囁かれる災いの種
世界は、たった一滴の毒で、こうも容易く変わってしまうものなのか。
アルフォンスが滞在したのは、わずか数日のことだった。彼は表向き、終始穏やかな使節として振る舞い、何事もなくアウレリアへと帰っていった。けれど、彼が残していった毒の種は、帝国の硬い土の下で、確実に根を張り始めていた。
『アウレリアの魔力なき王女は、竜の国に災いをもたらす』
その不吉な言い伝えは、囁き声となって、城壁の隅々まで染み渡っていった。最初は、貴族たちの間のただの噂話だった。それがいつしか尾ひれがつき、「皇妃様が来てから、日照りが続いている」「東の森の獣が凶暴化したのは、呪われた人間のせいだ」といった、根も葉もない憶測となって広がっていく。
私を見る竜人族たちの目が、明らかに変わった。以前のそれは、異質な人間に対する警戒心や無関心だった。けれど、今は違う。そこには、明確な「恐怖」と「敵意」が宿っていた。まるで、私が歩くだけで、周囲に災厄を振りまいている疫病神かのように、彼らは私を避ける。
侍女たちの態度は、再び氷のように冷たくなった。食事は部屋に無言で置かれるだけ。庭園を散歩すれば、遠巻きに監視の目が光る。私は、豪華な装飾が施された、巨大な牢獄に囚われているのと同じだった。
――所有物。
カイゼルの言葉が、何度も頭をよぎる。彼は、私という「所有物」の価値を守ると言った。けれど、その価値の源泉である「呪いを和らげる力」を知っているのは、ごく一部の側近だけ。大多数の臣下や民にとって、私はただの不吉な存在でしかない。
カイゼルは、何も言わなかった。彼は、囁かれる噂を、あえて打ち消そうとはしなかった。ただ、毎夜、私を寝室に呼び、その手に触れることだけは変わらなかった。
その夜も、私は彼の寝室にいた。呪いを鎮め、部屋を辞去しようとした私の背中に、静かな声がかけられる。
「……怖くないのか」
振り返ると、カイゼルは寝台に腰掛け、紅い瞳で私を射抜くように見ていた。
「城の者たちの、お前を見る目が変わった。気づいているだろう」「……はい」「奴らは、お前を恐れている。いずれ、その恐怖は憎しみに変わる。それでも、お前は……」
彼の言葉が、そこで途切れた。その瞳の奥に、ほんの一瞬、これまで見たことのない色が揺らめいたような気がした。それは、戸惑い? それとも……痛み?
「私は、カイゼル様の道具ですから」
私は、精一杯の笑みを作って答えた。「道具は、主の役に立てれば、それでいいのです。他の誰にどう思われようと、構いません」
それは、自分自身に言い聞かせるための、必死の強がりだった。怖い。本当は、たまらなく怖い。石を投げつけられたりはしないかと、食事に毒を盛られたりはしないかと、眠れない夜もある。
けれど、それ以上に怖かったのは、カイゼルに「やはりお前は災いだ」と、見捨てられることだった。この、偽りだらけの関係だとしても、彼に必要とされているという事実だけが、今の私を支える唯一の光なのだから。
私の答えを聞いたカイゼルは、何も言わずに、ふいと顔を背けた。その横顔は、まるで何かをこらえるように、固く引き結ばれているように見えた。
「……今宵は、もう良い。下がれ」
拒絶。いつもと同じ命令のはずなのに、その日の彼の声は、なぜか私の胸に深く突き刺さった。
部屋を出る直前、私は振り返って、彼に一つだけ問いかけた。
「カイゼル様は……。カイゼル様も、私が災いだと、そう思われますか?」
震える声で尋ねた私に、彼は答えなかった。ただ、窓の外の暗い夜空を、じっと見つめているだけだった。
その沈黙が、何よりも雄弁な答えのように、私には思えた。




