レポートとカード
もう少し飲もうと引き止める友人たちを振り払って彼は一足先に家に帰った。封筒と葉書が届いていた。
日本からだ。しっかりした緩衝材入りのA4封筒の暑さ、宛名を詳細に見るより先に内容を察して破ろうとする動きを止めた。
新しい弟の調査書だろう。
デジタルデータでいいと言うのに、社内ルールだとか個人情報だからって、こんな分厚い資料を海外に送る方が無用心だと思わないのか。彼はバッグと新聞と葉書を脇に挟んだまま、刀の形をしたペーパーナイフを突っ込んだ。きっちりと隅々に到るまで糊付けされているから、結局、荷物を降ろしてハサミを使う。刀でも歯が立たない日本の便りか。
一人笑いしながら、かまわずにザキザキ刃を入れた。
半透明のクリアファイルを出す所で面倒になって、今度は葉書を手に取った。
日本にいる恋人の名前があった。先日、携帯越しにおれを待たなくていいよと送ってから、既読はついても返事がない。
タイムラグかな。
早く帰って来て欲しい。テロもあったしとても心配。あなたのことばかり考えてます…。
切々と、待つことの喜びと彼への想いを小さくて几帳面な字が綴る。小さな点々が飛び立って部屋を舞うのがわずらわしい。
手を上げて小さく払う真似をした。
あなたの彼女デートしてたらしいよ、遠いとやっぱり色々と難しいよね。早く帰ってきた方がいいんじゃないの。
たくさんの雑音が放っておいても勝手に入ってくる。そして彼女がデートしたという男が前から彼女を狙っていることを彼は知っている。狙っている、のであって、好きかどうかは知らない。どうでもいい。
さすがにゴミ箱には捨てがたく、机にぽいと置いた。
どっちもどっちの微妙で重要な便りだなと考える。
重要度で言えば、フラグ2ぐらいか。
クリアファイルからきっちり本型に綴られた書類を開いて、気のない動作でいいかげんにぱらぱらめくり、また机に投げ出した。思い直したようにファイル立てにはさんで仕舞い込んだ。
知られていると知らない相手の秘密を握るのはいつだって楽しいもので、弱みを握れば優位に立てる。
弱みを切り札として使わないまでも、優位にあることが余裕を産むから、相手を油断させるどんな優しい嘘だって付くことができるだろう。
ここにあるというだけで、知りたくなったらいつでも引き出せばいいと彼は考えた。
今は気が乗らない。
子供に対しては何の恨みもないが、電話を通して聞いた、頭から押さえつけるような話し方をする伯母とやら、いかにもな中年女の話しぶりが気に入らなかった。
子供を押し付ける気満々の下心が透けて見えた。反感を抱いていたか、腹を立てていたのかもしれない。
「鑑定も出来ますが、望みますか。キットを送りますよ」
国際電話の受話器の先にいる相手は一瞬、黙った。弟とやらとはパソコン越しに文字のやりとりをしたが、電話で直接、話を持ってきたのはこの伯母と名乗る女の方だった。
『正直なことを言うとね。妹のことは私もよくわかんないの。私も深入りしたくないから、あまり詳しく聞かなかったし』
居心地の悪い沈黙が過ぎた後に、子供のおばとやらは、機関銃のようにまくしたてはじめた。
『だけど、とにかく苗字は同じだよ。すごく珍しい苗字だよね。妹がそちらの会社に勤めてたのも知ってるし。偶然なんてありえないでしょ。関係あるのは間違いない、それはそっちもわかってるんじゃないの。脅かしたって無理ですから』
吐き捨てるように叩きつけられた。
『してもらってかまわないです、DNA鑑定。そちらさんが望んでるんでしょ』
「いい、いい、そんなのしなくて」
父親は手を振った。
──そちらにも面倒を見る義務があるんじゃありません?
──それは、お金ってことですか
──養育費も払わずにここまで来たんだから、図々しくはないでしょう。ごめんねこっち余裕がないの。金銭的でもあるけど、時間的にもなんだ。あの子、そっちに行かせます。
言い切られた。
そして父親も鑑定は必要ないと言下に言う。
彼は口をつぐんで妙な顔をした。父親は頭から興味を持たないだろうと思い込んでいた。
詐欺師なのか、ある程度根拠はあるのかどうでもいい気はするが、向こうも遡って戸籍謄本を取って詳細に調べればわかるはずだ。
「この子の伯母さんてのは、血縁関係をあまりよく知らないんですね」
なぜ、おやじの子だなんて言ってるんだろう?
DNA鑑定してまで、追い払ったことも一度だけある。
「適当なこと言ってるけど、どうします」
兄弟の話をする時はいつでも、儀礼的な口を利いた。
「まとまったお金を渡す?そうするときりがないようだが」
「来させなさいよ」
本気かよ。彼は胸のうちでつぶやいた。
「学校だってあるし、まだ子供ですよ、中学生っぽいが」
転校手続きにしろ、ビザにしろ、この伯母が頼れなくて書類の受け渡しが望めない以上、かなり面倒な手続きになることは想像できた。
「見ますか?」
調査書をソファの前の机に置いた。父親は下を向いたまま何かを考えていて手に取らない。もう一度手を伸ばそうとすると、だしぬけに聞いてきた。
「お前、これの中身は見たの?」
「ぱらぱらっとは。まだあまりちゃんと読んではいない」
この子の実の父親は、もう既に死んでいる。
父の皺の寄った手がファイルの上に置かれるのを見た。
「わたしが持っていてもいい?」
「どうぞ」
とりあえず、冬休みに来させる。それしかない。
部屋を出る前にちらと後ろを振り向くと、父親はまだ開きもせずにただ座っていた。目だけがぎょろりと開いて食い入るように虚空を眺めている。光る眼窩を彼は眉をひそめて見守り、それからそっと扉を閉じた。