夜の氷河
母と暮らした部屋を引き上げ、選りすぐったもとから少ない家財はトランクルームに全て預けた。机と本の山をさすって、少しだけ待っていてとつぶやく。扉を閉じれば、母との生活、少女時代のすべてが影に沈んだ。
空港まで友人が一人だけ付き添ってくれた。一番仲良しの彼女は、駅で少女の姿を見て息を止め、それから笑い出して叫んだ。
「わぁ、髪みじか!」
それから手に顔を埋めた。
「どう、あたしイケメンかな?」
答えがないので、肩をつかんで顔を覗き込んだ。おばが早く行くよとせかしている。
「髪の方に泣いてるの?お別れの方?どっち?」
「私も一緒に行きたい」
つぶやくように言う。少女はつとめて明るく笑った。
「あんたの自慢の大好きなカレシ置いて?」
電車の中で友人は少女の肩に頭をもたせかけてきた。距離のない、いつもと変わりない仕草だった。若いカップルに見えるのかな。それとも、コスプレをした二人組って見えるのか。この子はいつだって掛け値なしの本気の美少女、いっしょにいるのが自慢だった。友人は小さな声でつぶやいた。電車の轟音の中では聞き取れないほどだった。
「今ね、彼、おうちが大変だから。うまくいかないかも」
「そんなことないよ、家族公認じゃん。絶対、結婚まで行くって。それが夢なんでしょ」
友人は答えない。それから、もたれた顔を上げて、いたずらっぽく微笑んだ。
「すごくかっこいい、外国人のカレシ連れて帰ってきて」
「バレる前提すっとばして彼氏なんだ」
「みんなが驚いて振り向くようなひと」
「そういうんじゃないから。すぐ戻ってくるよ」
帰る場所はもうない。明け渡した借家の中のがらんとした風景を思い浮かべ、あらなんだ、急にぱっと視界が曇った。こみあげてくるものを飲み込むのに必死だった。
「あたし、あんたのあの家好きだった」
友人が言う。窓の外を見ていて、何も気づいていないようだった。
「街並みが狭くって、ボロくって、ごちゃごちゃしてたとこがすき」
「もうあたしのうちじゃないんだ」
友人は聞いていないようだった。
「きれいになったからいいってものじゃないよね」
羽田空港の内部は白と青のイルミネーションにあふれていた。せわしなく通りすぎる無表情の旅行者たちとすれ違いながらゆっくりと歩く。
「今から行く所は、きっとすごくきれいなんだよ。写真とか、マップのビューで見てるとめちゃくちゃ綺麗だもん」
「そうでもないとも書いてあった。治安も悪いしゴミもすごいって。好きで行くわけでもないけど、でもね、やっぱり期待してる」
「わくわく?」
「あたし男になって異世界に旅立つの。それで、冒険してくる」
だしぬけにあたたかいものが触れて、彼女が軽く少女の唇に唇を押し当てたのだとわかった。
笑いながら二人は額をあわせ、少女は真面目に言う。
「あんただけは、今どきテロで危ないからマジでやめときなよ、ありえないでしょって言わなかった。嬉しかったよ」
バタクラン劇場に現れたのは通り魔でもヤクザでもない。つい数ヵ月前のことだ。
この世界のどこに安全なんてあるんですか?
友達の歪めた半泣きの笑顔が、少女の脳裏にいつまでも残っていた。
フライトは十二時間、長さがしみた。一万キロメートルの距離を分かっていなかったのは級友たちではなくて少女だった。平均より背の高い彼女は脚を折るしかない。思うように体が伸ばせないままで耐えるエコノミーの席はつらかった。メッセージの向こうの兄が何度も聞いていた。遠いから長旅になるよ、きついよ、一人で大丈夫かと。
迎えに来てくれるはずの兄の名前を口の中で何度かつぶやいてみる。なるべく低い声で、できればはっきりと、怪しまれないように、いや無理か…。
いつのまにか眠っていた。思わず頭に手をやる。空調は問題なく適温のはずなのき、襟首にひんやりした空気が入って来た。髪がないだけ、頭が異常に軽くてそのぶん寒い。もうすぐ二月を迎えようという、一月すえの寒い昼で、機内はテロの影響か、本数は減らしていてさえやはり席はがら空きになっている。
慣れない男性用のダウンをぎごちなく引っ張りながら右隣を伺った。ヤクーツクを過ぎた頃で、機内は窓を皆おろしているから、景色が見れない。左側の席は太陽側なのでとても眩しい。
「どこに行くの?あなた、女の子?」
唐突に話しかけられて強張った曖昧な微笑を浮かべるしかなかった。だがここで男の振りをしきれずに、兄を騙せるはずがない。
思い切ってはっきりと、男ですと答えた。
声が上ずっていないか、手が震えていないか、すうっと足から血の気が引いていく。
「あらそう!可愛いわね!」
ばつが悪そうに隣の夫らしき男性がよしなよ、と窘める。
「だって本当に可愛いもの。あなたどこまで?」
「フランスの、パリです」
「そう、私たちはパリ経由でイギリスに向かうのよ」
案外、疑われないものだ。ふっと肩の荷が下りたら今度は頬が熱くなった。元気が出てから、ひとしきり話をした。
「イギリスのどこに行くんですか?」
「あなたひとり?気になってたの。未成年でしょ?親御さんは?」
「空港で兄が待ってます」
「まあそう、男の子なら大丈夫かしらね。気を付けてね。あなた可愛いから」
隣の席で夫が顔を隠して苦笑する。
胸の動悸には今やっと、不安が追い付いてきた。上から押し潰されそうな淀みを映画で紛らわせる気にもなれず、退屈しのぎに飛行機の位置情報を見ていると、背後から夜が追いかけてきているのがよくわかる。ロシアの広大な大地を横断して地球を半周するのだ。フィンランド湾の横を通りすぎ、バルト海に到る。無数の湖に覆われたフィンランドの地図を見ながら、隣の夫婦が小声で会話していた。
「これは湖?すごいわね。まるで網の目だわ」
「氷河が溶けた痕なんだよ。氷の重みで下がっていたのが次第に隆起していくんだって」
太陽と同時に移動して(本当は移動しているのは地球の方なのだからおかしな言い方だと彼女は自分でも思う)、降り立てば夜が追い付いて来る。そっと腕を広げとばりを降ろして少女を異国に包むのだろう。