海に消えたイヤリング
グループ小説 第十九弾! 「ひと夏の恋」です。グループ小説で、キーワード検索すると、他の先生方の作品も読めます。
水平線の向こうに、一隻の客船が消えて行こうとしている。
沈みゆく太陽を追うかのように、その船はゆっくりと進んでいく。
空は赤く染まり始め、青い海もオレンジ色に変わろうとしていた。
白い砂浜には、穏やかな波が打ち寄せる。
涼しい潮風を受けながら、一人の少年が波打ち際に佇んでいた。
少年の名前はボリス。昨日、十四回目の誕生日を迎えたばかりだった。彼の開いた左手の手のひらには、白い薔薇の形をしたイヤリングがのせられている。
彼はじっと、そのイヤリングを見つめていた。
それはさっき、白い砂に混じって、打ち寄せる波にさらされていた。傾きかけた日の光に、イヤリングの留め金がキラリと光って気がついた。まるで、ボリスに見つけて欲しがっているかのようだった。
全ては、その薔薇のイヤリングから始まった……。
一週間前のこと。
この同じ白い浜辺で、ボリスは初めて彼女と出会った。
いつものように友人達と朝から海で戯れ、泳ぎ疲れて帰ろうとしていた時だった。一人の若い女性が、砂浜をゆっくりと歩いていた。俯いて何かを探しているようにじっと目を凝らし、砂浜を見つめていた。彼女は、時折しゃがんでは砂をすくい上げるが、直ぐに首を振り砂をふりまいていく。
ボリスは思わず立ち止まり、しばし彼女を見つめていた。
彼女は白い夏のドレスを着て、鍔広の白い帽子を被っていた。幾分やわらいできた夏の光りが彼女の体に降りそそぎ、白く輝いているように見えた。海から吹いてくる風は、彼女のドレスの裾と豊かな黄金色の髪を揺らしていく。
エメラルドグリーンの海と真っ白な砂の中で、彼女の姿が眩しすぎるほど、ボリスの瞳には映った。
「……」
彼女は何かを必死で探している。困った顔をして、時々首を振っている彼女が、次第に遠ざかって行こうとするのを見て、ボリスは衝動的に彼女の元へと走っていた。
息を切らし、夢中で彼女に駈け寄る。
「ねぇ、何か探してるの?」
ずっと下を向いて歩いていた彼女は、突然声をかけられて、驚いたように顔を上げた。大きく見開かれた青く澄んだ瞳、ほんのりと色づいた唇が小さく開かれていた。
「あの……何か砂浜に落としたのかと思って」
彼女はボリスを見て微笑み、顔にふりかかる長い髪を片手で払った。その瞬間、仄かに甘い香りが漂う。
「イヤリングを片方落としちゃったみたいなの」
彼女は髪をかき上げ、耳を見せる。片方の耳にだけ、白い薔薇の形をしたイヤリングがつけられてあった。形の良い耳と白いうなじを間近で目にしたボリスは、一瞬ドキリとして頬を染める。
「見つかりっこないわね」
彼女は広く白い砂浜を眺めて、肩をすくめる。
「大切な人に貰ったお気に入りのイヤリングだったんだけど」
「僕、毎日ここに来てるんだ。探し出して見つけてあげるよ」
「本当に? 気持ちは嬉しいけど、大変よ。もう諦めたからいいわ」
「ううん、僕ならきっと見つけてみせる」
ボリスは何故か強がって、彼女に言い張った。彼女のためなら、この数え切れない砂粒の中からでもイヤリングを探し出せる気がした。会ったばかりの女性なのに、既にボリスは彼女から目が離せなくなっていた。
これが一目惚れというものなのだろうか? 少年の日の甘い恋は突然訪れる。
「そう言ってくれると頼もしいわね」
彼女はクスリと笑う。
「そのイヤリング、誰に貰ったの?」
彼女の『大切な人』のことが気になる。両親か親友ならば良いけれど……。
心配しながらボリスが聞いた時、突然、彼女はボリスの肩越しを見つめて手を振った。
「プレゼントの送り主が来たわ!」
「え?」
彼女が嬉しそうに目を輝かせている。
「グレン!」
彼女が彼の名前を呼ぶのと同時に、ボリスは後ろを振り返った。
「……!」
彼の姿を目にしたとたん、ボリスは声を上げて叫びそうになるくらい驚いた。
グレン、ボリスは彼のことをよく知っている。彼女よりもずっと以前から……何故なら、彼はボリスの十才年上の兄だから。
グレンは今日、数年ぶりに故郷に帰ってくる予定だった。ボリスもずっと帰りを待っていた。もしも、グレンが彼女と一緒じゃなければ、ボリスは兄に会えて心から嬉しかったはずだ。
「リーズ!」
聞き慣れた元気な兄の声が、彼女の名前を呼ぶ。
リーズ、ボリスは心の中で彼女の名前を呼んでみる。彼女の名前を知った時から、ボリスにとって、彼女は近くて遠い存在になってしまった。
リーズはグレンの婚約者。半年後には結婚するらしい。
グレンとリーズの一週間の滞在は、アッという間に終わってしまった。リーズを加えた家族との団らんの中で、ボリスは一人浮いていた。いつも通り朝から友人達と海で遊び、家で過ごすことはほとんどなかった。食時の時もなるべくリーズを避けて、会話を交わすこともない。
だが、態度とは裏腹に、ボリスの心の中にはいつもリーズがいた。彼女と目を合わすことは避けても、彼女の話す言葉、笑い声、小さな吐息さえ、ボリスの耳には聞こえてくる。リーズの側にいたいという思いはつのっても、彼女の近くにいることは苦痛でしかなかった。何故なら、彼女の傍らには、いつもグレンが寄り添っていたから……。
「明日はボリスの誕生日だな」
夕食時、ぼんやりとリーズのことを考えたボリスの耳に、グレンの声が聞こえてきた。
「本当に? 間に合って良かったわ。明日はパーティを開かなきゃね」
リーズの甘い声がする。
「いくつになるの?」
「十四」
何気ない風を装って、チラッとリーズを見て言った。
「あさっては、私もグレンも帰るし、明日は一緒に遊びに行かない?」
一瞬、ボリスの心はときめく。彼女と二人で海に……。だが、次の瞬間には否応無しに現実へと引き戻された。
「いいな。ボートで鯨を見に行ってみようか」
すかさず、兄は答える。リーズと二人きりで海に行けるはずはない。
「うん」
短く答え、ボリスは一気にコップの水を飲み干した。
白い水しぶきをあげて、ボートは青い海を走って行く。
どんなに沈んだ心をしていようと、いつものように、夏の太陽は眩しく光り、空は青く澄み渡っている。広がる海は雄大で、ボリスの悩みなど飲み込んでしまいそうだった。
「見て! 今、潮をふいたわ!」
鯨の姿を見つけたリーズは、歓声を上げ、子供のようにはしゃいでいる。そんなリーズの肩を抱いて、グレンも楽しそうに笑っていた。
ボリスには見慣れた光景だったが、何度見ても鯨の姿は迫力があった。大きな尾びれを海面に打ち付け、海と戯れているようだった。
だが、ボリスには鯨より、リーズの肩にかけられたグレンの逞しい腕が気になっていた。しっかりとリーズを抱きとめ、彼女を守っている。自分にもそんな腕があったのなら……ボリスは日に焼けた自分の細い腕を見つめる。リーズにとって、ボリスは男ではなく、ただの子供にしか過ぎない。それが、悲しい。
途中で立ち寄った小さな無人島の海で、三人は海水浴をした。
泳いだのはもっぱらボリス一人で、グレンとリーズは少し泳いだだけで砂浜の上に寝ころんでいた。
「ビーチパラソルを持ってくれば良かった。真っ黒に日焼けしそう」
海から上がってきたボリスに、リーズはクスッと笑って言った。彼女は水着の上に白いパーカーを羽織っている。彼女の隣りでは、グレンが顔に麦わら帽子をのせて居眠りしていた。
「……こっちにおいでよ。もっと涼しい場所があるよ」
グレンを盗み見しながら、ボリスはそっとリーズの腕を取った。初めてリーズに触れた。平気な風を装っていたが、ボリスの心臓は早鐘のように打ち始めていた。白くて細い彼女の腕は、日に焼けて赤く火照っている。リーズは微笑むと、ボリスに腕を引かれて立ち上がった。
白い砂の上に、二人分の足跡が並んでついていく。その足跡を、打ち寄せる波が遊んでいるかのように、直ぐに消していく。
ようやくリーズと二人きりになれた。握ったリーズの手の温もりを感じながら、ボリスの心は弾んでいた。
残してきたグレンの姿が随分小さくなった所に、大きな岩場があった。ボリスが一人で泳いでいた時に見つけた所だ。岩場の中に入ると、太陽の光は遮られ、ひんやりとした風が吹き抜けいている。
「本当に、涼しいわね。少し寒いくらいよ」
薄暗い岩場をリーズは見上げる。岩場の隙間から日が漏れて射し込んでいた。
そこは、波の音しか聞こえない、静かな場所だった。
リーズと二人きりになれたなら、話したいことがたくさんあったはずなのに、ボリスの口は固まってしまったかのように、何の言葉も出てこない。
「声が反射するわね」
リーズは明るく笑って言う。空洞のような岩場の中で、話す声は響いて聞こえた。
「ねぇ、誕生日のプレゼントは何が良い?」
ボリスが緊張していることなど気付かず、リースは話しを続ける。
「後でグレンと買い物に出かけることにしてるの。欲しい物があったら教えて」
「欲しい物……?」
俯いていたボリスは、怖ず怖ずと顔を上げた。
「何でも遠慮なく言って良いわ」
リーズの青い瞳が真っ直ぐにボリスを見つめる。
「……」
繋いだままのリーズの手を、ボリスはギュッと握りしめた。
「リーズ」
「え?」
「……リーズが欲しい」
リーズはきょとんとした目を瞬かせる。自分が何を考え何を言ったのか、ボリス自身も分からなくなってきた。ただ、隣りにいるリーズをグレンには渡したくはない。
リーズがずっと側にいてくれたのなら……。
気付いた時、ボリスはリーズを引き寄せて、彼女の柔らかな唇にそっとキスしていた。唇が触れた瞬間、ボリスの体中を電気が走り抜けたような衝撃を感じた。だが、それは一瞬のこと。
岩場に大きな波が打ち寄せ、波の音が大きくこだました時、リーズはボリスの体を強く突き放していた。
「大人をからかわないで」
くるりとボリスに背を向け、きつい声でリーズは言った。パーカーを羽織った彼女の細い肩が震えている。
「からかってなんかないよ。僕だって明日は十四になるんだ。僕は本気でリーズのこと!」
彼女は背を向けたまま何も言わず、岩場を出て行く。
「もし、もし、リーズが失くしたイヤリングを、僕が見つけることが出来たら」
ボリスはリーズの後を追うが、彼女は立ち止まらずに足早に歩き続ける。
「僕はあれから、毎日あの砂浜で探しているんだ。きっと見つけてみせるから、そしたら、グレンと結婚しないで」
リーズは肩を怒らせ、白い砂を踏みしめて歩いて行く。
「イヤリングは絶対に見つからないわ……」
彼女は一度もボリスの方を振り向かないまま、グレンの元へと歩いて行った。
それが、リーズと交わした最後の言葉。
その後、リーズは一言もボリスと口を聞かなかった。十四回目のボリスの誕生パーティは、苦い思いだけが残る最悪のパーティとなってしまった。
グレンとリーズからのプレゼントはサッカーボールだった。子供じみたボールはいつまでもきれいなまま置かれ、結局、その後ボリスがそのボールを使うことは一度もなかった。
──イヤリングは、見つかった。
ボリスは左手のイヤリングをギュッと掴んで握りしめる。
昨日までの出来事が、遠い過去の出来事のように思えてくる。儚い夢のような一週間の夏の思い出。だが、この夏の出来事をボリスは一生忘れることは出来ないだろう。この熱い思いは、ボリスの胸の中にずっと秘められたまま今も残っている。
今度、リーズと会うのは、グレンの結婚式なのだろうか……? もし、そうならば、ボリスは出席しないと心に決めていた。
オレンジ色の海の彼方に、グレンとリーズを乗せた船が静かに消えて行った。
空は燃えるように赤く染まり、大きな太陽は最後の光りを放ちながら、海を光り輝かせている。
ボリスは輝く海に向かって、勢いよくイヤリングを放り投げた。
小さなイヤリングは弧を描き、深く赤い海の彼方へと飲み込まれていく……。 了
今回、結構苦しみました……。本当は別なストーリーを書いていたんですが、どうしても長くなり短編向きじゃなくなってしまいそうだったんで、途中でやめて書き直しました。機会があれば、その書きかけだった作品も投稿したいと思います。(^^;)
海がテーマの音楽や、海の映像やらを見てイメージを高めて書きました。「年上の女性に憧れる少年」を描きたかったので満足してます。(^^) 書きながらストーリーの世界に入り込みたくなりました。南の国の綺麗な海でのんびりと過ごしたいです。