片翼の半天使
「いやああああ!」
緊迫を混ぜ込んだ絶叫だ。一体誰が出したのだろう。レイは死が迫るシーンの一コマに立ち会っている。だというのに呆然と女性の叫びに聞き入った。
周囲はパニックを起こしている。歩行者道路も車線もごちゃごちゃだった。
「オ」
聞き取り辛い声が雨に紛れる。丁度、フォールから円球状に民衆の距離が開いたときだった。次いで、堕天使の腕が一番背の高いビルを中央から分断した。
さっくりと。
「え……」
起こっている事象がにわかに信じられない。
物音すら立てずに建築物の上部が落ちる。端に寄っていた民衆の一団が、あっという間に押し潰された。
レイのいる場所からは、飛び散った礫やガラス片しか見えない。だが確実に、あそこには圧死した人間がいる。
落下の余波に巻き込まれた者だって生きている保証はない。
一つ選択を違えていたら、死んでいたのは自分だった。
震える膝が頑なに言うことをきかない。硬直中のレイを放って、フォールはゆっくりと地に足をつけた。
「……!」
恐慌と混乱で老若男女に揉みくちゃにされる中、レイは目撃する。堕天使の足元が黒いもやに汚染されていくおぞましい光景を。
アスファルトで舗装された道路を恍惚と取り込んでいくフォール。
深度にして一メートル弱、地面は綺麗に消え去ってしまう。
「オオ」
怪物の視線が横に逸れる。
細かく分析するのなら、フォールの興味はレイたちにはない。その背後の建物に向けられていた。
ーーだとしても、それをレイやその他の人間たちに理解しろと言う方が無茶な話だ。
灰色の堕天使が「オオ」と聞き苦しい声を上げた。ぶくぶくとした肉袋のような身体で短足を動かしている。
「ああああああ!」
ここにきて保たれていた理性が崩壊した。あっちへよろよろこっちへのそのそと、レイは震える足で逃げ惑う。
「オォン!」
ダミ声に気を取られ、レイは振り返った。隆々とした腕が天高く上げられているのが見えた。
漫画を買いに行って、命を落とす。あまりにしょっぱすぎる理由だ。
悔しくて、情けなくて目をつぶる。
だがしかし、レイが浴びたのは怪物の一撃ではなかった。
「大丈夫ですか!?」
固く閉じたまぶたが開く。一目見て、そこに天使がいると思った。
その少女は、十人十色の好みあるとしても、恐らく全員が振り替えるだろう美貌を持っていた。
桃色の、腰まである御髪に染料の雑さはない。ピンク色の瞳もカラーコンタクトではないかもしれない。
どこか懐かしさを感じる美貌に、レイは一目惚れした。
「綺麗だ……」
「え、あのっ……」
書店で見かけた女の子がサングラスを外したら丁度、同じ顔だと判るだろう。
肌に張り付いた、保温性の高そうな戦闘用スーツ。近くで見ると安全ピンではなく、裏地からボタンで止められたバッジ。そのシンボルが意味するのは、政府認可組織へヴンズの構成員だということ。
レイの実直な賛美に、僅かに動揺をみせた少女が辛そうに言葉を絞り出す。
「えと、とにかく無事でっ、良かった。君も、早く逃げて!」
避難を急かす少女は、桃色の髪を振り乱す。
驚くべきことに、彼女は両のくるぶしから伸ばした金色の板でフォールの腕を受け止めていたのだ。
レイは聞いたことがあった。へヴンズの戦闘構成員は例外なく光の輪を纏い、その縁から出でる翼で戦うと。
フォールの物質浸食特性に対抗しうる唯一無二の金色輪。
通称、纏輪。
「これが、纏輪……」
「ボケッと突っ立ってる民間人、とっとと退け! 巻き添えを喰らうぞ!」
初めて纏輪を目にした興奮から醒め、新たに声のした方に首を捻る。
青年が走ってくる。レイと変わらない歳に見える。
左肩に浮かぶのは、紛れもなく異能の権化だ。板状に真っ直ぐ伸びた纏輪の先端は、コンバットナイフを連想させる。
「クロ君、私が対象を抑えてるうちに決めてください!」
「オッケー!」
クロと呼ばれた青年がひとたび跳躍すると、数メートルの高さにあるフォールのうなじまめ跳ね上がった。
目を剥いてしまうほどの身体能力に、レイは自分が守られていることをひととき忘れていた。
「ヤァァァァァァッ!」
雄々しく吠えたクロは、垂直にナイフ状の纏輪を振り下す。フォールの肥満気味の首にざっくりと肉厚の刀身を埋める。
「この暴れるんじゃねえ!」
「オッ、オッ、ォン!」
低いトーンで鳴く堕天使。当然、一息に倒せるわけもなく、フォールはうなじにへばりついた異物を剥がそうともがく。
空中で振り回されるクロが喚いたタイミングで、フォールを封じている少女が警告を発した。
「……! 了解! ホトリちゃんの支援砲撃が来ます! 直撃まで十秒!」
支援砲撃。
レイは確かにそう聞き取った。
フォールに砲撃が認められた事実はこれまでない。少なくとも現代兵器の類いは一つも。
「こっちも聞こえた! ラブコールはしっかり受け取るぜ!」
「ふざけないでください!」
じっと見ると、二人の頭にヘッドセットの無線が装着されているのがわかる。
レイには姿が拝見できないが、まだ味方が一人居るのだろう。
「きたきたぁ!」
クロが怪物の首にしがみつきながら、倒壊したビルの方に視線を向けた。つられて、レイもひょいと首を上げた。既に恐怖よりも好奇心が勝っていた。
*
人類の文化の結晶である大型ビルが崩落する様は、島崎畔にもよく見えた。
仲間の鳳凰寺双羽と尾美鳥黒が、民間人を護ろうとフォールと対峙しているところも。
ショートボブにした髪は鮮やかなブルーハワイカラー。瞳は暗い碧眼。遺伝子に喧嘩を売っていると糾弾されかねない容姿だが、へヴンズの戦闘員はむしろコレで正常なのだ。
ぽつりぽつりとまばらに当たる雨粒を払う。
ホトリは通信機の無線をオンになっているのを確かめ、小さめの口を開く。
「強襲班島崎畔より伝達、方位SWからの支援砲撃を行うです。着弾まで十秒」
『了解!』
まだ少女の域を出ない小柄な体で何を射るというのか。
返答を受け取ったホトリはすぐに行動を始めた。
真っ直ぐ伸ばした右腕に力が入る。その手の甲には黄金色の円環があった。リングの縁は怪しく流動し続けており、今にも何かが飛び出しそうに蠢いている。
尾美鳥黒の纏輪のナイフをソードシルエットと呼ぶなら、島崎畔の纏輪はガンシルエットと呼ばれるものだ。
中でもホトリのは狙撃に特化していた。
「目標、敵性フォール。輪開五光発射」
蠢いていた纏輪が変貌を見せた。
手の甲に浮かぶ五本の中手骨をなぞるように、同数の閃光が迸る。五条の光は、空から光が差し込むが如く、敵の巨体に殺到した。
*
「御出ませ!」
腕を振り回してもがくフォールに、へばりつくクロ。名前の通り瞳の虹彩から髪色まで真っ黒な少年が叫んだ。
レイは呆気に取られて天を仰ぎ続ける。
雲間から覗く光のように神々しく輝く光の線。それが計五本、フォールに注がれた。両腕、両脚、そして頭蓋。タイムラグの一つもなく貫いたのである。
ほどなくして、光は粒子状に散った。
「オ、ヴ?」
痛覚が通っていないのだろう。
全身を統括する中枢部分に鉄パイプ並の穴が開いても、不思議そうに首を捻るだけ。ずんぐりとした図体を一度揺らすと、堕天使は全身を傾けた。
「……」
成り行きを見守っているのか。
そう思われた少女が、両翼の纏輪を掌サイズまで縮めていく。
当然、支えられていたフォールは大地に力無く伏した。
「終わった……」
脱力した声が戦場跡を慎ましやかに飾る。
勝利の歓声もない場で、へヴンズの隊員二人が頷き合い、マニュアルに従うように避難民への指示を出し始めた。もう一人隊員らしき薄青い髪の女の子が合流し、子供、女、男、老人と区分けされて避難させられていく。
不快な表情を示す人間は居れど、表立って文句を言う者は居なかった。なぜなら、すさまじい戦闘力を持つ彼らが命令を下しているから。フォールを倒せるような者たちに、表だって反抗する愚か者はいない。
人は、畏怖を込めて彼らを半天使、または片翼を持つ天使――ウィジェルと呼んだ。
「よお、民間人」
「えっと」
(確か、クロっていわれてたな……)
レイは混乱がだいぶ引いた頭で彼について考えた。
それほど歳が離れているとは思えない。せいぜい前後一、二歳ずれているくらいのはずだ。
「早く避難するんだぞ」
「あ、はい」
ヘブンズ。この組織は、レイのような一般人が知るよりも遥かに狂っているのかもしれない。フォールと戦うのだから、死ぬことも当たり前にあるだろう。
そう考えると、クロへのある種の尊敬が芽生えそうだった。
「聞いてるか?」
「え……聞いてないけど」
「おい!?……さっきも思ったけど意外とのんきな奴。いや図太いのか」
予想外の返答に失笑したクロは、レイの肩に手を置いた。それから、何か得心したように避難民の方角に送り出した。
「お前、良い奴だって言われるだろ?」
「……いや、どうだろ」
「いいんだよ、多分そうだろうから」
今の会話劇の中で、レイの人格を捉えられる何かがあったとは考えにくい。しかし、クロがそんな風に感じたのなら、それは嬉しいことに本当なのだろう。
最も、彼の言う良い奴の基準がどうなっているのかはわからないが。
「ほら早くしないと避難し遅れるぞ」
「じゃあそこの人も一緒に……」
レイが視線を向けたのは、傘を広げフォールをじっと見つめる少女。
その少女はクロが振り向く前に歩き出した。藍色のホットパンツの先を隠すストッキングが、傘で覆えなかった部分の雨水を弾く。
(傘を持ってるなんて珍しい)
フォールの脅威に曝されて、雨具を放り出さずに平静を保てる人間がどれだけ居るか。レイの胸中の疑問に少女が答えを教えるはずもなく、いたずらに時が過ぎていく。
「ふっ……」
ホットパンツの少女が口の端を僅かに上げて、吐息にも似た嘲笑を漏らした。声に出さぬ哄笑。それはレイとクロの二人に向けられていた。
雨に濡れずとも艶のある黒髪のツーテールが、傘の下で揺れる。うなじ付近とテールの先を髪止めで縛った風貌が、特徴的な女の子。
「テメエ、野良のウィジェルだな……!」
余りに気に障ったのか、クロが嫌悪を剥き出しにして猛った。
左肩から上腕二頭筋にかけて浮き出たのは、ナイフの形状をした纏輪。触れれば断ち貫く、真剣にも劣らぬ凶器を少女に突き付けた。
レイはといえば、クロが少女を一目でウィジェルだと決め付けたことに、驚きを隠せないでいた。よもや方便ということはあるまい。
少女がなにげなしに呟く。
「纏輪? それがか?」
脅されつつも少女が臆することはなく、寧ろ侮っているようだった。安物のブランドを見下す目付きに似た、居心地の悪さを感じさせるのだ。
「そのお粗末なモノが纏輪とは、笑わせてくれる!」
「うっ!?」
体に吹き付ける物は風などではなく、威光だった。
レイが眼前にかざした手を退けて、最初に目に入れたのはそういう光景だった。
未だ避難が完了しきらず、集団で固まっていた人々も何事かと首を捻って確かめていた。その次に決まって、皆皆が大口を開けていた。
「デケェ……これが纏輪だってのかよ」
呟いたまま呆然とするクロ。
レイは……ただ瞠目するばかり。
その羽ばたきは体を重く打つ雨を払うのみならず、陰鬱とした雨雲まで吹き飛ばしそうな風を生んだ。疑似的な強風が長く続くことは無く、波打つ風も止んでいた。
フォールに死を覚悟させられた時、レイは自らの窮地に立ち会った少女を天使だと思った。
なんてことは無い。
あの桃色の女の子は、イメージで言えばキューピッドだ。天国から迎えに来る天使。赤ん坊に小さい翼を付けた、童話などの可愛らしい存在。
一方で人類を導き、時に裁きを与える、神話や聖典上の天使がいる。
「フン。お粗末とは言え、纏輪を持つ貴様にも分かるだろう?私の纏輪の偉大さが!」
彼女は尊大に、それでいて厚顔不遜に言い放った。レイなど眼中に入れず、クロにだけ話しているように。それもどうせ、道端に捨てられた吸い殻を見るのと同じ感覚だろう。
レイは言葉を失ったまま、濃厚な金色に煌めく巨大な左翼を見つめた。
飛び込んできたのは、背からはみ出る程に発達した金の円環。楕円形でも、歪んだ形でもない。それは正円を描いていた。
巨大な金色輪から伸びるのは、息を呑むほど大きな金色翼。ここが海ならば盛大な波しぶきを立てて顕現しただろう。誰よりも力強く、何よりも早く羽ばたき、全てにおいて尊くあろうとする片翼。
とても口には出せなかったが、そんな連想にレイは耽っていた。
「……翼」
それは、とても綺麗なツバサをかたどっていた。
お読みいただきありがとうございます。