テレピンと亜麻仁油
リビングとして使っている目抜きの二階から、明るい笑い声が漏れている。
一階では“寮母”と呼ばれているロシア人の母親が相変わらずの無表情で忙しく立ち働いていた。
片言で簡単な話をする以外にほとんど交流はない。
それでもこの大柄でしかめっ面の女性の厳しい顔立ちを見ると彼はほっと安心した。
おかげでお腹が空いたと思う時に食べ物が出てきた。片付いたキッチンの端に小さな花が飾られるようになった。
父に四階建ての一、二階を借り上げてもらっている。狭い部屋は清潔で水の出はさほど良くないが不満はない。
食事は一階で取っていた。バゲットにチーズにスープ、生ハムにボイルしたマッシュルームといったメニューだ。
金髪の寮母は、そろそろロシア女性特有の横に広がる体型に変化しかけている。若い頃の写真はハーフの弟そっくりだった。
「もうこっちはいいから戻りなさいって言われてたよ」
ブーツが連れて来るまで、寮母は父親のアパルトマンに寝泊まりしていた。
「親父の身の回りの世話、助かってたのに」
呟きが口に苦い。
「トラブル起こして大変だったんだよ。あなた何も知らないんでしょう」
ちょっと腰に手を当てて小粋に頭を傾げたブーツは細身で小柄で色白、ブランドを使わずに最大限に綺麗に見せる。
「あの人、フランス語出来ないし覚える気もないの。同じ階の人ともめてたんだよ。おじいちゃんどうしようもできないし」
ブーツはその日、特別に上機嫌だった。
大きなものも小さなものも、アクセサリーの使い方が上手だ。目が大きくて口が大きい。眉毛も濃くて大きな口を顔が避けるばかりに開いて笑う。
「お父さんをあまりほったらかしにしちゃだめよ。可愛い子の面倒ばっかり見ててさ、ね?」
どこかで見たような顔と姿だ。そうだ昨日の電話だ。
『かのじょ、また外泊してたみたいだよ?』
訳知り顔で密告してくるビデオ通話越しの卵形の顔は、ブーツにそっくりだ。
「またその話?何が悪いんだよ別にいいじゃん」
『なんで?それ平気なんだ。彼女でしょ。いいのそれ?かまわないの?』
寮母の横をすりぬけ螺旋状になった階段を登ると、若い声が小鳥のささやきじみて廊下までさざめいている。
扉の前を通りすぎたとき、背中を向けて仲良く話している姿が視界をかすめた。
そっとしたまま自分の部屋に入る。会話はいやでも聞こえて来る。
巻き毛は父親の拒絶を忘れたかのようにはしゃいでいた。
「この絵を描いた人?そうここの部屋に住んでたんだよ。まだ匂いが消えないでしょ」
「わたしこの絵だいすき。ずっと見てられる」
しばらく沈黙が続いた。
「これ誰なの?」
「知らない。けど色とかすごいよね。この絵を書いた人はこれを描くことをしたいんだよずっと。でもさ売れないんだってこういうの」
「絵描きさんでは食べていけないってこと?」
「働きながらだとさ、もうそんな時間ないじゃん。これ描くのおれも見てたけどさ、構図を決めてまず下書きをするんだ。それからゆっくり下地の色を塗ってくんだよね。何だっけ、テレピン?亜麻仁油?そういうのを塗る。その上にまた線描きして、色を選んで筆をゆっくり置いて、時間かかるんだよ、これ一個作るのに。そんなことさ、働いてたらしてらんないじゃん」
「でもこの才能はやっぱり一生のものじゃない」
「練習が必要なんだって。毎日やってかないと腕が動かなくなっちゃうって言ってた。楽器も一緒だって。ピアノやバイオリンも、毎日やってないと指が動かなくなるんだって。音も違ってきて、そこで毎日練習してる奴とは差がついちゃうんだって。この人ずっと絵を描く環境が欲しかったんだよ。それで来たんだよね。ここで一緒に暮らしたかった。けどねダメだって」
お前は一人になるよ、必ず。
突然、記憶の扉が開け放たれて厳しい声が空中から鳴り響いた。
不吉な予言者がまたゆらりと立ち上がった。厳かに告げる。
突然一人になるよ。友達と思っていた人に裏切られるよ。
それは必ず起きる。早いか遅いかだけの違い。
よく覚えておきなさい。
苦痛に顔が歪んで、彼は母親の声を必死で振り落とした。
(あいつはいつも俺に、嫌なことしか言わない)
必ず、必ず来るよ。その時は。
向かいの部屋から流れてくる、透明なさざめきに必死でしがみついた。
「何か書かされてた。サインとかしてたもん。多分、約束とかじゃないかな。それね、多分俺もするんだと思う。それで君もすると思うから覚悟はしといた方がいいよ。もう二度と関わらないっていうサイン」
それは父に乞われるがままに、彼が作って渡したルールだ。
「兄貴だけはね特別なんだよ。何も欲しいって言わないんだ。いらないんだよ」
自分のことのように誇らしげな声だった。
「お母さんがキャリアウーマンだから困らないし、最初から最後までお金、受け取るのを拒否してるんだって」
あの肖像画のぬしが誰なのか、彼は知っている。
本当は見たくない。捨ててしまいたい。
黒い記憶に直結している。
品の良いゆるやかなトーンで責め立てる女性と、宥めようとしながらかえって逆撫でしている父親がいる。その横に立って腕を組み、冷たい軽蔑の眼差しで嫡出の長兄はすべてを見ていた。
巻き毛の声がいつしか、泣きそうなトーンに変っていた。
「誰か教えてくれないかなあ。僕がどうしたらいいのか。どこに行ったらいいのか。居場所ってのがあるなら、教えて欲しい。自分の道は自分で見つけろって言われても何もない。何も見つからないよ。道筋さえない」
ある日父親が彼の海外出張先に泊まりに来ると言う。
「僕もそっちに行きたいよ。お前、手配をしてくれる?」
「いいけど。どうしたんですか突然」
「日本に飽きてきた」
慣れない異国に奔走している時期にまた厄介だなと思いながらも、文句を言わずに引き受けた。
その後に次から次にと兄弟たちが順送りに訪れる日々が始まった。絵描きの次兄は長兄と馬が合ったらしいがよく知らない。
彼自身は次兄の存在などこんなことがあるまで知らなかった。
知りたくもなかった。
次兄は片手で握手を求めながら言っていた。
「そうか君が、お父さんの一番お気に入りの子なんだね」
お気に入り?何だそれ知らねえや。
彼は手を取らなかった。そっぽを向いて返事もしなかった。
負けない。彼なら父をくすぐる言葉、喜ぶ態度を知っている。お前たちはできない。俺は怖くない。なぜなら一本足で立ってるからな。こっちが頼んで来てもらったわけじゃないっていう強みのある俺ならなんだってできるんだ。
……私生児を連れ回すなんて恥ずかしくないの、あなた。……しかもこんな場所で……。
こうして言いたいことも口の中に飲み込んで、腹にはどんどん重石が溜まっていく。
溜まれば溜まるほど、嫌悪が増してくる。
ああ、すっきりしたい。
あの絵を見るたびに思い知らされた。
この胸の底に澱となってわだかまる黒い執念だ。あのババアと父親を引き離せるなら何だってするという。
俺はあのババアの鼻明かせるなら何だってやってやる。
母親は関わるなって言うがもし離婚させることができるのならやってやる。
兄たちが囁いていた通りなら。そんな力が俺にあるというのなら。
あの父にしてというどこかの闇に消えていく子供たち、ただの同居人とわずかな情。
異常な家庭に環境で、慣れていると思っていた。普通じゃないのが普通だった。それでもここではそれなりの秩序と暗黙の了解があって穏やかに暮らしていたはずだ。
いきなり窓がいっぱいに開かれて、淀んだ空気をすべて吹き飛ばすように清涼な風が吹き込んで来る。
お気に入りなんてことばが追われた寮母と共に意味を失って消えていく。
後から突然現れた驚くほど美しい少女に、その座を明け渡す時が迫っていると告げているようだった。