仮病ばかりの王太子殿下へ。私は本当の病人です
「王太子殿下」
ドアをノックすると、出てきたのは侍従だった。
「エリザ嬢、おはようございます。王太子殿下は、お加減が悪いとおっしゃって、お休みです」
またですか、と言いたいのをこらえて「お目通りできますか?」と尋ねる。
「それは大丈夫でございます。どうぞ」
居間を通り抜けて、寝室のドアをノックする。天蓋付きのベッドで、ベルンハルト殿下はいびきをかいて寝ていた。
「失礼いたします。エリザです」
ベルンハルト殿下はびくっとして、目を開けた。
「ああ、エリザか……」
そう呟いた後、ベッドから上半身だけを起こして、顔をしかめた。
「頭が痛い。熱もあるようなんだ。関節も痛むし、たちの悪い風邪をひいたかもしれない」
顔色は普通だけれど、ここでうかつなことを言うとへそを曲げてしまうから、水差しから水を汲んで差し出す。
「ありがとう」
そっと額に触れたが、熱はない。頭痛や関節痛も嘘だろう。
「暖かくして休んでいれば治ると思う。ただ、今日はとても公務ができそうにないんだ。父上にそう伝えてくれ」
また仮病だ。週に三回は、午後までベッドから出てこない。下手をすると夕方までベッドにいて、侍従にこっそり買わせた恋愛小説などを読んでいる。もう、慣れてしまった。
「かしこまりました」
一礼して寝室を出て、そのまま国王陛下のもとへ参上する。国王陛下はすでに書類を山積みにした机に向かって、大臣たちから説明を聞いていた。
「おお、エリザ。ベルンハルトはどうした」
「……たちの悪い風邪のご様子で、今日は療養なさるとのことです」
国王陛下は眉間にしわを寄せ、小さく唸った。
「ベルンハルトが病弱なせいで、エリザには負担をかけてすまない」
ベルンハルト殿下が仮病を使っていることは、国王陛下もよく知っている。だが、亡くなった王妃様がたった一人残した王子で、とても大切にされてきたから「気が向かないのならば仕方がない」くらいに思っておられる様子だ。
けれどそのしわ寄せは、いつも私にやってくる。最初は気の向かないお茶会をキャンセルされるくらいで済んでいたけれど、そのうちに仕事がどんどん増えてきて、ついには公務をさせられるようになった。今では、私がいなければ公務が回らないほどになっている。国王陛下も大臣たちも、私をあてにしているのだ。
ベルンハルト殿下の机に積まれた書類を持ってきて、目を通していく。国王陛下や大臣とも話を重ねて、午前中は土木工事の話を決め、簡単な昼食の後は税の減免措置について決めた。どちらもしっかり考えて、慎重に進めていかなくてはいけないことなので、骨が折れた。
もしかしてベルンハルト殿下は、今日の公務が大変だと知っていて、仮病を使ったのかもしれない。あっさりと起きてくる日は、机に向かう仕事が少なく、貴族と謁見して話をするとか、令嬢たちが大勢出席する夜会があるとか、楽しい行事が多い。私はため息をついた。
「申し訳ないのですが、こちらの書類には、急ぎ王太子殿下のご署名が必要となります。署名だけでもお願いできないでしょうか」
内務大臣が申し訳なさそうに頭を下げる。「わかりました」と答えて、私はベルンハルト殿下の寝室へと急いだ。
「殿下、申し訳ありません。ご署名が必要な書類がございまして……」
ドア越しに声をかける。寝室の中は静まり返っていた。眠っているのかもしれないけれど、仮病なのだから、署名くらいはしてもらわないと。
だが、ドアを開けた私は、とんでもない光景に出くわした。
下着姿の女と、裸のベルンハルト殿下が、ベッドの中で抱き合って眠っていたのだ。
「……殿下、これは……」
私は言葉を失って、その場に立ち尽くした。女が目を覚まし「きゃっ」と悲鳴をあげた。
「入室を許可していないのに、ドアを開けるな!」
ベルンハルト殿下は、激昂している。
私は、奇妙なほど冷静になっていた。女の顔には、見覚えがある。夜会のたびに、ベルンハルト殿下にべったりくっついている令嬢の一人だ。確か子爵家の令嬢で、父親がベルンハルト殿下の侍従を務めていたはず。だから簡単に寝室に呼べたのか。
私は書類を差し出した。
「こちらの書類だけは、どうしても署名が必要だと内務大臣が申しております」
「エリザ様、ひどいです! 病気の殿下をひとりぼっちにした挙句、仕事をさせるために無理やり押し入って来るなど!」
「コルネリアは、優しいな」
コルネリアと呼ばれた子爵令嬢は、小動物のように身体を震わせる。ベルンハルト殿下が仮病を使ってまでさぼるから、私が公務をしているのだけれど。
「申し訳ありません。ですが、署名をいただくだけですので……」
「不愉快だ! 出ていけ!」
サイドテーブルに置いてあった時計を、投げつけられた。時計は鈍い音を立てて床に落ちる。当たっていたら、大けがをしていただろう。
「……かしこまりました」
私は部屋を出た。ベルンハルト殿下付きの侍従は、私をかばうどころか、にやにやと笑うばかりだった。同僚の娘が王太子の相手に選ばれたことが、うれしいのだろう。私は今日何回目かのため息をついて、内務大臣に何と言ったらいいのか、考えていた。
◇◇◇
「何だって?」
兄のダーヴィトが、顔をしかめた。領地に出かけた両親の代わりに、王都の屋敷を仕切っている。昨年結婚したばかりで、義姉のヘレーネも私を可愛がってくれている。
「婚約者に公務を押しつけておいて、ベッドに女性を引っ張りこむなんて、本当にたちの悪い病気ね」
ヘレーネが毒舌を披露してくれて、私はようやく笑うことができた。
「馬鹿にするにもほどがある。エリザは王太子殿下の仮病のせいで、毎日早朝から王宮へ参内して、国王陛下と共に公務に当たっていたではないか。国王陛下が王太子殿下を甘やかすから、このような事態になったのだ」
兄はひどく怒り、部屋の中をぐるぐると歩き回っていた。ヘレーネは私の肩に手を置いて「大丈夫?」と尋ねてくれる。
「……あまり、大丈夫じゃありません」
公務を押しつけられるだけだったら、まだ耐えられた。けれどその間に浮気をしていたとなると、とても我慢はできない。ずいぶんと手慣れた様子だったから、浮気相手はコルネリアだけではないかもしれない。もう、ベルンハルト殿下を信じる気持ちにはなれなかった。
「しばらく屋敷でゆっくりなさい」
「でも、公務が」
「エリザが公務をする必要なんてないでしょう?」
ヘレーネは瞳をぎらりと光らせた。兄よりもヘレーネのほうが、ずっと腹を立てているのだと悟った。
「でも」
私が口ごもると「でも、でも、では、何も進みませんよ」という快活な声がした。
見たことのない青年が、大きな黒い鞄を下げて、部屋の入口に立っていた。
「モーリッツじゃないか!」
「まあ、いつ戻ったの?」
兄とヘレーネが驚いた顔をした。ヘレーネは青年に駆け寄って手を握りしめて、笑顔でこちらを向いた。
「紹介するわ。弟のモーリッツ。隣国の大学に行っていたから、結婚式には招待できなかったの」
モーリッツは笑顔を浮かべ、私に一礼をした。
「初めまして。大学へ行ってらしたのですか?」
「ええ。医科大学で、最先端の医学を修めて戻ってきました」
「お医者様なのですね」
「姉にはずいぶん反対されましたが、これで病に苦しむ人を救うことができます」
そしてモーリッツは、私に向かって真剣な顔で言った。
「王太子殿下ともあろうお方が、仮病を使う、というのは、病に苦しむ人にとっては地獄のようなものです。本当に頭痛や関節痛に苦しんでいても『どうせ仮病だろう、王太子殿下もそうだった』と片づけられてしまう。世の中には原因のわからない痛みや熱が存在します。それを『仮病だ』と言われる素地を作ってしまうのは、私には看過できません」
モーリッツは、しばらく私の顔を眺めていた。
「先ほどから見ていますと、ずいぶん疲れておられるようですね。むくみもあるし、お顔の色も悪い。しばらくお休みになったらどうですか。栄養のつく献立を考えて、料理人に頼んでおきますから」
王宮では労られることがなかったから、なんだか泣きたいような気持ちになってきた。私は「ありがとうございます」と告げて、寝室に行った。
ベッドに横たわると、身体がずしんと重くなった。目の奥が痛む。思っていたより疲労が激しかった。早朝に屋敷を出て、戻ってくるのは夜中という生活を数年続けていたせいだろうか。
一直線に眠りに落ちたのに、寒さを感じて目が覚めた。外はもう真っ暗で、部屋の中には燭台が置かれている。
喉が渇いていたので、水差しから水を汲もうと手を伸ばしたら、悲鳴をあげたくなるほど全身の関節が痛かった。寒いのにぐっしょりと汗をかいている。水を飲んだら咳が出て、むせそうになった。風邪だろうか。
「目が覚めましたか」
部屋の隅に、モーリッツが座っていた。
「どうして、ここに?」
「廊下を通りかかったら、あなたの呼吸の音がおかしいことに気づきまして。女性の寝室に無断で入るのは気が引けましたが、医者として放っておけなかったんです。高熱を出していますよ」
ベッドのそばにやってきたモーリッツは、もう一杯水を汲んで飲ませてくれた。
「寒いですか?」
「ええ、とても」
「上掛けを増やしておいたのですが、それでも寒いということは、これからまだ熱が上がるかもしれない。薬は飲めますか?」
モーリッツは薬の包みを差し出してくれた。苦い薬だったが、なんとか飲み下すことができた。
「暖かくしておやすみなさい」
歯の根がガチガチと音を立てるくらい寒く、咳も止まらない。モーリッツが背中をさすってくれた。
「苦しかったら、いつでも私を呼んでください。そばについていますから」
◇◇◇
朝になっても熱は下がらなかった。モーリッツは「肺炎になりかけている」と診断を下した。
食べられるのはパン粥くらいで、苦しくてたまらなかった。モーリッツが処方してくれた薬を飲むと、しばらくは咳や熱が引くのだが、またすぐに熱が上がり、咳きこんでしまう。浅い眠りと、咳や熱の苦しみが、交互に来ていた。
モーリッツはずっとそばにいてくれて、献身的に世話をしてくれた。薬と食事が喉を通っているのは、モーリッツのおかげだ。
「ごめんなさい」
謝ると、モーリッツは不思議そうな顔をして「どうして謝るんですか?」と尋ねた。
「負担をかけてしまって」
「病気なんだから、仕方がないでしょう。仮病を使って浮気をしたわけじゃないんだから」
苦しいのも忘れて、私は笑ってしまった。モーリッツは「笑えてよかった」と、微笑んでくれた。
そのまま、再び浅い眠りに落ちていく。だがその眠りは「開けろ!」という怒声に破られた。ノックもせずに、ドアが乱暴に開く。
「エリザ!」
ベルンハルト殿下が、部屋の中にずかずかと入り込んできた。
「私への当てつけで仮病を使うとは、卑怯な奴だな」
「仮病?」
大きな舌打ちの音が聞こえる。
「芝居はいらない。仮病なのだろう? 私がコルネリアと親しくしていたからといって、公務を滞らせるとは、なんとも卑怯な女だ」
そして私のベッドに近づいて、腕を掴もうとした。だがモーリッツが、それを押しとどめた。
「エリザは高熱があり、肺炎になりかかっています。とても起き上がれる状態ではありません」
「なんだ、貴様は」
「医師です」
ベルンハルト殿下はいまいましそうに首を振り「医師だと?」と尋ねた。
「はい。彼女には安静が必要です」
「言いくるめようとしても無駄だ。病であると言い張ることなど、簡単にできる」
そうだろう。今までベルンハルト殿下付きの医師は、ベルンハルト殿下の要求通りに診断してきたから。風邪、捻挫、腹痛。自分のしていることを、そのまま話しているようなものだ。
「宮廷の医師と、私は違います」
モーリッツは静かに言うと、部屋の隅に置いてあった鞄から、巻紙を取り出して広げた。立派な紙に記された医師免状だった。
「これは、隣国の医科大学で発行された医師免状です。この免状には『決して偽りの診断をしないことを保証する』とあります」
「そのようなこと、いくらでも記すことができるだろう」
「この国であれば、そうかもしれません。ですが、これは隣国の免状です。ベルンハルト殿下は、隣国の医師制度を否定なさるのでしょうか? であれば、私は大学の恩師に伝えなくてはいけませんね」
「勝手に伝えればいいだろう!」
ベルンハルト殿下は苛立った様子だったが、私は熱の苦しみが吹き飛びそうなほど驚いてしまった。
隣国と我が国を比べたら、我が国はあらゆる面で下だ。他国の侵略から守るために、軍事的な援助も受けているし、技術力を学ぶために、隣国への留学も沢山受け入れてくれている。だからモーリッツも、隣国で医学を学んできたのだ。
王太子が隣国の制度を否定した、と公になれば、隣国は援助を引き上げてしまう可能性すらある。そうなれば我が国の留学生は受け入れてもらえず、少しずつ貧しくなっていくだろう。軍事的援助を受けられなければ、他国から侵略される危険性も上がる。
「ベルンハルト殿下、そのようなことは」
私はそう言いかけて、激しく咳き込んでしまった。ベルンハルト殿下が「芝居はやめろと言っているだろう!」と怒鳴る。
「芝居ではありませんよ」
モーリッツが怒りをたっぷりと含ませた声で諫めた後、ふと何かを思いついたように言った。
「なるほど。王太子殿下はエリザと同じ病になりたいのですね」
「なんだと?」
「咳をしている病人のそばにいれば、同じ病になります。それを承知の上で、エリザのそばにいたいと。同じ苦しみを味わいたいから、あれこれ言い訳をして、この部屋にいるのでしょう?」
ベルンハルト殿下はぎょっとした顔をして「……本当に、病なのか?」と尋ねた。
「先ほどからそう言っているではありませんか。もう伝染したころかもしれませんね。喉が痛くなってきていませんか?」
「い、痛い。確かに喉が痛い」
突然慌てはじめたベルンハルト殿下は「冗談ではない!」とわめいた。
「熱だの咳だの、うつされてたまるものか!」
そして挨拶すら口にせず、部屋を飛び出していった。モーリッツは苦笑した。
「週に三回は熱を出しているはずのお方が、何を言っているのやら」
◇◇◇
モーリッツは毎日献身的に診察と看病をしてくれたが、熱は半月経っても下がらなかった。
兄は「重病のため、とても王太子妃は務まらない」と、婚約の解消を申し出た。領地にいる父も国王陛下とベルンハルト殿下に腹を立てており、早めの婚約解消を、と決断してくれたらしい。
私の仕事を当てこんでいた国王陛下は慌てて、兄に思いとどまるように言ったらしいが、追い打ちをかけるようなことが起きた。モーリッツの恩師を始めとした、隣国の大学の教授たちから正式な抗議状が届いたのだ。
「王太子が医師免状に疑問を呈するというのであれば、今後隣国の大学では一切留学生を受けつけない」
隣国の国王からも、ベルンハルト殿下の言葉を問いただす手紙が届けられた。こちらは非公式なものだったが、いつ公式に変わるかわかったものではない。
国王陛下はベルンハルト殿下に私への暴言を取り消させ、謝罪させようとしたが、兄は「婚約解消が先である」と譲らなかった。やむなく国王陛下は、婚約解消を認めた。
心の重荷が消えたせいだろうか、ようやく熱が少しずつ引いて行き、咳も回数が減った。全ての症状が無くなるまでに二か月近くかかり、私はやせ細り、歩くこともままならなくなってしまった。
◇◇◇
「エリザ。隣国に行きませんか?」
いつもの通り診察を終えたモーリッツが、突然そんなことを言い出した。
「いきなり何を言い出すんですか」
私が驚くと、モーリッツは照れ臭そうにうつむいた。
「病後の療養に適した土地があるんです。医科大学の附設研究所もあって、優れた医師もたくさんいます。あなたに健康を取り戻して欲しい」
最近「病弱な王太子殿下を捨てた」と、私を悪女扱いする貴族がいるらしい。コルネリアの家あたりから出た話だろうが、否定する気にもなれなかった。
公務が滞っているせいで、王都の治安は悪くなり、地方では民の不満が広まっていると聞く。そのいらだちを、私にぶつけているのだろう。
「あなたが隣国に来てくれれば、あなたの兄上とご両親も隣国に来る、とおっしゃってくれています。もちろん私の姉もね」
「えっ」
「もうこの国に義理立てする必要はない、という判断です」
我が家の領地は、隣国との国境に近い。隣国は父上たちを喜んで受け入れてくれるだろう。そうすればこの国は、ますます荒れていく。隣国の属国になるしかない、という日も、さほど遠くないという予感がした。
「……それで、いいのかしら」
「国王陛下は、王太子殿下を廃嫡しませんでした。王弟殿下が三人おられるにも関わらず、我が子可愛さを優先した。王太子殿下が即位すればどうなるか、あなたにもわかるでしょう? 国王になっても仮病はやめないと思いますよ」
隣国の王家は慈悲深い。領民を悪いようには扱わないはずだ。
「わかりました。隣国に行きます」
モーリッツは、私に手を貸してくれた。ゆっくりと立ち上がる。まだ足元が少しふらつくけれど、どうにか歩くことができた。
「慌てずに、一歩ずつ歩いていけばいいんです。必ず元通りの身体に戻しますから」
「ありがとう」
私たちは手を取り合ったまま、しばらく微笑み合っていた。名前を知らない大きな鳥が一声鳴いて、窓の外を通り過ぎていった。




