とりかへばや
「どうして?」
足元にたまっていく髪の房が、ここまでというほどの量で、生き物のように動きながら肩からすべり落ちていく。
「ここまで切らないと駄目かな?」
「お世話になるのに、男兄弟ばかりの所にあなたみたいな女子高生、しかも海外なんてとても無理よ。このくらいはやらなくちゃ」
横目で窓ガラスを見上げれば、淀んで暗い二月の空だった。
病気で母を亡くして、もう三ヶ月が過ぎようとしている。天涯孤独という言葉がしっくり来ない。自分の事とはどうしても思えない。
だってママはここにいるもの。
すぐそばにいる。髪を撫でている。頬擦りしている。ささやいている。
恋人が耐えず男出入りの激しかったママは、他人から、またこの叔母や厳格な叔父から見て、決して完璧な親ではなかっただろう。彼女はだが決して娘の前では彼らの姿を見せなかった。家に踏み込みたがるような男とは絶対に付き合えない、それが彼女の口癖だった。
叔母は父親という人に連絡を取ったと言う。
「本当の事を言えば、その人は多分あんたの父親じゃない。でも候補の中では一番の金持ちで、離婚歴も三回?四回?子供は五人?六人?一人ぐらい増えたってどうってことはないようよ。父親ってことにしておきなさい」
男装女子のメイクを叔母と二人で検索して、くすくす笑った。尽きない涙、所選ばず続く愁嘆は、明るく元気で無鉄砲だった母には似合わない。そんな姿を病魔に喰らわれつくして完全に失うことなく、少女の面影さえ残したままで、あっというまに逝ってしまった。
「男の子の格好させることは言っておいたよ。特に反対もされなかった」
「どうでもいいってこと?」
「個性尊重」
少女は叔母が彼女を厄介払いしたがっていることをうっすら感じていた。ほとんど彼女の顔を見ようとしない叔父が消えるドアの向こう、少女の存在は叔母から叔父をさらに遠ざけている。ともかく少女は異物なのだ。二人の間に取り戻される何かがあるのかどうかもわからないが、ここは少女にとっても仮の宿以上にはならない場所だった。
最近の流行ではないけれど、フランス、それもパリなんて響きは悪くない。へえ、いいじゃんと軽く言う友達の中の何名が、およそ一万キロメートルという遠さを理解しているだろう。
午後の教室で担任は、沈痛な顔をしていた。死にに行くような顔だ、と少女は思う。
「何とか日本で面倒見てもらうことは出来ないのか」
(どこにいたって危険なんて同じじゃないの?この世界のどこに安全なんてあるんですか)
少女はただ眺めている。何を言っても意図も意見も決して届かないとわかっている。机の向こう側もそう感じているようだった。どうしてわかってもらえないのか、と。
「進路は受験じゃなかったのか、三年生はもう目の前なんだよ。人生の大事な時期、一生が決まってしまう時期、本当に分かってる?」
他に方法もないので、それに一度行って、父に会ってみます、と彼女は答えた。
「会わないことには話になりませんから」
担任は深く深くため息をついて、下を向いた。窓から入る陽がゆっくりと移動するのが見え、いつもならうるさいほど聞こえているはずの校庭から響く部活の声も届かなかった。
立ち上がって教室の扉を閉める時、少女はちらっともう一度担任を振り返った。相変わらずうつむいていて、無力さにうちひしがれている、といった風情だった。このひとは、自分の頭の中で作り上げた悲劇の生徒の物語だけが重要なんだわ、と彼女は思った。
おばの話によれば、父親という人にはあっさり連絡が取れて、じゃあこちらに来させなさいと言ったという。パリ郊外の住宅街に暮らしていると。
話がどんどん進みすぎている。
「さすがにちょっと怖いな」
「パスポートはここ。片道航空券がこれ」
聞こえなかったのか、わからないふりをしているのか、進路と書いて進む路は、何本もあるわけではなくて、大概は太い一本道でしかない。
「片道なんだ」
少女は最初に航空券をかざした。
「滞在期間を過ぎても、家族が住んでいれば大丈夫なんだってさ。移民の国だから」
「本当に?」
あずき色の手帳を指の先でひねくりまわすと、しまっておきなさいと取り上げられた。中には、でも性別にはちゃんとF、と印字されているのだ。すぐにわかっちゃうわよ、絶対に。
こんな茶番劇に付き合うのは、不安よりも期待と未知への予感だ。
大きくて太い一本道が導くゲートでも、その向こうには全く知らない何かが広がっている。
わくわくする。脚が震えるのは怖さだけではない。
冷静に考えればおそらくは、父親という人に会えて話ができ、首尾よく経済的支援を取り付けてすぐに帰る。それまでの短い冒険の旅にすぎない。
なら、楽しまなくちゃ損だよね?
そうよ、そうこなくちゃ。
おばのアイラインのにじむ皺がずるそうにきらめいた。
パスポートを取ったと写真を添えたメッセージは、少女が自分で送った。ディスプレイに赤く返信が灯って、空港で名前を書いた札を持った人が迎えに出るとある。ここまで来ると引き返すこともできず、とても本当とは思われない。暗がりで横になったまま、じっとその返信の文字を眺めながら、中東あたりに売り飛ばされちゃったりしないかな?とふと考えた。単純にふっと頭をよぎったにすぎない。明日駅前でヤクザの抗争に巻き込まれて流れ弾に当たらないかな?とか、壊れた通り魔が突然、無差別に切りつけて来ないかな?と考えるのと同じだ。
少女はかすかないびきをかいているおばを起こさないようにそっと立ち上がり鏡の前でポーズを取った。男っぽさを演出する。おばが姑息で浅はかだとしても、この少年の格好もわけがないこととも思われない。
扉の向こうにあった気配が消えていく。少女はわずかに扉へ視線を向けたが、顔色一つ変えなかった。