クライマックス・偽りの聖女
私のお願い。それは、あまりにも無謀で、危険な賭けだった。
「――私を、アウレリア王国へ、交渉の使者として派遣してください」
私の言葉に、カイゼルは一瞬、言葉を失った。彼の紅い瞳が、驚愕と、そして明確な拒絶の色に染まる。
「……正気か? 奴らの巣に、お前一人を送り込むだと? 許さん。絶対に許さん」「いいえ、カイゼル様。私一人ではありません」
私は、彼の大きな手を、両手でしっかりと握りしめた。
「あなたと、共に行くのです」
皇帝である彼が、自ら敵国へ赴く。それは、前代未聞のことだった。けれど、これこそが、アルフォンスの策略を根底から覆し、二つの国の未来を切り拓くための、唯一の方法だと私は信じていた。
兄が望んでいるのは、私という「力」の奪還、そしてそれを口実とした戦争だ。ならば、私たちがその土俵に上がってやる必要はない。私たちが示すべきは、力ではなく、対話の意志。そして、竜と人間が手を取り合えるという、新たな時代の可能性。
「お前は、分かっているのか。アウレリアの貴族どもが、どれほど竜族を忌み嫌っているか。俺が行けば、交渉どころか、その場で戦端が開かれることになるかもしれんのだぞ」「だからこそ、私が行くのです」
私は、彼の瞳をまっすぐに見つめ返した。
「竜の呪いを癒した『魂の番』。今の私は、帝国にとっての光であると同時に、アウレリアの民にとっては『奇跡の聖女』にもなり得るはずです。魔力を持たなかったはずの王女が、竜帝の呪いを解いた。この事実は、彼らが信じる偽りの言い伝えを覆す、何よりの証拠になります」
私の必死の説得に、カイゼルは苦渋の表情で沈黙していた。私の身を案じる彼の気持ちが、痛いほど伝わってくる。けれど、私はもう、ただ彼に守られているだけの存在ではいたくなかった。彼と、対等な立場で、隣に立ちたい。
「……分かった」長い沈黙の末、彼はついに頷いた。「だが、条件がある。決して、俺の側を離れるな。そして、万が一の時は、ためらわずに『力』を使え。いいな」
その言葉は、私の覚悟を受け入れてくれた証だった。
数日後、私たちは最小限の護衛だけを連れて、アウレリア王国へと向かった。国境を越え、懐かしい故郷の地を踏んだ時、私の胸には、寂寥感ではなく、これから始まる戦いへの静かな高揚感が満ちていた。
王城に到着した私たちを待っていたのは、案の定、武装した騎士たちによる物々しい包囲網と、玉座から私たちを見下ろす兄、アルフォンスの冷たい視線だった。
「何のつもりだ、カイゼル。妹を盾に、城へ乗り込んでくるとはな」「対話をしに来た。お前たちの王と、だ」「生憎だが、父上は体調が優れない。今の王国の全権は、この私にある」
アルフォンスは、玉座からゆっくりと立ち上がった。その手には、金で装飾された、禍々しい輝きを放つ杖が握られている。
「そして、エリアーナ。よくもまあ、のこのこと戻ってきたものだ。竜に魂を売った、裏切り者の聖女よ」「兄上! 私は、争いを止めに来たのです!」「黙れ!」
アルフォンスが杖を振りかざすと、その先端から黒い魔力の奔流がほとばしり、カイゼルへと襲いかかった。カイゼルは、炎の剣を瞬時に抜き放ち、それを弾き返す。謁見の間は、一瞬にして戦場と化した。
「無駄だ、カイゼル! その杖は、古代の遺物! 対竜族用の最終兵器だ! お前の魔力など、いともたやすく封じ込めてくれるわ!」
アルフォンスは、狂ったように高笑いする。彼の言う通り、カイゼルの動きが、明らかに鈍くなっていた。古代遺物の力が、彼の魔力を抑え込んでいるのだ。
これが、兄の最後の切り札。私たちが来ることを予測し、この瞬間を待ち構えていたのだ。
騎士たちが、一斉にカイゼルへと襲いかかる。まずい、このままでは……!
「エリアーナ!」カイゼルが、苦しげに私の名前を叫ぶ。
――万が一の時は、ためらわずに『力』を使え。彼の言葉が、脳裏に蘇る。
私は、覚悟を決めた。目を閉じ、意識を集中させる。私の魂の奥底に眠る、あの温かい光を呼び覚ます。
「――おやめなさい!!」
私の叫びと共に、全身から、黄金色の光が溢れ出した。その光は、波紋のように謁見の間全体に広がり、騎士たちの動きを止める。そして、アルフォンスが放っていた黒い魔力を、まるで朝の光が霧を晴らすかのように、かき消していった。
「なっ……!? なんだ、その力は……!? 魔力のないお前が、なぜ……!?」
アルフォンスが、初めて狼狽の色を見せた。
私は、光に包まれたまま、ゆっくりと兄へと歩み寄る。
「兄上。あなたは、ずっと間違っていました」私の声は、不思議なほど穏やかに、そして力強く響き渡った。
「真の力とは、魔力の強さではありません。誰かを憎む心でもありません。信じる心、許す心、愛する心……。それこそが、世界を動かす本当の力なのです」
私の光が、アルフォンスの持つ古代遺物の杖に触れる。すると、禍々しい輝きを放っていた杖は、その力を失い、ただの古い木の棒へと変わってしまった。
「そ、そんな……馬鹿な……!」
最後の希望を失い、その場に膝から崩れ落ちる兄。騎士たちは、武器を捨て、奇跡を目の当たりにしたかのように、ただ呆然と私を見つめていた。
戦いは、終わった。武器ではなく、たった一つの、真実の光によって。
私は、静かにカイゼルの元へと歩み寄った。彼は、驚きと、そしてこの上なく誇らしげな表情で、私を見つめていた。
「……見事だ、エリアーナ」
彼はそう言うと、私のことを、力強く、そして優しく、抱きしめてくれた。その温かい胸の中で、私は、二つの国の、新しい夜明けの訪れを、確かに感じていた。




