ヴィーナスの口付け
通知が入っていた。
違うSNSから、違う相手から。
誰からなのか見たくない。でも気になる。
通知機能ってやだな。好きじゃない。
彼女は素早く開き、開いたと同じ早さで電源ボタンを押して閉じた。
真っ暗になったディスプレイには、彼女自身の瞳が写っていて、ぱちぱち瞬きしながらこちらを見上げている。髪の短さに驚いた。自分で切ったことをもう忘れている。
慌てて彼女はぎゅっと目を閉じた。
もう遅い。見てしまったから。
扉を開けたな。うん、開けた。
しめた、今だ。追いかけろ!
黒い文字が飛び上がって唸り声を上げ、小さな昆虫の群れのように彼女の体中にまとわりついて来る。囁きがうなりの中に紛れている。普通・普通・普通・普通じゃない・普通じゃない・普通じゃない…。
あっというまに彼女はあの白い校舎と机の群れの記憶の中に戻っていった。
巻かれながら彼女は、別れ際の友人の大きくて真っ黒な瞳が彼女の顔を映していたのを思い浮かべた。
「あらあなた。娘と仲良くしてくれていつもありがとう」
笑顔のともちゃんのお母さんの前で、彼女は不明瞭な何かをつぶやきながら後ずさりをしてしまった。
どこからどう見ても普通の奥さんで、ともちゃんは普通の女の子だ。
普通、という言葉が刺さって抜けない。
ママはちょっと、普通、じゃない。
普通よりたぶんちょっと綺麗だし、普通よりたぶん…何かが足りない。例えばパパとか?
教室のみんな、ひとりひとりちがうでしょ。
かのんちゃん、あの子は元気系で皆を明るい気持ちにさせるんだ。けど怒るとこわい。
ゆりやんはおとなしい。絵が好きでなかなか見せてくれないけど、特徴をつかむのがうまい。
おじぽんは、お笑いとアイドルが何より好きでめちゃめちゃ詳しい。記憶力がすごい。
なのにみんな、どうして固まると突然同じ顔になっちゃうんだろう。
どこからか飛んできた仮面に吸い付かれたように見分けがつかなくなってしまう。
薄目を開けると、スニーカーの下に黒い見慣れないスレートが濡れたように光っている。古い敷石が残っている所もあるが、もちろんすべてではない。
少女にはもうわかっている。数日歩き回ってわかった。目を上げれば亜麻色の壁とブルーグレイの屋根、さらに薄曇りの空だ。あの空を渡ってここまで来たのだから、帰るときも飛ぶだろう。矢のように早く、九千九十九キロメートルの距離をゆく。
同じぐらいの背丈、同じぐらいの年齢の小学生ぐらいの金髪の少女が二人、並んでおしゃべりをしながら通りを過ぎて行った。彼女はこの石畳と彫刻だらけの世界にとって日常であるその姿に目を奪われた。
あのブルカの女の人は、ここの普通じゃない。だから殺されたの。マシンガンで…。
逃げ出したかった。まるで違う自分になってまるで違う人生を生きたいという願いに追われてこんな遠い場所に来た。けどここだって同じなんじゃないのかな。
ああ自由になりたい。でも自由になるにはきっと大人にならなければ。あと数年だ。大人になりたい。大人になって…。
少女はつぶっていた目を開いた。
通知のある世界だ。普通じゃないものを排斥する世界だ。だが、通知があろうが排斥がなかろうが、記憶の中の過去よりも今がいい。
目を開くのが扉を開けたのと同じように、数メートル先に兄が微笑んでいた。
曇り空が急に晴れ、雨がいつの間にか止んでいるように。
「あっちだよ」
その言葉がなめらかに広がって、彼の手が滑るように動いて彼女を招くから、また心臓が跳ね上がってうっかりすれば落としてしまいそうだ。
「やっぱり人が少ない。いつもはこんなものじゃないって言うよ」
ルーブル宮殿の前に聳え立つ、ガラスで出来たピラミッド前には、さすがに行列が出来ている。螺旋階段を降りて歩きながら、彼は聞いてきた。
「今はこんな暇つぶししてるけど…親父には早く会いたい?」
彼女は答えなかった。
彼よりも先に会って、彼のいない場所で伝えたいことがある。
打ち明けてしまえば、もうこの胸いっぱいになっている思いをこの人に向かって言えるかもしれない。
それで知らない、帰れって言われればあきらめがつく。この人のそばから離れられる。
「知らない場所で知らない連中に囲まれて、早く家に戻りたかったりしない?」
「わかんない。どこにいけばいいのかな」
どうなっちゃうのかな、わたし。
ここにずっとは…無理なんじゃないかな。
シリア難民の美しい瞳が急速に大きくなっていく。またぶんぶん唸るささやき声も遠くに聞こえはじめた。
「わたしね、ママが亡くなって世話になるからって、進学あきらめなくていい。おもいっきり我儘言っていい。どんな手を使ってでもいい。そうおばちゃんに言われたの」
「いいんだよ、それで。子供はそれでいいんだ」
「わたし、大学に行きたい」
「そこんとこだけは、あの爺さんも力になってくれると思うよ」
どこにいても通知は入るし、おばしか頼る人がいないのも変わらない。母と暮していた家は解約してしまったから、日本へ戻ればおばのあの家にまた住まなくてはならないのだ。あの、足音の聞こえるあの部屋へ…。
──足音って?
──聞かないで。
黙ってただ縮こまっていても、過去からも未来からも逃れられない。
この人だけが、はじめて前に立つ扉のように、次々に新しい景色を見せてくれる。
新しいものはぜんぶ、この人から出てくる。
ねえ、ともちゃん。わたしルーブルに行ったんだよ。世界一有名な美術館。ちょうど春節だから中国の人がいっぱいいたよ。ツアー客の中に挟まれちゃった。そこにいる欧米系の人たちには、まったく見わけが付かないんだろうけど、中国の人たちと私たちにはわかるの。お互い違う国の人間で、間違えてうっかり挟まれちゃったってこと。ツアーコンダクタの人が数えに来て、変な顔をして私たちを見た。二人で下を向いて笑いをこらえてたの。
それからルーブルに入ったの。
ねえ見て見て、って言っても彼は『いいね』って言わないんだよ。
ただそっちに首を回す。そして戻す。顔色一つ、変えないで。
「芸術とかよく分からないんだ。きれいとか、うまいとかより先にこれは左右対称なんだろうか、て思っちゃう。まだ彫刻の方がいいな」
今まで見てきたどこの美術館とも違ってて、壁いっぱいにぎっしり絵がかけてあるの。
色とりどりの名画の輝きにくらくらした後に、二人はドゥノン翼エリアの逞しい男性の彫刻の前で、難しい顔をして黙り込んでいた。少女がつぶやいた。
「折れてる」
「折れてるね」
少女は声を出さないように、体を二つに折って笑い出した。
「仕方ないだろ、スフィンクスの鼻だって折れるんだから、あれだって折れるんだよ。ミロのヴィーナスの胸だって取れんだから」
「そこは取れてなくない?」
「いや、折れてる。お前が変なこと言うからおれは確認した」
「じゃあ行こう。ヴィーナスのところ行こう?」
引っ張って二人で再び白い彫刻を階段の下から見上げた。
「ほら、取れてない」
「本当だ、おかしいな。じゃあ取れてたのは誰なんだ?」
「どこの誰のことなの?ねえ、どこの女?ねえ」
「知らない。もう覚えてないです」
黒い予感も低く垂れこめ落ちてくる不安も、まとわりつく囁きもすべて、霧を払うように消えていく。
ずっと笑いながらのおしゃべり、どこまでも続く廊下に疲れ果てて外に出た。
ピラミッド脇の四角い照明に腰かけて、少女は尋ねようとした。
「あのとき…ねえ、どうして…」
キスしたの。
彼は何も答えない。
じっと黙ってこちらを見降ろしているだけだ。
彼女を取り巻く不安も期待も抜けてまっすぐにそのままの彼女を見通すような視線で見ている。
彼の顔が近付くほど視界一杯に広がって周囲を巡る柱廊が、青の屋根が、そこかしこでこちらを伺っている彫刻の視線が消えた。
彼ひとりに産め尽くされていく。
あつい。やわらかい。溶けそう。
頭のなか全部がとけそう。
自分がくちから溶けていき、彼の触れた唇も溶けてそこだけが存在の境がなくなった。他の全ては変わらずに、思わずすがった腕も震えている脚も、確かにまだ自分としてあるのに、触れた箇所から柔らかく消えて広がっていく。
ぼんやりと考えた。
ああ、これがキスだ。本物のキスなんだ。
どこまでなくなってしまうのだろうひとつになるってこんなことだったんだ。たった触れるだけのキスでこうなってしまうなら、ここから先はどうなってしまうのだろう。何もかも溶けて消えてしまったら、それは…。
「行くよ」
彼が体を離すから、彼女も立ち上がった。拒否されないか、そっと袖に触れて腕とコートのあいだに指を差し込んだ。
彼は少しだけこちらを見たが少女がするがままにまかせているから、もう少しだけ勇気を出して腕を差し込んだ。
灰色のくすんだ街並みだった。
クリスマスも新年も過ぎて、イルミネーションもない冬のパリだ。オフシーズンであると同時に、この街にまだ重くのしかかる不安、ぴりぴりとした緊張を感じないわけではない。
今はそのすべてが吹き飛んだ。
歩きながら、頬がゆるむ。笑顔が自然に出る。
違う。違ってた。
何もかも違う。
興味半分、仕方なしに、避けがたくしてみたいくつかのキスはどれもざらざらしていた。
何が違うの?私の気持ち?
それともこの人が特別なの?
今は横を歩く彼の茶色い皮のジャケットしか目に入らない。頼もしくて大きくて温かい背中と腕だ。
ゆっくりともたれ、頬を寄せた。
どうしてこの人にはわかったんだろう。
欲しかったのは答えじゃない。
未知の経験に触れた怯えがあり、動悸もある。
好きや愛ってことばじゃない。
ただひたすらかまわないと思う。何か新しいことがこの身に起きてもかまわない、と。