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愛の鳥  作者: 天海 悠
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メトロの夢







「車は?」

「路駐したままで平気だよ」

 ノートルダム大聖堂からセーヌ川を超えて、これからどこか行ってみたい所はある?とたずねる。相手はわずかにためらって、思い切ったように希望を述べた。

「よかったら、マザラン図書館に行きたいです」

「マザラン図書館?どこだ?」

 突然飛び出してきた聞いたことのない名前にとまどった。

「フランス学士院ってところでシテ島のすぐ近くにあるみたいなんです」

「そんな所に興味あるんだ」

「友達がいっぱい調べてくれて、綺麗だから絶対行ってみなって…言ってました」


 二人で大きな門の前に佇んだ。

「閉まってるね。今日は休みかな」

 それじゃあと、観光客向けのバスに乗り、凱旋門を軽く過ぎてメトロに乗った。トロカデロ庭園を歩いて抜けると、エッフェル塔に向かう。

 そこかしこでアフリカ系の青年たちとすれ違う。皆、判で押したように大きな針金の輪に通した大小さまざまなエッフェル塔の模型を持ち、じゃらじゃらと下げて観光客に声をかけている。

「客引きと詐欺だから気を付けて」

 目を合わせないように避けながら、彼は機嫌よく冗談を言う。プランタンでふと口にした静電気の冗談に乗せたくなったのかもしれなかった。

「あなたが落としたのはこの金のエッフェル塔ですか、銀のエッフェル塔ですか?」

「日本語わからないと思って!」

 彼らのすぐ近くをすれ違いながら、空に向けて声を張り上げると、連れは噴き出して顔を押さえた。緊張がとけて行くのが楽しかった。短髪の中にいっぱいに笑顔が広がり、彼の言葉を引き取って続ける。

「それとも銅のエッフェル塔?正直者のあなたにはこの金のエッフェル塔をあげましょう」

「はい、5ユーロです」

 腕を掴んでカバンを引っ張ると声を立てて笑い、逃げようとする。

「ユーロよこせ、ほら、ユーロ」

「あげない。やめてやめて」

 はじける笑い声に、人々が何事かといった表情でこちらを振り向く。体をぶつけるように抱き着かれ、その肉体の重さを受け止めるのに体全部を使わなければならなかった。


 耳元で規則正しい寝息が聞こえる。

 メトロで眠り込んだ連れは、すっかり安心したように体をもたせかけている。

 疲れたんだろうな。

 目をつぶったまま、首がガクンと揺れるのをそっと腕を差し込んで支えた。友人たちにそんなことしそうもないねと言われるかもしれない。自然に出た。

 昨夜はおれが寝ちゃったんだよな。

 ちょっとくつろぐつもりでベッドに寝転がった所までは覚えているが、それから記憶がない。深夜に違和感を感じるまで、夢も見ないほどぐっすり眠り込んでいた。誰かに呼ばれたような気がして、母かなと思う。起きたくないからそのまま眠ろうとしたが、妙に狭い。

 すぐ近くから何か聞こえて来る。

 夢うつつに、これは一度も聞いたことのない新しい音だぞ、と考えた。

 誰だろう。いや何だろう。彼女なはずはない。体つきも違うし、こんな風に無遠慮に押し返してくるような子じゃない。いつも周囲に気を遣う。

 脇腹にあたたかい圧迫を感じて、彼はしきりに押し返そうとした。

 こちらはベッドから落とされそうになってるんだ。

 危機を感じてもう一度、今度は本気でぎゅうっと押し戻す。

 このままでは本当に落ちてしまいそうだ。

 重たい、質感のある肉体が柔らかい大きな獣のような吐息をついてくるりと寝返りすると背中を向けた。

 こんなに、あたたかな獣と体を寄せ合うしかないなんて、手を伸ばしてちょっと撫でてみると、女でも男でもない。どうしたこれは?新種の生き物だ、多分。

 何かが届いている。パネルのついた小さな机の上からバイブ音が響いていた。

 手探りで携帯を取る。省エネモードでもまぶしい。

 通知をチェックすると父親からだった。


  一刻も早く会いたいけど 怖くて なかなか決心がつきません。

  この美しい街を、たくさん見せてあげてください。

    追伸:君も少しは休みなさい。


 父親はなぜかいつも会えばあれほど親しげで気さくな調子なのに、メールだとひどく他人行儀な言葉遣いになる。

 頭をこすりつけてまた押し返そうとしてくる立派な体をよけて肘をつき上体を持ち上げる。見下ろすと相手のジャージは首元のジッパーが上がりきっていなかった。胸の白さが眩しくて反射的に 目をらした。

 一刻も早く、か。

 手で目を覆っても、もう眠りからは覚めかけていた。巻き毛の泣き顔がちらっと浮かぶ。

「この前、二十歳までであとは知らない。みんなそうしてきたから、一人だけ特別扱いはしないって」

 顔を白くした弟は床に座り込んでいて、指のすぐそばには花瓶の破片が散らばっていた。

「オヤジが?」

 慎重に破片を拾い、重ねていきながら彼はたずねた。

「お兄は前に言ってたよね。感謝するのは勝手だが、あてにするなって。こういうことだったんだね」

 援助はしない。保証人にもならない。紹介もしない。遺産は遺さない。父親は口癖のように会うたび子供たちに言い聞かせている。

「見捨てられて、野たれ死んだ兄弟もいるんでしょ?簡単に押し掛けて来らないように、だから海外巡ってるんでしょ」

 そんなのただの噂だ。関係ない。

 だが彼は弟の背中に手を置いたまま、何も答えなかった。

 古い壁紙に割れた花瓶、薄曇りの空に弟の髪の透き通った艶だけが、およそ場違いな美しさだった。

 垂れた頭の下から声が聞こえた。

「あの子はきれいだし頭も良さそうだし、きっと気に入られるよ」


──野生動物は病原菌を媒介するから触るな。犬だって野犬は保健所に送られるのよ

 母の冷たい声が聞こえる。

 そりゃ正しいかもしれないけどさ。

 ただ可愛いって話をしたかっただけなのにすぐそういうこと言うの、人としてどうなんかな。

 おれから別れを切り出したばかりのあの彼女はまともな人だった。母のような人間味のない所がない。だからきっと選んだのに。

 彼だけにではなくて、彼女は周囲にいる人がいつも居心地がいいように先を見て動く。優越を感じると同時に、顔色を伺う怯えが見え隠れする。声が聞こえる

 気に入らなかったらどうしよう。これで大丈夫なのかな、怒ってない?

 愛されることにあぐらをかき自分がどんどん傲慢な人間になっていくようで、彼女がわずかに辛そうな顔をするたびにもういいや、と思っていた。

 さっきから何を過去形にしているんだろうか。


 メトロがガタンと揺れて、連れは吐息をもらすと頭をちょうどよくもたせかけ直し、ぴったりとくっついてきた。

 この子は気に入られるだろう。当たり前だ。

 俺たちとは立場が違うんだから。

 短い髪を撫でて、本当に少年みたいだなと間近で観察する。長い睫毛が頬に影を落とし、膨らんだ唇は口紅を塗ってもいないのに赤い。

 男の子のふりしてるの?

 子供っぽく見せたいから?

 おばさんにやらされたの?

 それとも自分のアイデアかな。

 結局、朝からこれまでも何も聞かなかった。今からも?

 大きな目が間近で見上げている。顔がどんどん近づいてきて唇の感触を感じた時、やわらかさが灼けるようだ、と彼は思った。









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