前世の記憶
おかしいと感じることは多々あった。
どうしてアレがないのだろう、こんなものがあった気がするのに。そういった違和感とも言うべきものは、小さい頃からのもので。
私の場合思うだけでなく口にも出していた。
例えば、道行く馬車を見た時に『どうしてあの車は馬が引いているの?』と、母に聞いたらしい。らしい、というのは、物心つく前だったので、私の記憶には全く無かったからだ。
それを聞いた母は、何をおかしな事をと思ったらしいけれど、私は至極真面目に聞いていたらしい。
『馬車だもの。馬がいないと走れないでしょ?』そう説明した母に、私は『がそりんはどうしたの?』と、聞いたらしい。ちなみに、がそりんがどういうものなのかは私にも分かっていない。分からないはずの事を聞いたのだ。幼い頃の私は。
両親は私が何かに取り憑かれたのでは、と焦って教会やら祈祷師やらに相談したらしいけれど、筋違いもいいところである。
何故なら私は取り憑かれてなどいなく、覚えていただけなのだ。
何を覚えていたのかをはっきりと思い出したのは、今から10年前。10歳を迎えたばかりの頃だった。
その日、私は両親が経営するパン屋の手伝いが無い日で、前日は夜更かししてしまっていた。
貯まっていた本を読み漁り、余韻に耽り。
そんなこんなで寝ぼけ眼で鏡の前に立った時、見覚えのある、何かに似ているなと思ったのである。
毎朝見る鏡に映る自分。そりゃあ見覚えがあるだろうが、その時はとても不思議な気持ちがした。
じっと鏡とにらめっこをする事数分。急に鏡がボヤけ、10歳のあどけない自分から、もう限りなく大人に近い自分へと、鏡の中が成長したのだ。
その時、頭の中で何かが弾けるように鮮明に思い出したのだ。
病室で横になる女性、見つめる先には大きな街。女性の手にはいつもあるゲーム機が握られており、そのスクリーンが写すのは決まってあのゲーム。
所謂前世の記憶なのだと理解したのはそれから約1年後だったけれど、最初に思い出した時から、徐々に、どんどん思い出していた。
そして、私は転生しているのだと気がついた時、私はもう一つの重要なことに気がついた。
この世界は前世で私が大好きだった乙女ゲームの世界。そして、私はそのゲームの主人公エマだということに。
エマ・アディ・バラントゥーユ。舌を噛みそうな名前の20歳の女性は、ごく普通の家に生まれた可愛らしい人。
両親はパン屋をしていて、その手伝いをして生活している。
貴族社会のこの国では、低いとも言える家柄ながら、両親と共に幸せに暮らしていた。
けれどある時、お祭りで路地裏に迷い込んでしまう。出口を求めてさ迷っていると、そこには大きな扉が。好奇心に駆られて扉を開くと、真っ逆さまに落ちてしまう。
気がつくと、そこには慣れ親しんだ街の風景ではなく、全く見たことのない別の世界。
そこは三つの大きな勢力があり、三つ巴となっている、エストラル国。
エマは迷い込んだ先で、怪しいからと三大勢力の一つ、白の領に捕まってしまう。わけも分からず逃げ出すエマは、逃げた先で黒の領に出会う。
見慣れないエマを保護してくれた黒の領に、エマは今までの経緯を話し、それを受けて黒の領は、エマに説明をする。
エマが開いた扉は、『ムーンゲート』と呼ばれ、満月の日に、一時間だけ開く不思議な扉である。と。つまりエマは次の満月まで帰れないことが決定するのだが、それに黒の領はこう提案する。
もし行くところがないのならば、次の満月までここにいるといい、と。
悪いと思いつつ、それに甘えることにしたエマ。けれど、翌日、白の領がエマを引き渡せと要求する。
………と、ここまでが、あの乙女ゲーム『エストラルの薔薇』の共通ルート部分である。
ゲームの題名については、至極ツッコみたいところであるが、ここで気にしていても仕方ない。
とにかく、エマはここで重要な選択を迫られる。
白の領に行くか、黒の領に残るか、である。
ちなみに、ここはこのゲームのひねくれた所で、白の領を選べば黒の領の皆に引き止められるし、黒の領を選べば力ずくで連れ去られる。
何故そんな面倒くさい設定にしたのか、これは悩ましいところである。
そして、どちらかの領を選んだ後、ルート選択の画面に移り、領の誰かを選ぶことになる。そして、選んだ相手とのストーリーを進めていき、親愛度の高さによってエンドが三つに分岐する。
ハッピーエンド、トゥルーエンド、帰還エンド(バットエンド)である。
ハッピーエンド、トゥルーエンド共に、エマはエストラルに残って、恋人との生活を選ぶのだけれど、ハッピーエンドの方がより甘いエンドになっており、その後用意されている後日談も甘い。
帰還エンドはその通り、恋を実らせずに帰っていくのである。ただし、攻略対象によっては、恋人になったのに帰る、という訳の分からないシチュエーションになっている。
ちなみに、大三勢力のもう一つは、革命軍と呼ばれ、黒の領と白の領も皆まとめて仲良くしましょうという思考の、どこが『革命』よとツッコみたくなる勢力である。
これに所属する攻略対象者は2人で、それぞれ黒の領白の領の誰かをクリアすると現れる隠しキャラのようなものである。
そして何より、三つの勢力の攻略対象者全てが皆美形なのである。これはもう目の保養を通り越して目の毒となり得るほどの。
前世でプレイしていたときはもうめちゃくちゃ悶えたものだった。
そんな世界の主人公として生まれ変わったことに気がついた日の夜はもう大変だった。
喜びやら戸惑いやら喜びやら。とにかくどうしようかとベッドの上でぐるぐる。
両親にはついにおかしくなったと嘆かれたけれど、はっきり言ってそれどころじゃなかったんだもの。
そして、私は1晩じっくり考えて。
「どうせなら攻略対象の誰かと幸せになってやろうじゃないの!」
と、考えなくてもよかったんじゃないかという結論に至った。
ゲームの始まりは20歳を迎えた年のお祭り。
それまで目いっぱい両親に親孝行しようと、仕事の手伝いに奔走することに決めた。