表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
愛の鳥  作者: 天海 悠
13/18

交差点


「   」

 急に名前を呼ばれてびっくりした。

 机をガタンと揺らして立ち上がり、椅子が派手な音を立てて後ろの床にぶつかった。

 まや(、、)あいな(、、)が顔を寄せ合い、耳打ちしているのが見えた。またやってる。嫌な感じだなと思う間もなく二人はぱっと離れてまたこちらを見返す。

 顔が奇妙にぼやけていた。

 すうっと意識が遠く、教室の中に虚ろに響く笑い声も先生の声も遠く、

(もどってきちゃったんだ)

 ただそれだけで足の力が抜けて、体の骨がことこと音を立ててすべてはずれていくにも似た、脱力感に打ちのめされる。

 素敵な異世界の夢を見ていた。楽しかったのに。

 少女は机に突っ伏した。

 聞きたくもないのに聞こえてくる。また耳打ちしている。今度は静けさに乗って最初は小さく、次第にはっきり聞こえてきた。


(この間言ってたんだー。あの子、ともちゃんとれんくんと3人でよく帰るんだけど、彼いつもあの子にばかり話しかけるんだよね)

(でもあの子、知ってんでしょ。ともちゃんが好きってこと)

(なんかさちょっと気取ってるよね。何も知りません関係ありませんみたいな顔しててさ。それで割とおとこには笑顔見せるよね)

(この間なんかさ、彼ずっとコンビニで何か買うふりしながら待ってたんだよ。れんずーっと目であの子のこと追ってたもん)

(あーそれ私も知ってる。ほら、こずっちが横でそれ見てて、あんた絶対あの子好きでしょ?って言ったんだよね。すっごい焦って、違う違うそうじゃないとか言って別の名前あげようとすんだけど出てこないの)

(言ってたねー。ほらあの子、あの子だよあの子)

(なにそれ。え最低じゃね)

(意味わかんない)

(ともちゃん人がいいからさ。えーなんで、しょうがないよとか言いそう)

(偽善者いいぞいいぞ)

(私だったらやだ。絶対やだ。どっか行っちゃってって、いなくなってって思っちゃう)

(確かに。私も多分そう思う。悪いけど)


 止めどないささやきが流れ続ける。

 ここの人たちは、名前はあるけど顔がない。

 名前が無かったあの人には顔があった。 あんなに嫌だと思ったブーツ姿の女にさえ。軽蔑したような少し目じりの下がった冷たい目つきがはっきり思い出せる。それにそうだ、あの金髪の下に隠れる明るい笑顔、くりくりとした茶色の目。

 はっきりと蘇る。ブルカにふちどりされた、大きな美しい澄んだ黒いひとみだ。吸い込まれそうだったんだ。

 続きが見たい。見たい。

 会いたい。あの人に、もう一度会いたい。

 夢みたいな人なのに、夢でさえ想像したことがなかったような人なんだよ。ねえ、ママ…。

「でも、そっちだとママいないでしょ?」

「え?」

 少女は驚いて机に突っ伏していた顔を上げた。目の前に、親友が立っている。見上げると彼女は腰を少しかがめてのぞき込んだ。

「ともちゃん?」

「どっちがいいの?」

「どっちって?」

 ふわりといい匂いのする白い二の腕が首に巻かれて、くちびるがくちびるに押し当てられるのを感じた。

「大好きだよ。君のことほんとに好き。他の子なんて知らないよ!みんなほっとこ?いいじゃん二人で」

 強い、きっぱりとした声だった。まだ周囲でざわつくささやきを切り裂いて消していった。彼女は頬をなで、短い髪をさか撫でるようにした。

「こんなに髪短くしちゃってさ。男の子なんでしょ?男の子なんだから付き合ったっていいじゃん。わたしね、れんくんより…   が好き!」

「でも…」

「でもなに?迷うことないでしょ。ママがいるんだよ」


 あなたも顔がないのに?


 さっきのぞき込んできたはず、間近に顔と顔を合わせたはずの彼女なのに、顔がどうしても思い出せない。少女は眉を寄せて目の焦点を合わせようとした。

 友達のふっくらとした丸みのある腕が上へすらりと伸びて、指さす先には天空がある。見上げれば教室の天井は綺麗に消えて、一面の曇り空にはゆらゆらと白い見慣れた裸体があった。

 まるでお風呂に入っているみたい。

 曇天どんてんにちょうど顔の部分がさえぎられていてもわかる。

 あれは確かにわたしのママだ。


 どっちが現実、どっちが異世界?わかんない。

 ママとともちゃんがいる世界と、ママのいない、あの人がいる世界ってこと?

 それって選べるものなの?

「どっちだ?」

 ともちゃんのくちびるの笑みだけが目の前に漂う。

「ね、すっからかんになってたよね。忘れてたでしょ。ママのことも、私のことも。それはね、逃げだから」

 巻きついていた手から逃れようとしたが、腕に力が入らなかった。

 今度は親友は頬に触れ、顔をのぞきこんできた。言葉には力があり、真摯な心があふれていた。そこまで言ってくれるんだ。あんなに好きだったれんくんよりっていうぐらい、思っていてくれるんだね。

「現実に向き合お?二人ならきっとできるよ!」


 地面に穴があいて飲み込まれてしまいそうだ。

 言葉の意味が重い。想いが重い。

 少女は押し返そうともがく。

 あの人は逃げ場じゃない。そんなつもりで惹かれてるんじゃない。

 会ってすぐにそこまでってわかる?そんな簡単な存在じゃないんだよ。ともちゃんだってわかる。見ればわかるよ。あのひとを知ってしまったら、あんな人がいるってわかったら戻れないから。

 たとえここにはママがいたとしても…。

 ママ…ママと一緒にいたいけど。

 胸が踏まれたように重くて、押しつぶされそうだ。


──迷うな!


 今まで聞いた誰の声とも違う。

 知らない女性の、おとなの女性の声が空間を切り裂いて届く。するどい、厳しい響きに、少女は体を震わせた。

 振り向くと、そこは見慣れた大交差点の真っ只中で、中央に腕組みをして仁王立ちしている人がいる。

 わたしじゃなかった。わたしにじゃない。

 眼鏡越しの視線は別方向を向いていて、少女の方には目もくれない。

 少女はほっと安堵した。

 背が高く、痩せぎすの美しい人だが皺と苦労が肌を薄暗く染めていた。

 彼女の視線の先をぐるっと辿って首をまわすと、そこには少年がいた。

 だれ?

 少女は目を凝らす。

 自分と同じか、それより若い。上背があるが頬の輪郭の柔らかさは中学生ぐらいに見えた。


 こちらを振り向きかけている、少年の横顔にひとみがちらっと見えた。少女ははっと気付く。

 この人たちには顔がある。この女性とあの子には。

 少年が迷うしぐさを見せて、交差点上で足を一歩引いた。戻りたそうな、どっちに行けばいいのかわからない様子でぐずぐずした。ああ、あれじゃ信号が変わればかれてしまう。見ている少女まで冷や冷やする。

 女性が鋭く、低く叫んだ。

──振り向かない!戻るな。

 だれ?

──信じる方へ行け。自分がここだと思う方へ。


 少女は顔を上げて、後ろからやわらかく首に巻かれた腕を振り払った。

 床が奇妙な震えを小刻みに揺れている。顔のないクラスメイトたちが影からまた形を成している。不安げに顔を見合わせていた。

(さっきから何?)

(これ地震?こわ)

 少女は顔のない友人と対峙していた。口を開いて伝えようとする。これまで携帯を持ち上げては閉じ、通知に背中を向け続けながら、どうしても言葉にできなかったことを。

「ともちゃん、ママのお葬式をやってくれた葬儀社の隣を通った時にね、『今日も誰かが死んでいる』通りすがりの人がつぶやいたの」

「……」

「わたし、全部捨てたいの。自由になりたい。教室からも、おばちゃんの家からも、ともちゃんからも、ママからも。何もかも脱ぎ捨てて、遠くに飛んで生きたい」

 床が不自然に揺れている。少女はよろめいた。

「ともちゃん、どっちも同じことじゃない?逃げた場所だって、現実なんじゃないの?」

 揺れながら足を踏ん張って立とうとする。友人の口のはじが曲がって、下を向いていた。がっかりした時の表情だとわかっていた。

「わたしが選んだ場所が私の現実なんだよ。逃げなんて、本当はどこにもないんだ」


 床がひときわ大きく揺れて、ガタンと音までする。今度こそ目が覚めた。

 少女が目を開いて最初に見たのは古びた見慣れない座席の色で、黄土色から深緑へ不思議なグラデーションを描いている。

 まるで海に潜るようだ。

 またはげしく揺れて、電車は動き始めた。揺れ方も山手線とは違う。

 パリのメトロだ。

 もたれていた暖かい体に気が付いた。首が揺れないように肩を抱かれていた。

 あたたかくて、気持ちが良い。またもたれて目を閉じたが、恐る恐る顔を上げる。見下ろしている優しい目が胸にいっぱいに広がる。

 思わず首を伸ばしてくちびるにキスをした。それから顔を肩に押し当てて小さく聞いた。

「わたし、寝てた?」

「うん」

 なぜこんなに冷えてるんだろう。陽が当たっている所だけが熱くて、足先からすねが冬の日のように冷えている。

「あの男の子だれ?男の子がいて…」

「夢見たの?何か言ってたよ。危ないかれちゃう、とか何とか」

 夢が交差したような気がした。

「だれのかわからないけど。誰かの夢と混線してたみたい」

「ふーん?」

 まだ眠る子供を起こさないようにする様子で、彼はゆっくり、低く言った。

「疲れたんだろ」

 こんなに近くにいる。

 もたれて甘えるのを許されている。

 壁を作っちゃえば、誰も容易には入れない雰囲気を持っているのに、いいんだろうか。

 この人が許しているんだから、きっといいんだ。

 顔を寄せて甘える仕草をして、こんなに媚を見せる女でいることを自然に感じたことはないと思う。

 女としてのわたしがこの人から引き出されていく。

 頭の上で、彼の声が低くつぶやいた。

「あの時はおれの方が寝ちゃったから、これでおあいこ」

 ぴりっと打たれたように身体中に電流が走って、少女は今度こそ目が覚めて真っ赤になった。

 ぱっと顔をあげて身を離そうとしても体は重く彼の顔が近い。見上げた少女の方に、少しだけ彼の方から近付けただけで触れた。

 少女は唇に柔らかなふわりと温かい感触を感じた。

 その唇が動いて声無く語るのをあの時見たように思う。


 信じる方向なんて自分ではわからないのに。間違った道なんてどこにもない。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ