特売日の狂騒曲 〜デザートにプリンを添えて〜
とある午後、スーパーのできごと。
「おい、何チンタラやってるんだよ!」
列の中ほどから、じれた空気をぶち破るような罵声が聞こえた。周りの客やスタッフがぎょっとした顔で固まる中、声の主はつかつかと大股でレジ打ちの最中だった女性のもとに近寄ってくる。カゴは元いた場所に置きっぱなしだ。
「とっととやれ!こんなこともロクにできないのか」
男性は掴みかからんばかりの勢いで顔を寄せて、担当の女性にがなり立てる。対する彼女は、まるで嵐を前に巣穴で震える小ウサギのような顔で、必死に言葉を絞り出した。
「すみません、この時間はお客様が大勢いらっしゃいまして、みなさまどうしてもお買いあげの品物が増えてしまうもので……」
「言い訳すんじゃねえ!」
「ひッ――!」
猛獣の咆哮に、女性の肩が小さく跳ねる。
「客が多かろうが少なかろうが、人を待たせる時点で失格なんだよ!」
縮み上がる彼女に男はさらに罵声を浴びせる。だがそれはもう理屈ですらない、ただの八つ当たりだ。
「だいいち、レジ打ちなんて誰にでもできる仕事だろうが、あぁ!?」
独演会でも開いているつもりなのか、男は場の空気を好き放題振り回している。
身勝手という言葉さえ、この男の傍若無人ぶりを表すにはいささか言葉が足りない。
とはいえ、ここで異を唱えれば確実にごたごたは大きなものになる。
生半可な正義感が致命的な事態を招きかねない。
状況は控えめに言っても最悪だった。
カスハラという脅威に対抗するには、現場はあまりに無防備だった。パートのレジ係にこれ以上の対応を望むのは、さすがに酷というものだろう。
事態はこのまま修復不能な泥沼へと沈み込んでいくかに思われた。
「知ってんだろ?お客様は神様って言葉が世の中にはあるんだよ!」
使い古されたフレーズを伝家の宝刀のように振りかざしたとき。
「あんた、勘違いしてるな」
やけに落ち着いた声が、ぎこちない空気を破るように売り場に響いた。
いきなりのことに、怒鳴り声を上げていた男さえも固まっている。
「店との売買契約は商品の精算、つまりレジで代金を支払い、店側がそれを受け取った瞬間に成立する。まだかごの中に商品がある今、厳密に言や、あんたは客じゃない。法的にはただの『敷地への立ち入りを許された通行人』でしかないんだよ」
「な……っ」
「そして店側には、その許可を取り消す権利がある。……今、そこの可哀想な店員さんの代わりに俺が宣告してやる。不退去罪で現行犯逮捕される前に、さっさと消えろ」
「何だお前、関係ない奴がしゃしゃり出て来んな!」
「残念だが無関係じゃないんだよ。俺は刑事だ」
男性の言葉に男は一瞬怯むが、
「お前が刑事だろうが関係ないだろ。俺は迷惑かけられてるんだ」
と、なおもまくしたてる。
「なあ、知ってるか?世の中には『民事不介入』ってもんがあるんだよ。お前が誰だろうと口を挟めやしねえんだ!」
男はどこかで聞きかじった知識を嬉々(きき)としてひけらかす。してやったり、といわんばかりの笑みがその顔に浮かんでいる。
「よく知ってたな、正解だ」
「だったらとっとと……」
「だがな」
すぐさま自分のターンへと持ち込もうとした男の声を、刑事と名乗った男性の鋭い声と眼差しが制した。
「あいにく今は民事の話をしてるんじゃない。あんたは彼女に罵声を浴びせ、身を乗り出して繰り返し威嚇してる。侮辱罪に脅迫罪、ついでに威力業務妨害罪が成り立つ。立派な刑事事件だ。警察官として動く大義名分はハナから揃ってるんだよ。十分すぎるほどにな」
なおも噛みつこうとしていた男の口が、開いたまま凍りついたように止まる。
刑事は懐から、使い込まれた黒い革の手帳を取り出し、男の目の前でゆっくりと開いた。
「さて。署まで同行願うか、それとも今すぐここで、自分がしたことへのケジメをつけるか。選びな」
「……あ、いや、その……」
さっきまでの威勢が嘘のように、男の喉からはアヒルのおもちゃを潰したような情けない音が漏れた。
「あー、なんつうか、俺も……ほら、仕事で疲れてて、つい……」
当然ながら、そんなものが見ず知らずの他人に怒鳴り散らしていい理由になるはずもない。この男も内心では気がついているのだろうが、なにか「やむを得ない事情」を貼りつけでもしないと、自分の矮小な自尊心が粉々に砕け散ってしまうからだろう。
「そんなのはあんたの都合だ。この子には何の関係もない」
刑事の言葉には、もはや怒りすら混じっていない。ただ淡々と、事務処理をしているかのような冷徹さがあった。
「悪い、悪かったよ! 謝りゃいいんだろ、謝りゃ!」
男は投げやりな言葉を吐きながら、レジの女性に視線を向けた。
だが刑事は聞き逃さなかった。
その言葉を吐く寸前、かすかだが舌打ちがあったのを。
「……すまなかったな。急いでたもんで」
会釈と呼ぶのもははかられるような、ほんの数センチ。角度にして十五度にも満たない頭の動き。それも、相手の目を見ることすらしない、卑屈きわまる謝罪まがいの捨て台詞。
「聞こえなかったな。もう一度、今度は言葉を選んでやり直せ」
退路を完全に塞ぐような声。それを耳にした男の顔から血の気が失せ、目に見えて震えだす。
「ご、ごめんなさい……わ、私が間違っていました。申し訳、ありませんでした……っ!」
そこにあるのは、先ほどまでステージでまくし立てていた傲慢な男の姿ではない。ただ抗えない圧倒的な力に屈し、自分の小者ぶりを衆目に晒しながら許しを乞う、一匹の哀れな小ネズミだった。
「……カゴ、置いていくんじゃないぞ。ちゃんと自分で片付けていけ。いいな?」
刑事の氷の刃にも似たまなざしを前に、男はひったくるように自分の買い物カゴの取っ手を掴み、脇目も振らずにレジから走り去っていった。
ようやく戻った平穏の中、巡ってきた自分の番になり、刑事がレジにカゴを乗せる。中身は冷凍チャーハンと缶コーヒー、その隣に半額の値札がついたプリン。
どことなく気恥ずかしそうな彼に、レジの女性は、先ほどまでの怯えが嘘のような、春の陽だまりのような満面の笑みを浮かべて問いかけた。
「スプーン、おつけしますか?」




