9.怒れる伝海
外へ出て庭に回り込むと、袈裟をかけた年配の僧侶が不遜な笑みを浮かべて立っていた。
体は大きく、剃髪している頭は、ピカピカ、というより、油っぽくてらてらしていた。
真夏の午後の陽射しを受けて、眩しい位に反射している。
胡散臭い。
ナナカの勘がそう言っていた。
「誰?
何、勝手に人んちの庭に入ってきてるのよっ」
「……」
げじげじした濃い眉とぎょろりとした目で、ナナカを睨みつけながら、口元にだけ、歪んだ笑みを浮かべている。
大きな厚い唇が、とても不格好だった。
「何か言いなさいよ」
墨染めは、大きな口を開けた。
「伝海という。
裏の山にある、宝専寺の住職だ。今、宝珠について話していたようだが、詳しく聞かせてもらおうか」
太い声がびりびりと、威圧的に告げた。
「上のお寺のお坊さん?
そんなこと、教える筋合いじゃないでしょ。
人んちの庭に入り込んで、話を盗み聞きするなんて、何考えてんのよ。
だいたい宝専寺って、子どもの頃によく遊んだけど、すっごいオンボロ! 人が住んでるなんて、信じらんない……」
そこまで言うと、伝海の顔色が変わり、くわっと目を開いた。
「オン、ボロだとおお
礼儀を知らない小娘が!」
昼下がりの暑さも加わり、首から頭まで、伝海の顔がカ~と真っ赤になった。
ナナカは、その姿が、茹でダコのようで、おかしくて、思わず呟いた
「やだ、タコみたい!」
ぷっと吹き出してしまった。
「なんだとおお!!」
その大音声が割れ鐘のように、辺りに響いた。
(やっば~い! 本気で怒らせちゃったみたい。
でも、盗み聞きなんて、サッイテー)
「小娘めが!」
伝海は、気にしていることを、遠慮もなく、ずけずけと言われ、完全に頭に血が上った。気の短い性質なので、怒りで我を忘れてしまった。
両腕を広げ、熊のようにナナカへと突進してきた。
しかし、伝海の動きは大雑把で、ナナカを捕まえようにも、あっさりとかわされた。ちょこまかと動き回り、時々あっかんべえ! をされ、それが更に伝海をイライラさせた。頭から湯気が噴き出しそうだ。
伝海は、大きな体を揺らしながら方向転換し、続けてナナカに襲い掛かってきた。
ナナカも再び、軽くかわそうとしたが、足元に転がっていた石につまずきそうになり、バランスを崩した。
「痛!」
その隙に、伝海は、ギュッとナナカの細い手首をつかんだ。
「きゃっ」
伝海は、怒りで我を忘れ、ぎりぎりと、手首を捻り上げようとする。
「いった~いっ」
その時、りりん、とナナカの耳に聞き覚えのある音が聞こえた。
サッと風が動いた気がして、ナナカはそちらの方向を見た。
「ヒイロ!」
なんと、幼馴染、犬河緋色だった。
名前を呼びながら、ナナカはふわりと笑みが浮かんでいた。
ヒイロとナナカは、中学を卒業するまでは、同じ学校に通っていた。
ヒイロがサトの家の近くに住んでいたので、子どもの頃からの腐れ縁だった。
今は、市外の高校へ通っているので、前ほど頻繁には出会わなくなっていた。今日は、久々にヒイロの所にも、顔を出して帰ろうと考えていたナナカだった。
ヒイロは何でも器用にそつなくこなし、頭の回転も速い。
すらっと背が高く、身長は、もうすぐ180センチに達するらしい。
いつもは、ナナカにやさしく向けられる涼しげな切れ長の目を、今は、鋭くさせ伝海を睨みつけている。
「チャリで通りかかったら、ばあちゃんちから、男の大声が聞こえたから、どうしたのかと思って……。
何をしてるんだ、おまえ。ナナカを離せ!
警察を呼ぶぞ、タコ入道」
ヒイロは、伝海を睨み付けたまま、身構えた。その構えには余裕があった。
ヒイロには、あまり他の人に知られていない特技があった。それを知らない伝海に、ナナカは同情してしまう。
「ま、また、タコと言ったな。おのれえ!
警察なんか呼べるもんなら、呼んでみろ。バカにしやがってえ」
タコ入道の伝海は、相変わらず真っ赤っ赤なままで。
頭で、やかんのお湯が沸騰しそうなほど怒っている。よほど、『タコ』と呼ばれたことが気に障ったのだろう。
ナナカの手をつかんだまま、ヒイロの方に襲い掛かった。勢い、ナナカはがくん、と前へ引っ張られた。
「ちょっとおお! もお、引っ張んないでよ」
伝海は、構わず空いている左手を握り締め、拳にし、掛け声と共にヒイロに殴りかかっていった。
「こやつ!」
ヒイロは、大振りに打ちかかって来る拳を、軽々とかわした。
また、りりん、と鈴が鳴る。鈴は、ヒイロのジーンズの後ろポケットの鍵に付けられていた。
ヒイロはかわしざま、勢いの止まらない伝海の背を軽く押した。
伝海はつんのめり、どおんと、すっ転んでしまった。
ナナカの手を掴む右手がゆるんだのを見て取って、ヒイロは、さっとナナカを引き寄せ、背に庇う。
ナナカのすぐ目の前が、ヒイロの頼りがいのある、筋肉たくましい背中になった。今、ヒイロは、高校の制服の白いワイシャツ姿だが、実は、服の下には、無数の小さな傷の跡がある。子どもの頃からの稽古でついたものらしい。
「ナナカ……。大丈夫? 手、見せて」
伝海が起き上がる気配を気にしつつ、ヒイロがやさしく声をかけた。
ちらっとナナカを見たその瞳は、いつもとても澄んでいるが、今は、心配そうな色が浮かんでいた。