天使との思い出
ヘブンズのクロの手助けを得たレイは、大移動する民衆の中にまじっていた。
九分九厘、クロは身体を張って自分たちを逃がしたのだろう。
無論、勝算の無い一戦ではないのだろう。そう信じて、レイも逃げ出した。
(クロは、ヘブンズとして助けてくれただけだ)
がむしゃらに足を進めるレイ。このまま振り返らず走り続けたら、きっと命は保証される。そうしたらレイの明日は変わらずに来るだろう。
(ご飯が食べられる。誰にも邪魔されることなく安眠できる。友達とくだらない話で盛り上がって)
そんな妄想が、青春を謳歌するビションが、レイを誘惑する。
(でも、それはクロが僕にくれたものじゃないのか?)
一つの疑問がぽこりと浮上する。自問自答が押し寄せるのにさほど時間は用さなかった。徐々に思考が煮だっていく。
「……」
景色に変化はなかった。相変わらず逃げ惑う人々。その中で、レイは同じく忙しなく走っている。
長らく無言で動き続けていたレイは、人の少ない横道へ逸れた。脚は壁際でぴたりと静止してしまう。意識して制止したのかは定かでない。
項垂れると、雨に濡れて黒っぽく変色したアスファルトがこちらを見返す。
「クロも、真っ黒だったな」
『お前、良い奴だって言われるだろ?』
クロの一言は残酷な雨となって、レイの全身を濡らしている気がした。クロの言葉で身体中ずぶ濡れになっているようで、それを必死に否定したかった。
レイは、だらんと下げた右腕にもう左腕を添えた。
「そんなこと、あるわけ……」
「ない」。この最後のたった二文字が口に出来ない。言葉にすることが出来ないなんて、本当にあるのかとレイは痛烈に思い知った。
唯一精神的に緩んだ時の、クロとの会話が印象強くリフレインする。
大通りの喧騒がまともに聞こえない。
「いてください……!」
このまま逃げても、家族は何も知らずにレイを迎えてくれる。両親は良く生き残ったと褒め、姉は抱き締めてくれるだろう。
自分の命を守り、家族の元に帰った良い奴として。
「着いてください!」
クロのことなど無かったことにして。
「落ち着いてください!」
レイは、悲鳴に負けず絞り出される声に反応して、重すぎる頭を上げた。
「あの子だ……」
フォールからレイを守っていた女の子。桃色の髪を振り乱す少女。首元の襟にはへヴンズを示すバッジがきらりと主張している。
どこかにもう一人、水色の際立つ女の子がいるのだろうが、レイの頭に彼女の姿は出てこなかった。
「君、何をしている! 早く避難しなさい!」
我に帰ったのは、警官隊の一人がレイに声をかけたときだった。居たのか、といまさら彼らの存在を認めるのは、それだけ必死だったからだ。誘導に従っていたときはつゆほども意識していなかったというのに。自分の虫の良い精神にへどが出そうだった。
「は、はい」
「よし」
たどたどしい応答に、警官は軽く頷いて離れていく。
(この人だって怖いはずなのに)
例え仕事だとして、レイに同様の行動が出来るか。出来るとしたら、そこには義務感だけではない、別の原動力があるはずなのだ。会ったこともない人を助けるような、愚直ながら純粋なココロが。
レイの膝に弱々しくも力が入る。
(匙を投げたい……なんで僕がやるんだ……)
弱音が出て――。
(もう、黙れ)
弱音を吐く臆病な自分を殺す。レイは失いかけたプライドで、心の性根に巣くう膿を握り潰した。
「僕は」
一時間前に想像していたのは、あやふやな自分。何か出来るなんて傲っていない凡人で、漠然と生きるのだろうとすら思っていた。
「それでもクロを守りたいんだ……!」
洗濯糊とホウ砂と水でできたスライム。さっきまでのレイの中にあった不定形な自画像は、当て嵌めるなら確かにスライムだった。どっち付かずの自分を象徴していた。
だから、その柔い精神に芯を突き立てる。
追い込まれて逃げる選択しかできない自分を否定するために。これは賢くない選択だ。けれどレイは、芽生えた蛮勇を踏みにじる真似はしたくなかった。
レイとピンク色の髪の彼女との距離は、歩みにして数歩もなかった。
「す、すみません! お願いします。少しでいい、話をする時間をください!」
「え、君」
へヴンズの少女は、余裕の失せた表情でレイの対応をした。
避難民の誘導というのは、特に暴徒化寸前の市民の扱いは、纏輪を持つ彼女たちでさえ難しいのだろう。
レイは、失礼を承知の上で言葉を遮った。
「あの人が……クロさんが、復活したフォールと戦っているんです! 誰か助けに行けないんですか!?」
レイが選択したのは、クロの危機を伝えること。それが最善だと思ったから。しかし、快諾される予想に反して、相手の少女は唇を噛みしめた。
「本部からの連絡で状況は把握しています……しかし、民衆の護衛も私たちの義務です。これ以上戦闘に人数を割くことは認められていません……!」
その本心は、友軍として駆けつけたい気持ちで溢れているに違いない。皮肉にもレイを含む醜い民衆が、ソレを邪魔していた。
その事実が、歯が軋むほど悔しい。
「そんな、他には……!」
「ここ静岡に派遣されているのは、小隊長である私、鳳凰寺二羽と部隊員の二名のみです」
「たった、たった三人ってことですか!?」
支部職員を含めれば、その限りではない。そんなことはレイにだって分かる。だが、フォールいう災害に対してあまりにも人員が少なすぎた。
「他支部からの増援は早くて三十分。それまではクロに持ちこたえて――」
「なら、僕はクロさんを助けます!」
レイの決意が、流れ行く民衆の中で目立つことなく響く。普段のレイは別に恩を感じたりだとか、正義感に溢れているわけではない。友達と適度な距離を保つし、簡単に見限ることだってある。
だけれど、受けた情の区別すらつかない訳じゃない。
「僕はクロさんに返すものがあるので」
「あっ! 警官さん、その人を止めて!」
フタバはレイの行動に見当がついて、誘導作業についている制服警官に命令した。ことフォールに関することにおいて、彼女たちは一般警察よりも権限が強いのだ。
青のシャツに紺の対刃防護衣を着込んだ男が、レイの前に立ちはだかる。
犯罪者とでも思われているのだろうか。そんな被害妄想をしつつも、レイは果敢に走り抜く姿勢を貫いた。
「止ま「りません!」」
通らせてもらいます、と心の中で謝罪した。
レイが取った行動は人を盾にすることだった。勿論のこと、無理矢理力ずくで人間を壁にしたわけではない。自分と警官の間に人が位置するよう、無い知恵を絞り出したのだった。
「なんてこと……!」
フォールの戦闘員は人間の身に余る力を保持する。故に、一般人に手を出せない。加えて任務中の出来事であり、そこにレイのような自殺志願者を救助する余地など無かった。
だからフタバは呆然とその一部始終を眺めるしかなく、同年代だろう青年が人混みに逆らって消えていくのを遠目から見逃すことしかできない。
レイもまた、突発的な状況に混乱していた。人生の内でお上に歯向かうなど想定していなかったからだ。
必然、脳内が落ち着くと同時に、走りながらほっと息を吐いた。
「やった……やったぁっ、抜けたぞ!」
それからのレイの行動は実に軽快に進んでいると言って良かった。逆方向に進む人の群れが、呼び掛けやハンドサインもなく、彼を避けるからである。
「クロ、僕は君に当たり前の平和を返したい!」
避難民として逃げる途中に、我に帰ることが無ければ、レイはクロの安否を気遣うこともなかったはずだ。
けれどクロの真意を汲み取ってしまった。危険を省みない後ろ姿を目にしてしまった。そんな青臭い考えの元、レイは一心不乱に足で濡れた路面を蹴った。
「もうすぐあの場所が見える、かな」
ふう、と一息つこうと思っていた矢先のことだった。「オン」という咆哮が、街のビルに反射して聞こえる。
微かではあるがフォールとまばゆい金色輪を目視できた。とにもかくにも、レイは望んでこの地獄に戻ることに成功したわけだ。
「いる。動いてる。生きて、いるっ!」
我ながら酷い三段活用法だと呆れてしまう言葉だった。
「ク」
レイは後に付く「ロ」を発声できなかった。というのも元を正せば、彼ら超生物同士の闘いに介入する術がないからだ。
「そうだよ、僕に何ができるんだよ。囮か? ハハッ」
急な課題を押し付けられたような理不尽は、レイを現実に振り返らせた。
漫画の主人公のように、勇気を示して敵に立ち向うなんて出来るわけがない。英雄譚の一綴りにレイの名が載ることなどあらゆる可能性において有り得ないのだ。
(そういえば、あの時であった女の人はなんて言ったんだろう? あのあと、光になって消えてしまって、夢物語みたいにいなくなってしまったあの人は)
つい数時間前の思考が帰って来る。その答えが、彼女との会話に、約束にあるような気がして。
そう彼女は――。
『幼い人の子よ。いつか来たる堕天使を倒すため、戦ってくれるか?』
『んー、よくわかんない』
『今は忘れても良い。ただ試練を越える意思を持ち続けてくれ、それが可能性の生き物である人間だ』
『こえるってなに?』
『それはな。お前を邪魔する全部を無くして、どこまでも飛んでいけるような……そんな意味の言葉だった気がするよ』
『へー!? じゃあ、ぼくがんばってそのしれん? をこえてみせるよ』
『ふっ……ありがとう。我が愛しき人の子よ』
その後、一言の礼と一回のキスをされたのを覚えている。消えて散ってしまった彼女を想い、周りも気にせず泣いた。
(そうか、彼女は天使だったんだ……なんだ、思い出してみれば、僕がバカな子どもだっただけじゃないか)
どんな試練も越えて見せる、それはどうせ子供の夢だ。どこまで取り繕っても現代を生きるレイは、勢いだけで突っ走るバカな――。
(ああ、なんだ。今も僕は、子供じゃないか)
「……やるって決めたじゃんか、僕」
レイがその事実を自身の胸に突きつけると、まるで刃物で脅されたみたいに腹部がくっと引き吊る。
「ぷはあっ」
何もできないなら、レイはなおのこと考えねばならない。現状打破の一策に思考の全てを巡らせなければならない。
「使えそうな物が、あるわけ無いか」
片腕でポケットの中を探る。指先に感触は返ってこない。
無い知恵を絞った挙げ句、石ころでも投げてやろうかと思ったときだ。レイはふと上半分が倒壊したビルの辺りに目をやる。それから、下した結論に恐怖した。雨に濡れた身体も相まって効果はひとしおである。
(僕は泥棒に成りたくてここに来たんじゃない、けれど……)
とても実行して良いものではない。付け加えると、大抵の人間からは誉められないことである。
死んだ人の物をいただき、その上勝手に使おうなど。
「もうこれしかない僕には出来ないんだ。僕にビルが壊せるわけもないんだ。なら、やれることはやらないと……!」
気持ちを固めた瞬間、レイの頭が跳ね上がる。
目には闘志に似た決意が宿っていた。
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