かもめ
冬の気配に包まれた石畳の街が、彼が笑顔で話しかけてくるたびにぱっと明るくなる。空は薄曇りで人通りもなく、昨日より寒いのに。
「手探りで調べながら行くしかないな。スーパーと仕事場の行ったり来たりしかやってないから」
「スーパー行きたい!面白そう」
「この辺りにあったかなあ。プランタンかな。デパートだけど行く?」
「やった!」
「やっぱり嬉しい?」
「もちろん」
ぱっと、地を足で蹴った。
はじける笑いが空にきらめき、楽しかった昨夜のそぞろ歩きの続き、いや本番がやってくる。
「何か買うの?」
「なにも。見て回るだけでいいんです」
老舗のデパート、オ・プランタンに入ると、入り口で屈強な黒人の警備員に止められた。体に爆発物検知の棒をあてられる。
「テロ以来こうなんだ。何てことはないから平気だよ」
彼が言う。鞄の中を見せるよう求められる人もおり、求められない人もおり、判断の境目がわからない。
通り過ぎてから、少女は自分から冗談を言ってみた。震える喉から振り絞って、いつもの自分の声ではないような気がした。
「あれはもしかして、静電気を取ってくれたのかな?」
「違うだろ」
彼は笑って答え、それから微笑する。
「そんな風に言えるなら、元気が出たね」
冗談とちゃんとわかってもらえた。真っ赤になって思わず頬に手をあてる。
ぶらぶらとただ歩くだけの伝統ある老舗のデパートは陳列棚も狭く、日本であればきっと塵一つなく磨きあげられているだろう店内とはまるで違っていてごった返していた。ブランド品もごちゃごちゃ積み上げられている。
「東京の方が綺麗な気がする。ぴかぴかすぎるのより感じが良いけど」
「古い建物が多いんだよ。歴史があるってことだろう」
歩きながら、ここはナポレオンの都市計画で作られた街並みで、一階が店舗、二階に倉庫、三階が居住区、それより上は使用人の住処だったらしいというそれなりにガイドっぽい話を聞いた。
「友達の受け売りだよ」
友達って昨日の女の人なのかな。彼女じゃないって聞いて嬉しかった。
恋人がいてもいい。きっといる。けどあの人はやだ。
昨夜、少女がロビーで小さくなって座っていたとき、彼がフロントに立つと、ブーツを履いた大人の女性はポケットから煙草を取り出した。
シガレットっていうのかな?とぼんやり考えていると、彼女は紙箱をトントン叩いて一本出しながら聞いてきた。
「あなた出身どこ」
「東京です」
「そ」
あまり詳しく言いたくなかったからぼやかして答えた。相手もたいして期待してない様子で、短く答えただけで煙草を口に咥える。火を付けてからすっと息を吸って吐くまでが流れるように、いかにも手慣れている。
わたし彼に、ちゃんとごめんなさいを言ったっけ。覚えてない。
「あなたゲイ?」
不意打ちに何と答えればいいかわからず、硬直していると、ブーツ女は相変わらず面白くなさそうに続けた。
「そんな髪してるから」
「違います」
「ふーん」
カールした長い睫毛の下で目が動いて、上から下まで撫で回すように見られる。
軽蔑?興味?
緊張で額に皺が寄っていくのを感じた。
連絡しようとしてる友達があの人なら、やだ。もしそうだったらやだって言おう。
そんな胸の痛みに気づきもせずに兄は続ける。
「古物研究のかたわら、日本人相手にガイドをやっているのがいるんだよ。まだ三十代なんだけど、トノサマガエルのおじさんみたいな顔してる。話は抜群に面白いから、誘えば良かったかな」
「人見知るからいいんです」
「人見知る?」
「動詞の活用形」
「じゃなくて、それほど人見知りのようには見えないってこと」
だってあなたが相手だもん。
少女はつぶやきを噛み殺して下を向いた。本当は袖にすがりたいのを押し殺して、ポケットに手を突っ込んだ。ああ、いくらおばに言われたからってこんな無理な格好、するんじゃなかった。笑顔の横顔をちらちら見ながら昨夜のことを思い返す。
疲れただろうからと促され、言われるがままにシャワーを浴びていると、手足が震えていることに少女は気付いた。
自分でそばにいて欲しいと望んだのに、体の震えが止まらない。脱いだ下着が洗面台にひっかかって揺れている。
シャワー浴びたらこのままの姿で出て行ってしまおうか?
わたしは女の子なんですって。男の子の恰好してました、ごめんなさいって、言えばいい。
頭痛は消えたし、空腹ももう感じなかった。夜の街を二人きりで仲良く笑いながら歩いた喜びがまだ体に残っているままでいたかったのに。彼がロビーで女性と話しているのを見て、突然、体中の血が逆流するような衝動に駆られて部屋を飛び出していた。体中掻きむしって悶えても抑えられそうにない。
それは追いかけてくる足跡のような、ノックの音のような、着信ランプのような、何か。
無茶だ。
今日、一つわがままを聞いてくれたのに、二つ、ごめんなさいって言わないといけないのは嫌だ。彼を次から次へとがっかりさせたくない。いいよって、せっかく笑ってくれたのに。打ち明けたら今日そばにいてもらえないかもしれない。怒られちゃう。自分を守れって。
でも言わなきゃ、言わないと…。言いたい。打ち明けたい、今!
わかって欲しい一念に突き動かされて、少女はバスルームの扉を開けた。がちゃんと大きな音がする。
自分が何をしているかも分からないまま、まだ濡れたままの髪とタオルを巻いた姿で少女は部屋の真ん中に棒立ちになっていた。
ベッドの上で彼は、スーツのまま手足を投げ出して寝息を立てている。
おそるおそる近付いて袖をちょっと引っ張ってみたが、起きる気配がない。
(なんだ。寝ちゃってる)
狭い部屋だから身動きもままならなくて、所在なくぐるぐるとベッドの周囲をめぐってみた。
確かに二人用の大きいサイズのベッドだが、これだけ大の字で寝られてしまうと、自分が寝る場所があるかどうか不安になる。
耳をそばだてるとかすかにいびきも聞こえる。
少女は急におかしくなって両手を口にあて、声を抑えて忍び笑いした。
浴室に戻って体をよく拭き、髪を乾かした。パジャマ替わりのジャージを着ると、冬用なので体の線はまたすっかり隠れてしまう。
彼の投げ出した手足のすきまにそっと横たわる。彼の腕が頭の上に、胸が鼻先にあった。肘をついて頭を起こし、彼の口が半開きになって胸が上下しているのをじっと観察する。
こうしてると、年だってほとんど変わりない気がするな。
二十三才、就職したばかりの新人なんだよって言ってた。半年でこっち勤務になった、東南アジアの近い所を希望したけど、空きがなかったって。
よくわからないし、ぴんとこなかったが熱心に耳を傾けていた。彼のことなら何でも知りたい。何でも話して欲しい。
──大人って?
頭をもたせかけながら、考える。
わたし、きっと自分なりにしかなれない。
いつもの自分でいること、いられることがわたしを守ると思う。ママならきっとそう言う。
(このひとは自分のお母さんが嫌いだったのかな?)
この人はわたしを守るなんて言わなかった。信じろなんて言わなかった。
だから信じられる。こんなに安心する。
あんなに緊張していたのは何だったんだろう。隣に寄り添う時はやっぱりドキドキしたのに拍子抜けだ。横たわっていると、めまいがするように気を失うように、ぐるぐる回る眠気が襲ってきた。
この人は、お兄ちゃんじゃない。
だってママは、パパは亡くなったって言っていたもの。私のこと、死んだパパにそっくり、私の中にパパが生きてるって言っていた。
「頼りにしてるあの人」は、パパじゃない。きっとママとパパの何かを知っている人なんだ。だからこの人はお兄ちゃんじゃない。
ここは異世界、あの空港ゲートは扉。今その異世界ではじめて出会ったこの人と二人きりでいる。すうっと彼女を受け入れてくれた、静かな背中を持つこの人と。
背筋を伸ばして大股で歩いた。高二の女子にしては背が高い方だから、それほどおかしくないはずだ。無表情な通行人の中で、彼はたとえ何気ない話であってもやはり、見慣れた日本人らしい安心させるような微笑を浮かべる。
テロの心配など、生きて生活をしている人々を目にすればすぐに消えた。結局人は何があっても働いて稼いで、お腹が空けば何か食べなければ生きてはいけない。
どこもかしこも彫刻だらけだ。荘厳なノートルダムを見上げると魔物たちが寒風に身をさらして低くかがんでいる。日曜のミサのため鳴り響く鐘の音がシテ島全体を満たしていた。
セーヌ川は濁った色をしていて、冬で寒いからか、人気も少ない。ふと、かもめの姿を見かけて、こんな内陸にもいるのかと少女は空を見上げた。