもシリア難民だとすぐにわかった。子供を抱いてヒジャブをまとった女性がにこりともせずに男たちの後方で棒立ちになっている。夫なのだろうか、若い青年が、彼女よりもはるかに切羽詰まった表情で、車内をしきりに覗くから、このままガラスを割られて強盗されてもおかしくはない空気だと、少女の額にも汗が浮く。
「ちょっと前まではもっとたくさんいたし、テントまで張っちゃってて凄かったよ」
運転席の兄がゆっくりと言う。なんの感情も入っていない冷たい声だった。その冷たさと落ち着きが、車内の若者たちの不安を、抑えてなだめた。必要以上に不安になれば、その感情はガラス越しに外にも伝染して、お互いに思ってもみなかったあらぬ事態を誘発もする。
信号が変わり、車がアクセルを踏んだので青年たちは他の車を覗きこみながら左右に散って離れて行った。少女は窓からそっと窺う。ヒジャブの女性はとても若くて、遠くを見つめるひとみは澄んで美しかった。彫りの深い色白な肌に、色とりどりの服装は薄汚れていても、まだ襤褸になってはいない。
何事もないまま彼らは車の前から立ち去り、上の兄はアクセルを踏んだ。この車の小ささ、古さにもそれなりの理由があるのかもしれなかった。黙り込んでいた車内の緊張が解けて、おしゃべりが戻ってくる。
パリ郊外の住宅街を抜けながら、「アパルトマンはこの辺だよ」と運転席の兄が言う。巻き毛っ子がドアを開いて降りた。
「またすぐ会おうね」
あどけなく手を振る。ビルが立ち並ぶ一角だった。
「だけど今日はあんたにはパリ市内に宿を取ってるからそっちに行こう」
兄は車をさらに進めた。