偽りの兄
カイゼルに手を引かれるまま、謁見の間の扉をくぐる。その瞬間、向けられたいくつもの視線が、鋭い針のように肌に突き刺さった。広間の中央には、見覚えのある豪奢な装束をまとった一団。アウレリア王国の使節団。そして、その先頭に立つのは、やはり兄、アルフォンスだった。
彼は、私の姿を認めると、一瞬、目を見開いた。おそらく、私が想像していたよりもずっと健康で、そして何より、ドラグニア皇帝の隣に、こうして手を繋がれて立っていることに驚いたのだろう。
だが、それもほんの一瞬のこと。兄はすぐに完璧な笑みをその口元に浮かべた。それは、私が知っている、全てを見下し、計算し尽くされた冷たい笑みとは違う。慈愛に満ちた、心優しき兄の仮面だった。
「これは、これは……皇帝陛下。そして、我が愛する妹、エリアーナ。息災であったか」
その声は、甘い蜜のように滑らかで、聞く者全てに好感を抱かせる響きを持っていた。けれど、私には分かる。その声の裏側に隠された、絶対的な侮蔑と冷酷さを。
カイゼルは何も答えない。ただ、玉座へとゆっくりと歩みを進め、私を隣の席へと促した。彼の手は、まだ私の手を固く握ったままだ。その力が、私をこの場に繋ぎ止める唯一の錨だった。
「妹が、陛下のお役に立てているようで、兄としてこれほど嬉しいことはありません。なにせ、我が国では何の取り柄もない、内気な娘でしたからな。陛下のご慈悲に、アウレリア王国を代表して感謝申し上げます」
アルフォンスは、芝居がかった仕草で胸に手を当てた。言葉の一つ一つが、巧妙な棘となって私を刺す。「何の取り柄もない」「内気な娘」。彼は、私がアウレリアでいかに無価値であったかを、この場の全員に改めて知らしめているのだ。そして同時に、そんな私を側に置いているカイゼルの度量を試している。
私は、俯いて唇を噛み締めた。怖い。彼の前にいると、私はまた、あの書庫にいた無力な『出来損ない』に戻ってしまう。
その時だった。握られていたカイゼルの手に、ぐっと力が込められた。見上げると、彼は玉座から、氷のような視線でアルフォンスを見据えていた。
「――エリアーナは、もはやアウレリアの王女ではない」
カイゼルの低く、静かな声が、広間全体に響き渡る。
「彼女は、我が妻。ドラグニアの皇妃だ。そして、我が国にとって、何者にも代えがたい至宝である」
至宝。その言葉の意味を、私自身が一番理解できずにいた。周囲の竜人族の大臣たちも、そしてアルフォンスでさえも、カイゼルの予想外の発言に息を呑んでいるのが分かった。
「……ほう。それは、重畳」アルフォンスの完璧な笑みが、わずかにひきつる。「我が妹が、それほどまでに大切にされているとは。しかし、陛下。我々は、エリアーナの身を案じているのです。なにせ、彼女のその身には……古くから、災いを招くという、忌まわしい言い伝えがございましてな」
来た。これだ。これが、兄の真の目的。彼は、私をただの生贄として送っただけではなかった。彼は、この国に争いの種を蒔きに来たのだ。私という存在を、爆弾として利用するために。
「言い伝え、だと?」カイゼルの声が、一段と低くなる。
「ええ。我が国の古い文献によれば、『魔力なき王族は、竜の国に大いなる厄災をもたらす』と。もちろん、ただの迷信でしょう。ですが、万が一ということもあります。もし、エリアーナのせいで貴国に何かあれば、我々の和平も水泡に帰す。そうは思いませんか?」
アルフォンスは、心底心配しているという顔で、言葉巧みに毒を流し込んでいく。それは、私という存在の価値を根底から揺さぶり、カイゼルとの間に生まれたばかりの脆い繋がりを断ち切ろうとする、狡猾な罠だった。
やめて。心の中で叫ぶ。けれど、声にはならない。私は、災いを招く存在。アウレリアでも、ここドラグニアでも、私は厄介者でしかないのだ。
絶望が、再び私を黒い渦の中へと引きずり込もうとした、その時。
「――迷信、か」
カイゼルが、玉座からゆっくりと立ち上がった。その全身から放たれる威圧感に、広間の空気が凍りつく。
「ならば、一つ教えてやろう、アウレリアの王子。俺は、神も、言い伝えも、運命すらも信じない」
彼は私の手を引いて立ち上がらせると、その肩を強く抱き寄せた。
「俺が信じるのは、この手の中にある真実だけだ。エリアーナは、災いなどではない。彼女こそが、我が帝国の光だ。――これ以上、我が皇妃を侮辱する言葉を弄するならば、この場でその首を刎ねるが、構わんか?」
それは、絶対王者の宣告だった。アルフォンスの顔から、ついに完璧な笑みが消え失せていた。




