50.儀式のゆくえ
何かが、起こる!
一体、何が……。
湖面に低く靄がかかっている。
タカラは、錫杖を構えたまま、目を閉じた。
その時、ナナカ達がボートで渡って来た方角から、水面上を狂い舞うように、赤い炎が現れた。
炎は、右へ行ったり、左へ行ったり、水の上を自由に動いて行く。
そして、動きながらナナカ達のいる島へ、徐々に近付いて来る。縦横に、暴れ回る炎。水面も赤い影を映して波紋が広がって行く。
「火の中に、牛がいる」
ヒイロが、目を見開いて、異様な光景を見ていた。
水面を真っ赤な炎に包まれた牛が走っているなんて。
ヒイロは、最初にサトの家の2階でナナカから宝珠の話を聞いた時、半信半疑だった。
でも、ほうっておくと無茶をしかねないナナカが心配で、一緒に探すことにしたのだった。それが今、実際にありえない光景を目にすることで、ナナカの話が真実で、不思議な出来事の中に自分も身を置いているのだと心から実感した。
ナナカも、一生懸命目を凝らした。
本当だ。
確かに、牛だ!
激しい炎をまとった紅蓮の牛だ。そう思った時、ナナカは、牛と目が合ったような気がしてぞっとした。
じっくりとこちらを見ていたかと思うと、今までの舞うような駆け方をやめ、真っ直ぐに島の方へやって来る。荒々しく、駆けて来る。牛は、水面からわずかに浮かんでいるようだ。
ナナカ達のいる島へ近付くと、紅蓮の牛は、ぐるぐると島の周りを回り出した。激しく興奮し、目を血走らせ、狂ったように頭を振り乱している。
ナナカは、いつの間にか立ち上がっていた。何とかしなくては。
スカートのポケットに手をやると、木の櫛が触れた。守って! ナナカは、櫛に願った。
ヒイロは、すっと立ち、ナナカ達の前に腕を伸ばして庇うように構えた。ナナカは、無意識に、ヒイロの服にぎゅっと掴まった。
何周か島の周りをぐるぐると回ってから、牛はナナカからよく見える場所に、立ち止まった。突然、四つの篝火の炎が、ドーンと勢いよく燃え上がった。空高く、四本の炎の柱が上がる。
熱風が、勢いよく空に向かって昇っていく。
周囲が、四筋の炎で、ぱっと明るくなった。
なんと牛が、ナナカを睨みつけている。
岸のすぐ側まで来ているので、それがはっきりわかった。
タカラの額からは、汗が流れていた。
きつく目を閉じ、錫杖を強く握っている。何をしているのかは分からない。でも、彼は今、身動き出来ない。自分がタカラを守らなくては。ナナカは覚悟を決めた。
牛は、真っ赤に燃えながら、唸り声を上げた。
ナナカに、飛びかかって来る!
ヒイロが横から体当たりした。
岩のように固い!
牛は、雄叫びをあげ、今度は、ヒイロに突進した。怒って牙をむき出しにして、ヒイロに襲いかかる!
「ヒイロ、逃げて!」
ヒイロに体当たりする! と思った時、ぱっと牛が消えた。
篝火が、普通の火勢に戻った……。
辺りは、真っ暗になった。
雲が、切れた。
月は変わらない佇まいで、そこに存在していた。
まるで何事もなかったかのように。
月光が降り注ぎ、湖が良く見えるようになった。靄が、あっという間に消えてなくなってゆく。
月が出ると同時に、一斉に虫達も鳴き出した。
(終わったの?)
異様な雰囲気は、去った。
ナナカは、ほっと息をついていた。
あの赤い牛に睨まれた時、殺されるんじゃないかと本気で思った。目に、ナナカへの怒りが込められていた。
ヒイロも、緊張から解かれたようだ。
牛に体当たりした時に、ぶつかった肩のあたりをさすっている。
「何だったんだ、今のは」
タカラがばたりと倒れた。
「大丈夫か!」
「どうしたの?」
二人は、タカラの体を揺すった。
タカラは、脂汗を浮かべ、苦しそうに眉を寄せている。手から、錫杖がこぼれ落ちた。ナナカは、タカラの上半身を抱え起こし、自分の膝の上にタカラの頭を乗せた。
「すごい汗……」
「目を醒ました」
タカラは、ふうっと息を吐き、ゆっくりと目を開けた。
「斎城……大丈夫?」
タカラは、体を起こした。
目の前にナナカの顔があり、びっくりしたようだ。
「うん、大丈夫。……でもないかな」
タカラは、右腕で汗を拭った。
「何とか、最悪の事態は免れたみたいだけど、こんなことになるとはね」
胡坐をかいて、タカラは両腕を思い切り伸ばした。




