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隣の車両へどうぞ

作者: Wataru
掲載日:2026/01/15

 朝の通学電車が、嫌いだった。


 決まって同じ時間、同じ車両。

 混み合う中で、同じ位置に立つ男がいる。


 触れられていると確信できるほどではない。

 でも、偶然とも言い切れない距離が続く。


 声を上げるほどの勇気はなかった。

 周囲の視線も、止まる気配も、どちらも怖かった。


 だから私は、ただ耐えていた。


 ある朝、乗り込もうとしたときだった。


「こちらへどうぞ」


 低く、落ち着いた声。


 振り返ると、車掌が立っていた。

 年齢は分からない。表情も読めない。


 何も説明はなく、

 隣の車両を、静かに指差しただけだった。


 一瞬、迷った。

 でも、その指の向きに従って乗り込んだ。


 不思議なことに、その日は何も起きなかった。


 誰かが近づくこともなく、

 視線を感じることもなかった。


 ただ、普通の朝だった。


 次の日も、同じ車掌がいた。


 同じ場所に立ち、

 同じように、隣の車両を指す。


 何も言わない。

 私も、何も聞かなかった。


 その日も、何事もなく学校に着いた。


 次の日も、その次の日も。


 案内された車両に乗った日は、

 必ず、静かな朝が続いた。


 偶然だろうか。

 そう思おうとした。


 けれど、心のどこかで分かっていた。

 この静けさは、偶然ではない。


 ある朝、車掌はいなかった。


 同じ時間、同じホーム。

 けれど、あの声は聞こえない。


 少しだけ、迷ったあと、

 私は案内されたことのある車両に乗った。


 その日も、何も起きなかった。


 それからも、痴漢被害はなかった。


 朝は、ただの通学時間に戻った。


 いつのまにか、

 あの男の姿を探すこともなくなっていた。


 名前も、理由も、

 結局、何一つ知らない。


 ただ――


 何も起きなかった朝が、

 当たり前のように続いている。


 それで、十分だった。


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