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愛の鳥  作者: 天海 悠
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長い影






 別れ際の不安そうな顔を、彼は少し驚いて見ていた。みるみる大きな目に涙がたまっていく。扉越しのあちらとこちら、二つの靴が二人を隔てる線を見ていた。

「大丈夫だよ。明日は出来るだけ早く来るから」

 うつむいたら、まばたきをしたらこぼれてしまう。懸命にこらえて、ほんの少しだけうなずいた。

「せっかくパリに来てるんだ。明日ぐらい何も考えないで、純粋に観光を楽しめば」

 らしくなく、優しく付け加えた。

「おれも、初めてなんだよ。だから付き合うのを楽しみにしてる」

「本当に?」

「市内を観光で回ったこと、ないんだよ」



「どうしたの?」

 ブーツのマニキュアの指に小突こづかれて、彼は我に返った。書類を並べて、説明されていたのに聞いていなかったのだ。ブーツは組んだ足に片手で頬杖をついている。手にはさんだペンがゆらゆら揺れた。

「あなた最初は、すぐに追い返すって勢いだったじゃない。どうなっちゃってるの?」

「うん、少し事情が変わった。日本に返すつもりでいるのは変わらないけど。場合によったら、ってのを調べておきたい」

「ふーん」

 面白くなさそうだ。のっぽに聞けば良かったかとちらっと後悔が湧いた。いや、聞いても、専門なんだからブーツに聞けばいいだろ?と返されるだけだ。教えてもらっているから文句は言えないが、不機嫌さが気に障った。彼女が楽しいのはいつも、誰かの不幸や災害の話だけ。能面のような笑顔の下で、舌打ちがはっきり聞こえる。

 あの子の目は直接に訴えてくる。不安だ、さみしい、今のは空元気、笑ってくれて嬉しい。優しさが嬉しい。

 ここにいて欲しい。

 ブーツがワインを干したので、彼は潮時と立ち上がった。

「送ろうか」

「いいのいいの。今日はまだ、用事あるから」

 ブーツは手をひらひら振った。いつもなら、自分から送ってくれないんだ、と言うのに不思議なこともあるもんだ。

「じゃあ、途中まで」

 並んでメトロの方へ歩き出そうとした時の、ブーツの視線が気になった。

 目線がふらっと背後へ向かい、一瞬だけ凝視して話を聞いていない。それでもブーツはすぐにこちらに集中を戻し、大人らしい媚を含んだ笑顔を見せて、それから腕を取ってきた。

「行こうか」

 歩き始めたのに、奇妙に後ろが気になった。

 体をひねって振り返り、後ろを向いた彼はあーあ、というブーツの呆れ顔を振り払った。走ってホテルの方に戻って行く。

「駄目じゃないか」

 ホテルを出て、薄暗い石畳の上に、『新しい弟』がいる。

 文字どおり棒立ちで突っ立っていた。ダウンも着ないで薄い長袖のシャツ一枚、ジーンズ姿のシルエットはほっそりと滑らかでこの冬の異国の中でひどく異質に浮き上がって見えた。

「危ないよ、一人で外に出るな。戻って」

 厳しい声にも相手は答えなかった。かたくなに口をつぐんでいる。

 ブーツが、腕を組んで無表情で見ている。顎だけ動かして促した。

「とりあえず、ロビーに行こ」

 扉を開けながら、ブーツは皮肉な調子で言った。

「パリの夜ってあなたが思ってるほど危険じゃないけど。まだ時間も早いしね」

 並んで座っていると奇妙すぎる三人組でいた、戻ってきた観光客が好奇心いっぱいに注目する。

「貴重品を」

 新しい弟は、小さな声でつぶやいた。

「え?」

「金庫を遣おうとしたら開かなくて。ごめんなさい」

 ホテルの客層は多国籍で、中国の家族、韓国のカップル、ブルカやチャドルの女性を伴ったイスラム教徒と様々だ。

「日本人だけ、本当に減ったね」

 観光客を観察しながらブーツが言う。

「ほとんど姿を見かけないわ」

 それから、厳しい顔をしている彼の目を見て多少真面目にさとす。

「まだ未成年でしょ。いくら寝るだけたって、海外でいきなり一人はきついよ。いてあげたら?」

「うん」

 ブーツに言われたのが気に入らなかったが、突っぱねる気にもなれなかった。石畳の上に長く延びた影を見た時から考えていたことだ。

「ちょっと話してくる」

 フロントに立ちながら、小さくなって肩を落としている顔をちらっと見る。ぎゅっと口を結んでいる様子には、不安よりも怒りを感じる。予想外に頑固そうにも見えた。

 素直かと思ったが、わりと手がかかるタイプかもしれない。

 じゃあ、行くわとブーツは愛想なく去っていって、二人でエレベーターに乗り込んだ。さっきより表情が固い。体も強張っている。

 どうしようかと迷う。最初からクイーンサイズの部屋しか空いてなかったから、フロントには話が通りやすかった。けど、部屋に戻したらやっぱり帰ろうか…。

 だしぬけに、相手が口を開いた。

「さっきの、誰ですか」

「ああ…」

 ブーツのことか?

「彼女さんですか?」

 真っ直ぐにこっちを見ている。

「違うよ。観光業界の人。ビザについて聞いてた。就学のこともね」

 ビザ。

 しゅうがく。

 白い顔がなおさっと青白くなっていく。

 突っ込んで尋ねてみた。

「お前、自分の滞在期間についておばさんには聞いたの」

 青白い唇が小さく答えた。

「三か月?がどうのって」

「うん」

 あのがらがら声の不機嫌な中年女性がこの子に囁いている姿が、目に浮かぶようだった。

(いいから、何のかんの言ってね、居着いてしまいな!拒否なんて出来ないはずだから)

 だが相手は頬を紅潮させてきっぱりと言う。

「でも、それより前には帰るつもりです」

「どこへ?」

「え?」

「どこへ帰るの」

 しばらく、じっと見つめ合った。答えが出ない。出せるはずもない。これではまるで意地悪かお仕置きだ。言うことをきかない子供を理詰めで困らせる。やはり少し怒っていたかもしれない。

「おばさんは、お前に帰ってきて欲しくなさそうだったが、違うの」

 うつむいて下唇がひっこんだ。泣くかと思ったが、必死でこらえている。


 部屋に入ると、二人でベッドに並んで座る。前屈まえかがみに膝にひじをついて、横からゆっくり話しはじめた。

「厳しいことを言うようだけど、親がいない子供は早く大人にならなくちゃならない」

 頭をひょこんと動かして素直にうなずいた。不思議なことに、さっきまでのかなくなさは嘘のように消えている。あの奇妙な怒りのようなものは一体、何だったんだろう?

「誰も守ってくれないから」

「誰も」

 口を動かして繰り返す。

「誰もだよ。それはね、お前が頼りにして来たあの人もなんだ」

「ぼくの、お父さん?」

 その質問には答えずに先を続けた。

「あの人は、お金は出してくれるかもしれない。でも、それだけなんだ。そして、子供はお金だけでは生きていけない」

 おとなしく傾聴している相手は、細い顎と真っ白な肌ばかりが目立っていた。ハーフの子のことは、彼は巻き毛くんと呼んでいたが、今度のはでか目ちゃんだ。

「いい?自分で自分を守らなきゃいけない」

「大人から?」

「違う」

 きっぱりと言う。

「全部。すべてから。おばさんからもだ」

「おばさんから、わたしを守る?」

「そう」

 今までどんな相手にも、決して深く踏み込まず、余計な事は言わないようにしてきたのに。言葉がするする抜け出していく。 

 この子は素直そうに見えて突然追いかけてきて、怒ったような顔をして、急におとなしくなって、飲むように真剣に聞いている。白いシャツの下の肩は滑らかで細い。

「お前のおばさんはお前をあの人に押し付けて、放り出そうとしてるみたいだ。けど、おれはわかってるから言うよ。あの人は、お前を引き受けることはしない。出来ないんだ。そういう…」

 言い淀んで少し考える。うまい言葉が見つからなかった。

「実務ってわかる?」

 相手は相変わらず、じいっとこちらを見ている。ふと、その目の中に吸い込まれ、自分が何処にいるのかわからなくなった。誰かに遠い昔に同じことをさとされた気がする。話しているのか話されているのか。境界が揺らいで世界がひっくり返り、曖昧になった。

「つまり育てたり、世話をすることが出来ないんだ」

 大きな目はゆっくりうなずいた。

「例えばあの人が保証人になって、教育過程が終わるまでどこか家をかりてあげることはできると思う。大学に受かれば入学の手続きはしてあげられる。けど、その後は?全部一人でやんなきゃいけないだろ。食事も、勉強も、掃除も、洗濯も。それは無理だろ」

 何か口を開こうとしたのを、さえぎった。

「出来るって言っても駄目だよ。無理だから」

 よく聞いている。意味もわかっている。ハーフの巻き毛君がここに来た時は、こうじゃなかった。誰もがここに来てしばらくはずっと固い顔をして心を閉ざし、むっつりと座っていた。やっと慣れて屈託なく話すようになったのは最近のことだ。

 おや、とふと気が付いた。この子さっき、わたし、って言ったかな?

「だったら、ここに滞在してここで学校にいくのも手だ。そのためにはビザがいる」

 だしぬけに、相手が聞いてきた。

「あなたのように?」

「うん?」

「あなたも、お母さんがいないの?」

 口の中に苦い味が広がる。

「いない方がましだって親がいるのはわかる?」

「そんな親だったの?」

「すこし違う」

 笑って見せようとしたのに、うまくいかなかった。

「いないのと同じって親もいるんだよ」








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