地下鉄の楽隊
少女は頬杖をついてぼんやりマンションの中庭を眺め下ろしていた。ひどく小さな庭にはおぼろげな光しか差さない。木々は黒く細い指先を白い壁越しに伸ばしている。
後ろを盗み見、気にしては誰もいないのを確認して唇を触った。
熱い。
何度も何度も触れる。
痛いよ。火傷したみたい。
ひりひりするよ。
頭の中はぐるぐるまわる。
なんで?いつ?どうして?
気付かれてる?気付いてた?
知ってた?
彼とふざけながら歩いていると、嫌なことの影は薄れて消えて行く。エッフェル塔を過ぎてからヌイイ・シュル・セーヌ周辺のアパルトマンに移動した。
日本ほど忙しさに走り回る必要はないんだ、と彼は笑う。シャルル・ド・ゴール=エトワール からメトロで乗り換えレ・サブロン、ポン・ド・ヌイイ駅ですって。
不思議な呪文が宙を舞う。
扉が開いて地下鉄に楽隊が入ってきた。シャンソンを演奏している間、大きく眼を見張ってとまどう少女の姿に彼は笑いを押さえている。見ないようにして下を向く少女がちらりと顔を上げると、サックスの老人が優しく語りかけるように微笑んだ。
ふと涙が浮かぶ。
こんな時は一生に一度、二度と来ない。
疲れてそっともたれたら、肩を優しく抱かれた。
「駅で巻き毛くんが待ってるよ。それからマンションに向かおう」
「わぁ、嬉しいな」
「そうか?」
「仲間だもの」
「仲間ね」
「あの子すき。明るくて楽しい」
何気なくといった風に彼は言った。
「家族を期待したらがっかりするよ」
少女はちらっと彼の顔を伺う。
すっと冷えた口調だった。身動きしないし、優しい表情も崩さない。
「家族?」
少女は首を傾げた。
「家族ってなに?」
彼は少し驚いたように少女を見下ろした。
「みんなその単語にどうして固執するんだろう。ずっと思ってた。わたし、ママしかいなかったから。おばさんは家族とは違うしママもちがう。もっと近いの。わたしの肉と同じぐらい。だから死んでも同じなの。ママはわたしの一部なの」
わたし、また“わたし”、って言ってる。最初に言ったのがいつだったか思い出せないや。
「ここには、来るしかなかったから来たの」
少し眠ったのかもしれない。うとうとしながら彼を見上げた。
どうしてそんな優しい顔で見ているの?あなたは何を言おうとしたの?
彼の顔が近付いてきて、それからすべてが吹き飛んだ。
高層ビルと古い街並みの狭間、肩を抱かれて足を止めたのは、随分古びたつくりのきしみそうに古い建物の前だ。
巻き毛くんに加えて大柄などっしりした金髪に所々濃い茶色の混じったおばさまが迎えてくれた。
よく来たね。
部屋はまだ絵具臭いよ。
おかなすいてない?何か食べる?
にぎやかに話していても心がここになかった。
あの一瞬にだけあった。
何度も何度もそこだけ再生している。
何度繰り返しても足りない。
うわのそらだ。心がここにない。
ともちゃんのふざけ半分のキスも、ママがよく唇の端にしていたキスも、もう思い出せない。きれいにぬぐいさって上書きされてしまった。
世界を一瞬で塗り替えた彼、その人は少女が知っているどんな記憶とも似ていない。
今までに知りうる人々すべてが構成してきた世の中、彼女の周りの人々が織り成してきた色と何もかも違っている。まるで別世界だ。
記憶の中のママのすがたをしてゆらゆらと広がっていた青天井は一瞬で消えた。このよそよそしい街の灰色と白と青があっという間に変化して、急激に鮮やかに彼一色に染まっていく。
教室が色褪せて朽ちてぼろぼろになっていくのを他人事のように見た。
ただのヴィンテージ風に加工した写真、知らない顔と意味のない景色だ。
何もかも消し去っていく。
突然、唇の上に焼け火箸が置かれたように、彼女は目覚めた。
ああ、そうか。
そうなんだ。
すきか、そうじゃないか。
付き合うか、付き合わないか。カレシ・カノジョ。
言葉の意味もすべてが土くれになった。
なんの意味もないんだ。
「危ないよ」
背後から声がかかって、振り向くと彼の笑顔があった。
「手すりは危ないから体を乗り出すなよ」
扉が開くとここではない空気がさっと吹き込んで鼻をくすぐる。そうなってはじめて、ここにまだ奇妙な匂い、慣れない匂いが立ち込めていることに気付く。
絵の具の匂いなんだって、これ。
「ごめんなさい」
動悸があまりにも大きくて自分が苦しい。胸から出てきそうだ。今少しでも傷付ければ、溢れてほとばしるだろう。
「あのね、髪ね…」
「髪?」
彼は少女の間近に座った。
「髪ね、こんなに短くして。これ切ったときはわたし、男の子になる。男の子になろう!って思ってた。…と思う」
血管を出られないかわりに熱さは体中をすごいスピードでめぐり、頭がガンガン鳴っている。血管が膨らんでは縮んでいるのが見えるような気がする。
「年だけはあれっと思ったけど」
小さめのスポーツブラにつぶれた胸が苦しくて痛くてかきむしりたい。
「別に騙してるとは思ってなかったよ。だってお前、自分が男だとも女だとも言わなかったし」
無意識に吸い寄せられるように少女が体を寄せたので、腕と腕が触れた。
「男の子でいたかったら男の子でいいよ。好きにすれば」
少しだけ考える。
彼は黙って待っていた。
「女の子になりたい」
「そっか」
「髪、伸ばしていいですか」
「いいよ」
彼はふざけるように頭の後ろを逆撫でしてからまた上からなぞった。
「これ気に入ってたんだけどなあ」
手がそうっと、撫でるほどそっと触れて軟らかく動いていく。
「似合うよ、とても」
その触れ方が優しい、嬉しいと思うと同時にガクンと足の下の床が崩れるほどの衝撃に体を震わせた。彼は受け止めて押さえながらも少し驚いたように彼女の顔を見た。
吸う息が甘くてキスの感触よりも心臓が動きすぎて頭が焼け付く。
やけきって切れてしまうフィラメントのように真っ赤に焼けかすんだ視界、近くに黒い髪とくちびるの上には温い感触があった。
そこだけが違っていて、彼に触れられているという確かなあかしだ。しがみついた腕もこちらは渾身の力をこめてぎゅうっと握っているのに、まるで何も感じてないかのようだし、彼は優しく触れるように抱いているだけ。
彼の表情が何の変化もなく、微かな笑顔を含んでいるので少女はそれだけを頼りに正気を保つ。
ごわごわした男性の服の目の荒さは触れたことのない手触りだ。
何か、新しいことが起きている。
誰かが、わたしという人にこれ以上なく近付いている。ママも誰も出来なかったほど近く、こんなに近付いていいのか危ぶむほど近く。
肌を寄せくちびるを開いて侵食し合っている。
変なことだと思われない。ただ新しいことなだけだ。知識としてだけ知っているが、知覚として未知なのだ。
悶えも静けさの中に吸い取られて消えていき、少女はただ、ガンガンなる頭の鼓動と一緒に取り残されているだけだった。
熱くて、熱くて、何もかも脱ぎ捨ててしまいたい。
このわずかな肌と肌がふれた部分をもっと大きくしたいという願いがちらっと頭のすみをかすめ、そんな考えが浮かぶからだを少女は無意識に恐れた。