偽りの皇妃
この場で、その首を刎ねる。
カイゼルの放った言葉は、鞘から抜き放たれた剣のように鋭く、謁見の間の空気を切り裂いた。アルフォンスの顔は青ざめ、その完璧な仮面にはっきりと亀裂が走っている。まさか、あの『冷血の竜帝』が、たかが政略結婚で送り込まれた女一人のために、ここまであからさまな敵意を向けてくるとは、彼の計算にはなかったのだろう。
「……こ、これは失礼を。我が妹を思うが故の、老婆心。他意はございません」
兄は、かろうじて体裁を取り繕うと、深々と頭を下げた。その屈辱に歪んだ表情を、私はカイゼルの腕の中から、ただ呆然と見つめていた。
守られている。「出来損ない」で、誰からも顧みられることのなかったこの私が、大陸最強と謳われる竜の皇帝に。
――我が皇妃。――我が帝国の光。
謁見の間で彼が放った言葉が、何度も頭の中で反響する。それは、アルフォンスの策略を打ち砕くための、外交的な駆け引きだったのかもしれない。私を「至宝」だと宣言することで、アウレリアが手出しできないよう釘を刺しただけなのかもしれない。
分かっている。分かっているのに、私の心臓は、愚かなほどに高鳴っていた。彼の腕の力強さ。すぐ側で感じる、彼の体温。その全てが、私の心をどうしようもなく掻き乱すのだ。
謁見は、凍りついたような雰囲気のまま、早々に切り上げられた。アルフォンスたちは、逃げるように広間を後にする。その去り際に向けられた兄の視線には、もはや侮蔑だけでなく、明確な憎悪の色が宿っていた。彼は、決してこのままでは終わらないだろう。
自室に戻る廊下を、カイゼルと二人、無言で歩く。謁見の間を出た瞬間に、繋がれていた手は離されていた。いつもの、静かで冷たい皇帝がそこにはいた。
「……あの、カイゼル様」
耐えきれずに、私が先に口を開いた。
「先ほどは、その……ありがとうございました」「何がだ」「私のことを……その、光、だと……」
そこまで言って、私は自分の言葉の愚かさに気づいた。あれは本心ではない。ただの策略だ。それを分かっていながら、なぜ私は、こんなにも胸が熱くなるのだろう。
カイゼルは、足を止めて、ゆっくりと私の方を振り返った。その紅い瞳は、何を考えているのか読み取れない、静かな湖面のようだった。
「勘違いするな」
彼の声は、やはり冷たかった。
「お前は、俺の呪いを和らげる唯一の存在だ。その価値が揺らぐことは、帝国の損失に繋がる。俺は、俺の所有物を守ったに過ぎない」
所有物。その言葉が、熱くなっていた私の頭に、冷水を浴びせかけた。そうだ。何を期待していたのだろう。私は彼の「道具」で、「所有物」。それ以上でも、それ以下でもない。謁見の間での言葉も、全てはその価値を守るためのもの。
「……はい。存じております」
俯いて、そう答えるのが精一杯だった。ちくり、と。胸の奥が、小さく痛んだ。
「アルフォンスは、このままでは引き下がるまい。奴は、お前という『災いの種』が、この国で芽吹くのを待っている。そして、それを口実に、アウレリアは再び帝国に牙を剥くだろう」「……」「お前の身辺の警護は強化させる。軽率な行動は慎め。いいな」
それは、私を心配する言葉ではない。「道具」が壊れたり、盗まれたりしないようにするための、ただの管理だ。
分かっているのに。どうして、彼の声を聞いているだけで、こんなにも安心してしまうのだろう。どうして、彼の瞳に見つめられるだけで、胸の痛みが和らいでしまうのだろう。
私は、偽りの皇妃。彼は、感情のない皇帝。
この関係に、名前なんてつけられない。けれど、この偽りの関係の中で芽生えてしまったこの感情を、私はもう、見ないふりすることはできなかった。
その夜、いつものように彼の寝室に呼ばれた。私がその手に触れると、彼は初めて、私の髪にそっと指を絡ませた。ただ、それだけのこと。それだけのことなのに、私の心は、壊れてしまいそうなほどに、大きく揺さぶられていた。




