赤い風車
「お前に忠告しておかないと」
用心深く蛙が言う。並んで歩きながら彼は聞いた。
「のっぽのこと?」
「あまり性質のいい人間じゃないから」
性質のいい人間じゃないのは、そこだけじゃない。ブーツがのっぽの部屋に出入りしてるのを知ってて言ってるの?
思わず暴露しそうになった一言を、喉の奥に噛み殺した。
──よう。
蛙はいつも明るく、少し恥ずかしそうに挨拶をする。茶色い焼けた顔の真ん中で飛び出している目が細くなり、人懐っこい笑顔がくしゃくしゃになる。はじめて会った時から、その気さくな態度に救われていた。
──僕ね君と同業だったんだよ。中国に転勤になったのを断って退職したんだ。
出し抜けに、あの時と同じように彼は聞いた。
「どうして帰らないの?ここが好きだから?」
蛙はさも愛しそうに、葉の落ちた黒い枝の彩る石造りの街をぐるりと見渡す。
「もう離れられないなあ」
「昔、あんたに君もそうなるかもよと言われた」
蛙の目が見ている愛しさが彼には見えなかった。全てが空っぽの寒々しい景色に過ぎない。
「運命の出会い、信じないの?」
携帯が鳴って、父親からのメッセージが入っているのを見た。
あんたはまだ、信じてるの?
ちらっと見ただけで苦い顔をして通知を消した彼を見て蛙の殿様は、昨日の件かい?と思いやる。
「にせもの騒ぎだろ。大変だったな。嫌な思いしたね」
「女性はみんな詐欺師とは言わないけど、最初から疑いの目で見てしまう。こんな事ばかりが続くと」
「調査の結果、親子関係が認められませんでした」
『嘘!絶対、うそ!』
過呼吸で倒れそうな荒い息が、演技なのか怒りなのか興奮なのか、こちらからはわからない。
『そんなはずない!』
「はずないと言い切れますか?」
自分が吐いた言葉が示唆する内容に、自分が嫌悪を催した。
「こんな事を申し上げるのは心苦しいですが、ご主人と同時進行していたのではないですか?」
相手はしばらく黙った。手元の資料に目を落とすと、それは髪の長い、いかにも中年女性という風の女性だった。一度話し始めると、機関銃のように喋り始めて止まらない。
『ごめんもう息子にも話しちゃってるの。この話なかったことにしてくれます?もう何かしてもらいたいなんて言いませんから』
その時はもう、彼はスマホは少し耳から離していた。もちろんアプリで録音している。意識して丁寧な言い方を心がけた。
「残念ですが、今後のためにも息子さんには事実をお伝えする必要があると思います」
声がきつくなり、表情がこわばって鬼の形相になっているのが聞き取れる。
『ちょっとひどくない?あなたって、人の心あるんですか!?直接話がしたいの、彼に!彼を出して!』
電話を切ってから、彼は苛立たしげに受話器に向かって毒づいた。
「クソババァ」
蛙が立ち止まって眺めたので、彼も目をやった。赤い塔に四つの羽が見える。ムーラン・ルージュだった。冬の冷たさに満ちた白日の下では、その赤さは妙にくすんでいる。夜の蠱惑的な明るさは欠片もない。
「どうした?」
「おやじのやつ、巻き毛君には会わないそうです」
「あのハーフの金髪くん?」
「のっぽに振込を頼まないと」
それは、決別を意味している。
「責任は取ってるなんて偉そうな事言ったけど、手切れ金なんだよ、結局」
──今日、知り合いとはじめて飲むんですが来ます?父と取引のある信託銀行の社員なんですよ。
思いがけず彼が蛙をのっぽに紹介する形になったが狭い世界のこと、お互いになんとなく見知っていたような気配が漂う。のっぽはあからさまに見下した態度でいた。
「どうなの?一番可愛がられてるって気分は」
のっぽはカフェの椅子に長い手足を投げ出して預け、あけすけに言う。大声なので周囲がちらっとこちらを見た。
「だってそうだろ、君はあのお父さんが唯一認知した子供」
「そんな個人的なこと、大声で言うもんじゃない」
蛙がたしなめた。
「誰もわかりゃしないよ」
のっぽは笑い、乱杭歯をむいて笑った。蛙が居心地悪そうに周囲を伺う姿は、人の目を気にする日本人そのものなのにと、他人事のように彼は思う。
「のっぽを見ていると、僕が捨てて来たかったもの全てがそこにあるような気がする」
蛙はそんな風に言いながら、赤い四枚羽の風車から目を離さない。
「でも彼のいうことも一理ある。君がお父さんの一番のお気に入りであることは確かだ」
「それはおれとあの人との間に、金銭の介在がないからですよ」
珍しく強い口調と、青年の紅潮した頬に蛙は自負を見た。
「おれは、出してもらってない。養育費も、教育費も」
奇妙な老成さや落ち着きを見せていても、年相応の所もあるじゃないか。
蛙は安心すると共に不安になって、のっぽのような蛙に言わせれば狡猾なタイプに付け入らせるすきがあるのではないかと思いを巡らせた。
「その自負はお母さんに対して持つべきだね。金銭を介在させないのは、君のお母さんなりのお父さんへの愛情表現じゃないの」
「愛情って?あの人に?」
彼は先を歩きながら噴き出した。赤い塔と屋根が遠ざかっていく。何事もない、ただの風景の一つであるかのように。
奇妙な関係の父と母は、つかず離れず父が関係を持ったどんな誰よりも長かった。
なれそめなど彼は興味もないし、聞きたくもない。海外勤務になって少し経ったある日、母から連絡が来た。
──あの人、そっちに行くらしいから。
──おやじでしょ?
──世話なんて見る必要ない。仕事に支障が出るようなことしないのよ。わかった?
──もう連絡は来てるよ。
「かねに関してだけは母はプロだし、父も母を信用してるのは感じてました。おやじは母に断られたんですよ、財産管理を」
──どういう神経してんの?アホか。私に何の関係があるって言うの。ふざけんな。
「すごい、女傑だね」
「それで親父はおれのとこに来た。色々ね、自分じゃやりたくない面倒事を頼みたいけど、他人は信用できないんだ。母は断れって言うけど、何かしてやれるのが嬉しくて。まあ、やっぱり可愛がってくれたから」
よそよそしく冷たい母と違って父親はいつも優しかった。スマホを持たせてもらったのも父からだ。
「けどこんな風に金だけ渡して会いもしないのを見てると、おれには愛情と金銭に関わりがあるのかわからなくなってきた」
小さかった彼を、父親はよく連れ出してくれた。
道行く人に声をかけられた。
「おや、息子さんですか。可愛いですね」
「そうでしょう?この子、自分で言うのも何だけど出来が良くてね」
通行人は苦笑する。母親にはない、あからさまな表現に戸惑いながら見上げた。
本当に可愛いと思っているらしき様子は傍目からも明らかで、母親のしない愛情表現がそこにはあった。
電話越しに、母親の厳しい声が漏れてくる。
『何勝手に連れ出しちゃってんの?お前には何一つ世話になってないんだ。少しは考えなさいよ』
「そんなに怒んないでよ」
『あの人にも酷だわ』
ふう、父親はため息をついた。
どんな母のヒステリーにも、父はいつも少しだけ甘えた低い声で応対をする。
「ママが嫌がるからさ、ね」
彼は口を出した。
「いいかたが喧嘩っぽいけど」
「ん?お母さんかい?」
「あれが普通だから、気にしなくていいよ」
「そうか、そうだね」
父はすっと手を出してきた。慣れていない指先で戸惑いながら握りかえすと、当たり前のように大きな手のひらが温かくにじむようにつつんで来る。
「あの人はいつもズパズバ痛いとこばかり言うんだよなあ。強い人だよ」
懐古的な口調に、あたたかさが滲んでいて、父から流れて来るものが嫌ではなかった。
これがにくしんのじょうっていうものなのか?
大人びたことを考えた。
(さっきの、あのひとって誰だろう?)
──あの人にも酷だわ
彼は急に眉を寄せた。
あのひと。
呼び水となって呼び起こされたいやな記憶だ。
「あなた?何してるの?」
その子、と指差すことはしなかったが、寄せた眉の下の目が彼を凝視している。中年の女性と大学生ぐらいの青年が寄り添って、彼と父親に相対していた。
女性は、中年の肉付きにしても、容貌は美しかった名残が残っている。花柄のレースが袖口からはみ出して小刻みに震えていた。
長い髪が揺れ、ブーツの踵がかたかた鳴っている。
帰り道がわからない場所のこと、一人でどうしようもないから、それから起きるいさかいをただ眺めていた。
「恥さらしでしょ、どうしてこんな近くで連れ回すの?わが子を連れていったこともないくせに、どうしてそんなことが出来るの?」
「そんなこと言わないで、子供の前でしょ、やめようよ」
いつの間にか、はす向かいに彼と同じように腕を組んで黙って聞いている存在に気が付いた。
女性と一緒にいたずっと大きな年上の青年だ。その大きくて奇妙に美しい目が、眉をきゅっと寄せて嫌悪を示していた。
悪意がある目だ。だがそれは自分ではなくて父親に向いている。
自分はまるで視界に入っていない。まるでいないもののようだ。
急激に、父親の存在が遠くなっていった。青年は息子、この二人は正式な夫婦。家族の言い争いの脇に立って待つしかない。並んでいながらにして、この青年と女性と父、三人と彼自身の間に、彼は線を感じた。線のようなもの、透明な壁のようなもの、弾き出す力がある。壁向こうのいさかいは、この三人のためのもの、彼は徹底的に部外者なのだ。
女性は中年の肉付きはしていても、若々しいファッションが多少違和感があっても、女性らしい美しさの名残はまだ留めていた。
怒りと嫉妬は年齢よりも年を深めるのかもしれない。
少年の中で今は青年となった彼は記憶の中で見ていた。
母親はひどく怒った。
「ばか、関わるなって言ったじゃない!あいつはいつも行き当たりばったりで、てんで何も考えてやしないんだ。優しい甘い口車に乗って結局傷付くのはあんたなんだよ」
蛙が物柔らかに言う。
「女の人ってのは確かにやっかいだ」
──あの人にも酷だわ
その相手の人、おやじの奥さんが傷付くもとのこの体と心を勝手に産み出したのは、あんたなんじゃないのか?
母の化粧っけのない厳しい顔付き、ビジネススーツ一本やりの痩せて厳しい姿にも、長い髪は付き物で、気を使って手入れされた毛先がいつも背中に揺れていた。
壁向こうの父親は孤立無援だった。二対一で責め立てられ、疲弊していた。
取り巻いては責め立てる長い髪が空中にふわふわ舞う。
女性はみな、鬼のような形相をしていても、冷たい冷徹な態度でも、甘えた恋人顔をしていても、思わせ振りなねっとりした仕草も、すべて同じことだ。
長くゆるゆるとしめつける長い髪とかちかちなる踵を持っている。
上滑りに言葉がその、化粧の肌の上を転がり落ちていく。髪を振れば、こちらの心は跳ね返されていく。
「長い髪、マニキュアの爪、べったり付けた口紅に不自然な睫毛、何もかもつくりものだよ。厄介っていうか、もうね、気持ち悪い!詐欺をしようと思っていないから質が悪い。誰もみな、自分のいいように話をねじ曲げるんだ」
蛙はびっくりしたように彼を見た。
「どうしたんだお前らしくないぞ感情的になって。何が気に入らないの?女性全部?」
「今ちょっと、アレルギーかもしんない。正直に言うと」
「何言ってるの。まだ若いくせに」
あんたに何がわかる?
苛立ちをものともせずに蛙は年長者の余裕をもって蛙は突き出たまぶたを半分閉じながら諭して来る。
「君だってこれからの長い人生ずっと禁欲で生きようと思ってる訳じゃないだろ?」
「そりゃまあ」
「これから未来において、君を受け止める誰かは、最初から君のお父さんの言う『その相手』になる可能性を否定された存在なの?」
返事が出来なかった。
「聖人じゃないから」
それだけ答えるのがやっとだった。
「だったら、君にのっぽを非難する資格はないじゃないの」
真面目な顔をしている。
「君はそんな風にできてない。のっぽとは違う」
はあ?何を言ってやがる。
かっと反感が湧いた。
人を訳知り顔で勝手に決めるな。
だいたい、そこまで考えるわけないだろ。フェミなんて大嫌いなんだ。おれとやりたいって思う女が手の届く所に来ればそんなの関係あるもんか。
そう考えて思考が立ち止まる。
じゃあ、ブーツはどうしてだめなんだ?
永遠にたった一人だ、という確信が取り巻いて体の周囲を渦巻きめぐる。
艶やかな予感を感じさせる赤い風車、ムーランルージュはもう遠くて、いつもの見慣れた石畳と白い建物の風景に戻っていた。
誰も分かってくれないなんて、子供っぽい幻想にすぎなくて、そもそも誰もかれも自分のことばかり考えている。
彼はふと、足を止めた。
誰かにこんな話をしたっけな?
それも昨日、今日のことだ。
ふっと微風が頬をかすめて、若いあの『新人くん』の香りが包むのを感じた。
乾いて明るい太陽の香りだ。
この国の乾いた空気の中に、はじけるような若さにあふれ汗までがふわりと甘い。
気配、仕草、笑顔に明らかな好意が含まれている。困った事に心地よい。
17歳だろ本当は。14ってことはない。来年受験だろ。どうすんの?
あの時、そう言ってやりたかったが、あまりにも萎れているから、彼はあれ以上の意地悪を言うのは止めにしたのだった。