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愛の鳥  作者: 天海 悠
15/18

石畳の影








 仕事の予定はゼロだ。

 食事はお粥のレトルトを食う。親が日本から送ってくれた最後の名残だった。

 カエルはモンマルトルに行ってサクレクールが見下ろす斜面の端に腰を下ろしていた。

 そこかしこに立てられたカンバスを後ろからのぞいて回るのが好きだけど、僕自身には絵心がないから。こうして心に響き渡る風景をひたすら文字に書き綴る。


 白い幹に黒い蔦が這うここは石の森。

 陽が降りて影が石畳の上に落ちれば森も埋もれる。

 闇の中に沈む。

 そこかしこにまたたあかりを頼りに前へ。

 ただひたすら前へ。

 ガラス越しに吊り下げられたグラスが揺れた。

 表情を動かさない人々の口元だけが動いている。

 それが合図。

 饗宴の始まりだ。

 黒い看板に浮き上がる文字はしたたりそうに赤い。

 突然扉が千切れ飛ぶように開かれ、中から人があふれ出した。

 血と叫びがほとばしる。

 走れ。

 逃げなければ。

 追っ手に知られないように。

 あの路地を曲がり、次はこちらに。

 次第に狭く、次第に明るく。

 饗宴はどこだ。

 どこだ。

 醜い者と美しい者が同居する。


「だからさ」

 歪んだのっぽの長い足がこちらを机の下から蹴ってきて、カエルは顔をしかめてノートから顔を上げた。

「相続対策したいっつうから教えてたわけ。俺の前任が教えたの。いい人だったよほんと。でもその通帳がどこにあるかは多分もうちょっと忘れかけてるみたいだな。愛人さんとそのお子さんの通帳と判子」

「預かってんの?いいのそれで?」

 なんてひどい雑音だろう。モンマルトルの夢は一瞬で消えた。もう夜でいつものオデオン座の近くのカフェだ。それだってこのだみ声とマナーのない態度がなければ美しい夢なのに。

「ぼけてきたらそういうことするよ。管理できねえから銀行に預けんの。前任者が信用されてたんだ。おれはお気に入り坊っちゃんのおともだちだし」


 カエルは短い鉛筆と革のノートをごそごそと仕舞い込んだ。

──そんなに大切にめといてどうすんの。

 彼は揶揄するつもりなのかもしれないが、物柔らかな低い声がそう感じさせない。だから黙って聞いている。

──広めちゃえばいいのに。電波に乗せて流してみれば。友達も出来るかもしれないよ。いい感じの仲良しもさ。

 あんな連中だけじゃなくて、と言いたいんだろ。わかっているよ。

 そう答える代わりにカエルは言った。

──友達ならお前がいるじゃないか。

──ふーん。

 彼は笑顔も見せなかった。

──いやでも、わかってやれないからさ。俺には判断付かないから。

──わかんなくていいんだよ。


 迷うカエルの目線の先に、足を組んで上を向き、片手をソファの背凭せもたれに預けて上を向いたブーツがいる。

 ふっと煙草の煙を上に吐く仕草は完璧だとカエルは思う。

 ブーツは新しい子の話をしていた。

「ホテル引き払ってマンション連れて行ったみたいよ。改装終わったって。あちこち連れ歩いて観光サービス、やってらんない」

「付き合って一緒に行ってやれよ。ツアコンのバイト今ひまでしょ」

 テロの影響で目下パリは閑古鳥が鳴いている。日本人だけが九割消えた。

 見かける東洋系の顔は、春節の中国人ばかりだ。ツアーを組んで行列を作っている。

「プライベートで子供のお守りなんか絶対にしたくない」


  醜い一族が集う饗宴。

  孤高の女王をあがめよう。


 この顔を見るのが唯一と言っていい楽しみで、その薄い白い頬のラインは見事なたまごだ。今は襟元のファーに包まれている。

 伸びたブーツとコートの色が完璧にとけあっていて、さっきあれほど恥ずかしいと思っていたこののっぽと同類だなんてことは問題でなくなる。

 彼女はこの町に似合う色を知っている。


 ブーツはビザの説明でマンションに行き、そこでまた新参者と顔を合わせた。

 新参者は巻き毛君とくすくす笑いながらお互いに勉強をしているようだった。もう寝なさい、と何度(たしな)められても体を揺すって笑うだけで動かない。

──外行く?

 苦笑しながらブーツは言った。

──いや、いい。

 ブーツは目の端にきゅっと力が入り何かが目尻が吊り上げるのを感じる。唇の端が歪んで変な動きを作った。

 そのうち巻き毛は自室に引き取ったのに、肝心の「あの子」だけはずっと、真隣のテーブルで足をぶらぶらさせながらノートを開いて問題を解いていた。

 ちらちらこちらをうかがう長い睫毛まつげに大きな目が邪魔で仕方がない。そろそろ苛々が限界に達して、また小突いて合図しようとした時、彼がさすがに気が付いてうながした。

──上に上がってな。

──まだ眠くない。

──お子さまだからもう寝るの。

──やだ。

──駄目。

──これが終わってから。

 彼は立ち上がって後ろからノートを覗き込む。肩に手を置いているのをブーツは鋭く凝視した。


いてるみたいね。しつこいの」

 ブーツは唇を歪めて頬に皺が出来た。

「もうできちゃってんじゃない?あいつ、手早いもん」

「はあ?」

 何の話をしている?

 二人は顔を見合わせた。

「弟でしょ?」

 ブーツは軽蔑した顔で突き刺すように言い放った。

「あれ、女だよ」

「え、来てみたら女の子だったの?」

「まあそういうことなんじゃない」

 のっぽはぐるっと殿様の方に向き直った。

「おまえは?見たんでしょ」

「うん…」

 カエルは生返事をした。

「男の子だと思ってた。わからない。背も高くて、中性的で」

「男だって本人が言ったの?あいつが?」

 のっぽは前のめりになっている。食いつきが怖かった。

「弟が増えるらしいと言っただけだよ。そこから性別なんて聞いてないもの」

「違う違う。ばか」

 辟易したらしくブーツから粗っぽい声が出た。

「だからわかんない?男のふりして来てんのよ、髪切って!アレ詐欺師なの!あいつはそれをわかってて、遊んでんの!」

「お前それ確かなの?絶対?」

「見たんだもん書類。おじいちゃんの部屋で」

 カエルははっと体をすくめた。


「お具合はどうですか?」

 扉を開くと白髪頭が机の向こうに見えていた。

 ブーツがよそ行きの細くて高い声を出すとまるで別人だ。

 少し間を置いて返事がある。

「うん」

「お食事ここに起きますね、それとこれ、頼まれていたお買い物です。お洗濯ものありますか?」

 答えを期待しないまま、机の上に投げ出された書類に目を通す。

 いい机。

 マニキュアの指で撫でる。

 趣味いいんだよ。このおじいちゃん。

 逆に息子の部屋は事務的で、安物の家具ばかりで簡素だった。


「詐欺師だよ。だって年齢なんかぜんぜん嘘だもん。戸籍の父親の名前も違ってた。苗字が同じだから親戚かなんかじゃないの?」

「親戚が子供を変装させるか?あの手この手だな」

 今までだって、父親の名前が違うことなんてあったじゃないか。詐欺師なら彼が黙っているはずがない。とうに送り返されているだろうに。

 いったい何を騒いでいるんだ?

 カエルはそう思っても、口を出せずに黙ってうずくまっていた。

 ブーツが彼の父親の部屋に出入りしている事実がとげのように刺さって離れない。

「へえそうか。じゃあ何か?詐欺師なら妹ですらないのか。ロシア人がいなくなれば二人きりじゃん」

 のっぽが顔を歪める。

「いいな恵まれてるよなあいつ。本当だよ」

「あんた何考えてんの?」

「お前それあいつに言ったの?確かめたの?」

「言ってない」

 苦々しいブーツの笑顔が頬でわずかにひきつった。

「だってさあたしほら、余計なお世話だもの」

 ブーツから荒々しく、とげとげしい声が出た。のっぽとカエル、代わる代わる赤いマニキュアの指をさして言う。

「わかってないな。あいつそんな恵まれた人間でもないし、そっちが思うようないい奴でもない。もっと冷たい、エゴイスト。悪い奴だよ」


 どこからともなく、くぐもった着信の音が聞こえて来る。全員で携帯をさぐった。

「ちょっと出る」

 ブーツが、席をはずした。


 のっぽが殿様のれた袖を押さえてささやいた。

「最近冷たくされてるから気が気じゃないよな。今度は親父さんよ」

 そんなはずない。そんなはず。喉にからんで口が動かない。

「もうなんでもありなんじゃねえのあいつ、なりふり構っちゃいられないんだよ。ピンチだから。復讐の意味もあんじゃない」

 わざと言っていることがカエルには分かる。のっぽはいつでも人が嫌な思いをしたり苦しんでいたりするのを見るのが好きだ。

 ノートがぎゅうっと握りしめられた。中の想いや言葉ごとてのひらの中に歪んでつぶれる。


 誰と付き合おうがそんなのどうでもいい。

 彼女が底なしに孤独でいることを僕は知ってる。

 君に寄り添い、孤独を癒せるのが僕じゃないことはわかってる。

 でもせめて。

 世界に一人じゃないって。

 それだけはどうか分かって欲しいんだ。


 目を上げれば、血のように赤い看板の文字がかすんで揺れる。

 電話を耳にあてたブーツが唇に煙草を運ぶのを見た。

 高慢な女王様、その存在だけでいい。そこにあるだけでいい。真っ白なサクレクールののように冷たい白い貴婦人、高慢で冷酷な人がこの心臓の上にナイフを置いてくれればいいのに。

 闇の中にぼんやりと浮かび上がる白い壁は、どこにも扉がない。

 硬く冷たく、誰を受け入れることもない

 手さぐりで歩けばぼんやりと目の前に灯りが浮かぶ。

 いつもの甘美な妄想が今日は奇妙に色褪せて見えた。

 そうか。女の子だったのか。

 ふっとあの目ばかり大きな短い髪の、すらりとした容姿に記憶が入れ替わる。

 どんよりとした空気が漂う冬の古い都の中で、その姿はあまりにも鮮やかに浮き上がる。

 生気に満ち溢れた好奇心いっぱいの獣、そうだ生気だ。

 生々しく洗練されない。ひたすらに、いのちそのものだった。








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