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鳴き砂のラブレター

作者: あおい
掲載日:2025/11/02

ー彼女が目覚めない。


その連絡は昨日の午後、唐突に入った。

職場に入ってきた一本の電話。事務員が不安そうにこちらを見ている。聞いたこともない病院からだった。訝しながら受話器を取ると、中年の男性のような声が淡々と状況を伝え、今日病院へ来るように伝えてきた。

彼女が先週自殺を図り、一命はとりとめたものの、一向に目覚める気配がない、男はそう言った。聞き返す言葉も出てくるはずがなかった。

先週?だって彼女に会ったのは10日前が最後だったはずだ。確かにそのあと連絡は途絶えていた。でも元々僕たちは頻繁に連絡を取ったりはしなかった。二週間くらい時間が空くことなんてざらにあった。でもそう、今週末は仕事がないから会おうよ、どこか行きたいところある?何か食べたいものある?と、今夜あたりにでも連絡をしようと思っていたところだった。前に横浜にできたカフェに行きたいって言っていたから、営業周りの移動中調べていたばかりだ。そんなことばかり考えているうちに、電話は切られてしまった。かろうじて病院の名前と住所だけはメモを取れていた。そのあとどうやって僕が家に帰ったか、記憶はそこで途絶えてしまった。


病院は駅から離れた場所にあった。総合病院のようだ。白い壁は無表情にそびえたっている。受付で昨日電話を受けたことと、僕の名前と彼女の名前を伝えると、7階へあがり渡り廊下を渡ってB棟へ行くよう促された。僕はそのままエレベーターで7階まであがる。途中、患者と思しき老人が点滴を引っ張りながらこちらを怪訝な顔で見ていた。

エレベーターを降り、渡り廊下を探す。ここは何科なのだろう。一階よりも人が多く、ざわつきの中番号札を呼ぶ看護師の声が響く。僕は少し迷って、ようやく渡り廊下を見つけた。廊下の窓から、夏の日差しが差すように入っている。外は蒸せるような暑さであったけど、病院の中はやはり涼しく、差し込む強烈な日差しさえももはや疎ましいものではなかった。

 ー僕の恋人は、こんな眩しい日差しの中でも、目覚めないのか。


渡り廊下を渡った先は急に静かであった。小さな受付がある。看護師が一人座ってパソコンをたたいている。ためらいながら声をかけ、彼女の名前を告げると、奥から別の看護師が現れ、そこから少し離れた病室へ通された。そこには二人の見知らぬ男とベッドに横たわりたくさんの管に繋がれた彼女がいた。

「この部屋で少しお待ちください」

看護師は何も説明もせずに出ていった。二人の男は無言でこちらを見ている。一方は不安げに、もう一方は明らかに苛立ちながら僕を睨みつけていた。

それから時間にして15分は立っただろうか。椅子の数が足りない。二脚しかない椅子は先の二人が座っていたから、僕は立って待つしかなかった。立ったまま彼女を見下ろしていた。二人が誰なのかわからないから、僕は遠巻きに彼女を見つめていた。彼女は眠っていた。ただ眠っていた。けれど首のまわりが青かった。彼女の心音を知らせる音だけが、部屋の中に響く。日差しにあふれた明るい、真っ白な部屋の中彼女は眠る。


「お待たせしてすみません」

背後で扉が開いた。白衣の男が一人部屋に入ってきた。医師だろうか。

「全員お揃いですね」

僕たちは無言でその男を見つめた。白髪交じりの痩せた姿勢の悪い男だった。

「単刀直入に言います。このままではこの人はもう目覚めることがありません」

男はこちらを見もせずに言い放った。

「この人は目覚めることを拒否している。体は正常だ。首をつって一時的に脳に酸素は行かない状態が発生したものの、幸運なことに致命的な時間ではなかった。この人は異変に気付いたご家族にすぐに救われ搬送されました。しかし目覚めない。心が死のうとしてる」

男はまくし立てるように一気に言葉を並べた。

「さて、ではここからが本題だ。この人を救いたい方はいますか?」

男はようやくこちらを見た。その目は灰色に濁っている。口元は微かに笑っているようにすら見えた。

「この人を救う方法はただひとつ。彼女の≪心≫に入ってください。『もう目覚めない』と戻ってくることを拒んでいるのは、この人の≪自我≫に他ならない。この人は自分の強い意志で心を閉ざし、目覚めることを拒んでいる。だから≪心≫へ降りて、≪自我≫を見つけ出し説得をしてください」

この男は何を言っているのだろう。

「あなた方3人は、それぞれこの人の≪恋人≫だ。≪愛≫があれば眠り姫は目を覚ますでしょう。王子は多ければ多い方がいい。≪真実の愛≫で…」

そこまで言いかけたところで、病室に怒号が響いた。

「待てよ、3人が恋人だって!?ふざけんじゃねぇ!」

病室に入った時に僕を睨んでいた男がそう叫んだ。

「どういうことだよ!?」

乱暴に立ち上がった男は背が高かった。しっかりアイロンのかかったシャツと、洒落た紺のスーツを着ている。

「声を荒げてはいけません。拒んでいても声は彼女の耳に届いている。今責めればこの人はより深いところへ逃げ込んでしまうでしょう」

医師は強い口調で激昂する男をいさめた。

「知りたいのならご本人に聞けばいい。≪心≫へ直接。≪心≫は嘘などつけないのだから、真実を知ることなど造作もないことですよ」

再び医師は静かな口調へ戻った。

「ただ一つ覚えていていてください。人の≪心≫とは本来他者が踏み入ることのない場所。人は他者を簡単に身の内にはいれないし、不用意に入れば容赦なく排除する。『≪心≫を許す』とは、それだけでとても尊いこと。けれどあなた方は≪恋人≫だ。嘘偽りなくこの人の想い人である。あなた方ならこの人の≪心≫も、立ち入ることもきっと許すでしょう。」

しかし忘れてもいけません。

人の≪心≫を覗くということが、どういうことなのか。

そもそも≪心≫とは、なんなのか。

とても美しく、恐ろしいほどに醜い。

≪心≫の深淵を除いてしまったら、あるいはもうあなた方は戻れなくなるかもしれません。

それでも問います。あなたはこの人を救いたいですか?

この人を愛していますか?


 ー僕は…彼女を愛しているのか?

愛している。

狂おしいほどに。

許されぬ恋。

何に逆らっても、彼女を愛している。

応える前に、僕は視界が真っ暗になった。

遠くで彼女の声がした気がした。けれど誰の名前を呼んでいるのか、僕にはわからなかった。




目を開けると部屋の中は急に真っ暗だった。そしてベッドの上が空になっている。空気が重い。窓、そう窓の外が真っ暗だった。

部屋の中に医師はもうおらず、僕たち3人だけがいた。

「どういうことなんだ」

背の高い男はやはり苛立っている。もう一人の男も立っていた。彼は反対に背が低く、一見すると少年のような井出立ちで、おどおどと周囲を見渡している。

「この部屋から出られない」

苛立つ男はそう叫んだ。

慌てて僕は扉まで走り、引き戸を開けようとした。しかし扉はびくともしない。

鍵。鍵がかかっているのか。

部屋を振り返った。いつの間にか扉は三つあった。

「自分の扉を開けないと入れないよ?」

ふいに幼い声が聞こえ声の主を探すとベッドの上に少女が座っていた。いや、少年か。10歳かそこらだろうか。髪の短い子供が座っている。白いTシャツにブルーの短パン。サンダルを履いて足をぶらぶらと前後に振っている。声はとても軽やかで、ケタケタと笑うように話した。

「できたら急いだほうがいいよ。そろそろ嵐がくる。この部屋はもうじき沈んじゃう。お兄さんはずいぶん目覚めるのが遅かったね?あっちのお兄さんはそろそろ自力で出ていってしまうよ?」

子どもが指をさした方向を見ると、背の高い男が無理やり扉を開けようと体当たりをしていた。

「愛しているかだって?ふざけるな、わかってるだろう。全部お前にくれてやったんだ。今さらわかないって言うのかよ」

男は叫びながら体当たりを続ける。ミシミシと扉が軋む。

どこからともなく雷鳴が聞こえる。

オレは適当なことばかり言うけれど、お前に適当なことなんて言ったことはない。

お前はオレのものだって言っただろう。なのにこの仕打ちはなんだ。

なんでオレの他に男がいるんだ。オレだけを見ていろと言ったじゃないか。

だいたいなんで自殺なんかしてるんだ。

愛しているかだって?何度も言わせるな。オレはお前しかいらない。

オレを信じられなかったのか。

ここを開けろ。

言いたいことがあるなら面と向かって言え。

お前は強い女だろう。

俺とお前は対等だろう。

逃げも隠れもするな。お前こそオレを愛しているくせに。


男は叫び続けると、とうとう扉は大きな音を立て、崩れ落ちた。男は肩で息をしながら扉の中へ入っていった。男が入ると同時に再び扉は締まり、そして消えた。

気づくと部屋の中は雨が降っている。雨足が強くなるまで、僕は気づけなった。雷鳴も近くなっている。

僕は目の前の扉に向き合う。

けれどあの男のような言葉は出てこなかった。

隣で泣き声が聞こえる。背の低い男は泣いていた。


「どうして」

雨音と雷鳴にその声は飲まれていく。

どうして、こんなことに。

君を好きだった。とても好きだった。

けれどいつだって君はまぶしすぎて、自分はいつも惨めだった。

君にはこんな自分似合わないんじゃないかって。自分よりも似つかわしい人がいるはずだって。

だからあの日自分は行かなかったんだ。

いつも待ち合わせしていた、あの橋の上。

君は待っていたかもしれない。

けれどきっといずれ帰るはずだから。


男は扉の前で懺悔をしていた。

降りやまない雨で、いつの間にか部屋の中に水が溜まっていく。こんな小さな部屋ではあっという間にひざ下まで水位は来ていた。


ねぇ自分が君を追い詰めたの?

そんなはずはないでしょう。君はいつだって強いのに。

自信家で少しわがままな君がこんな自分の為に死を選んだりするはずがないでしょう。


男の懺悔はまるで見当違いに聞こえた。

僕の知る彼女とまるで違う。この人の見ている彼女は、僕の見ている彼女と同じなのだろうか。彼女が強い?自信家?彼女は儚い女性じゃないか。さっきの男もそうだ。彼女は、僕の知っている彼女なのだろうか。

脳裏に笑う彼女が思い浮かぶ。にこやかに、日差しの下で微笑んでいた。いつだって、とても愛おしそうに僕を見つめていた瞳。だけどいつもどこか遠くを見ていた。僕はそれがとても悲しかった。

彼女が自ら命を絶ったと聞いて、本当のことを言えば僕は少しだけ納得をしていた。そして死にきれなかった彼女を哀れにさえ思った。世界中の誰もが彼女の自死を責めるだろう。けれで僕だけは責める気にはなれない。仕方がなかったんだ、と。ただ、もう一度彼女に会いたかった。先ほどの医師は僕らに聞いた。彼女を救うのかと。否、そんなことどうでもいい。僕はただ彼女に会いたい。他は何も考えられない。

ふと、上着のポケットに重みを感じた。手を入れると固く冷たいものがある。鍵だ。僕は残す男に一瞥もくべずに、部屋を出ていった。


残された男は泣いていた。男の涙も部屋を満たしていく。男は繰り返し繰り返し謝罪を並べる。言い訳を並べる。

君だって好きだって言ってくれたじゃないか。

でも君の愛は重すぎたんだ。

だから逃げたくなったんだ。

自分には君は耐えられなかったんだ。

君以外の人と歩む人生を歩みたくなったんだ。

君が追い詰めたんだ。


謝罪は次第に呪詛に代わっていく。

部屋はもう涙でいっぱいだった。

 ー彼女が泣いている。早くいかなくちゃ。




扉をあけると、僕は落ちた。

真っ暗な闇の中を真っ逆さまに落ちていく。

途中、いろんな声が聞こえる。けれど言葉を聞き取ることはできない。何かの映像が浮かんでは消えていく。ケタケタと、また子どもの笑い声が聞こえたが、少年の姿は見えなかった。

一転、急に視界が開けた。

抜けるような青い空が面前に広がる。白いすじ雲が、声高らかに風を歌う。地平線に緑の山並み、光を称える湖、青草の草原。

美しい、世界。

涼しい風に抱かれながら僕は降下していく。不思議と怖くはなかった。そして目をつむった。

次に目を開けると、やはり空の青が飛び込んできたが、先ほどと違うのは鮮やかな黄色だった。背の高いひまわりが空に向かって咲いている。濃い空の青に、鮮やかな黄色が、なんだかとても眩しくて恋しくて悲しかった。僕はひまわり畑に横たわっていた。しばらくその美しい色を眺めながら、僕は泣いていた。ここが、彼女の心なのか。こんなに力強い美しさが彼女の心に根付いていたことが、とても幸福なことに思えた。

誰かが、そばを駆けている。

僕はようやくゆっくりと体を起こした。

けれど立ち上がるとそこはとても静かだった。鳥の声がしない。虫もいない。側にいるかと思った誰かも、もう見当たらない。ただ風が優しく頬をなぞっていく。


奥に森が見える。

世界の明るさに反して、森はとても暗いように見えた。僕はなんとなく森の方へ向かって行った。

森の空気は急に冷たい。無言でそびえる木々は葉を生い茂らせ、強い日差しさえも頑なに拒んでいる。地面は少し湿っている。先ほどまでずっと頬を撫でてくれていた風も、森の中へは吹き込んでこなかった。それでも僕は奥へ奥へと進んでみた。森はさらに暗くなっていく。と、突然僕は足を滑らせ、地面を転がり落ちてしまった。足元の小さな崖に気づかなかったのだ。

足と腰に鈍い痛みを感じると同時に、森の様相は変わってしまった。いつのまに夜になったのか。森は真に暗闇に包まれ、視界は何も見えない。気温は一気に落ち、僕はがたがたと震えている。雲の隙間からようやく青白い月光がさしたかと思うと、森は深い霧に覆われていた。

「いつまでこんなところに転がってやがる」

突然どなられて僕は振り返った。先に部屋を出て行った彼が立っていた。手には松明を持っている。

「早く立て。行くぞ」

彼は乱暴に僕を引き立たせた。手は冷たい。

「向こうへ小さな小屋がある。そこまで歩けるか?」

なぜ彼はそんなことを気遣うのか。不思議に思って彼の目線をたどると、僕の足からは血が出ていた。ズボンが破れ、赤黒い血が染めていた。麻痺していて痛みに気づかなかったのか。

出血してはいたものの、ひねってはいないようで、歩行は問題がなかった。見た目ほど傷は深くなさそうだ。

男の松明の明かりを頼りに、僕らは歩いた。男は一言も言葉を発さなかった。先ほどまで何もいないように見えたのに、森の暗闇には無数の何かがいる気配がした。嗤い、啜り泣き、うめく。遠くで近くで、耳鳴りのようにそれらの声がした。それは男の声のようにも、女の声のようにも、老人の声のようにも、赤子の声のようにも聞こえた。それでも僕らは無言で歩いた。男の松明が、心許なげに揺れている。

ようやく目の前に小さな小屋を見つけた。今にも朽ちそうな扉を開けて僕らは中に入った。入ると、無数の声もやんだ。

小屋の中はカビ臭く、埃ぽかった。僕は寒さに震える。男は松明の炎で暖炉に火をつけはじめた。部屋の中は少しばかりの家具が、乱雑に放置されている。倒れている椅子は、脚が折れていた。割れたカップがそのまま床に落ちている。

「足は大丈夫なのか?」

男は低い声で僕に聞いた。僕は無言で頷いた。横を向いたままの男は、よく見れば端正な顔をしている。高い鼻に、はっきりした二重瞼に長いまつ毛を影を落とす。

「お前はあいつといつ知り合ったんだ?」

男はそのまま続けていく。

「さっきの男は5年の付き合いだと言っていた。まだ年も若い、学生のような男だったな。俺はまだ1年の付き合いだ」

僕は答えることができない。彼女を愛してどのくらいなのか、いつから愛していたのだろうか。思い出そうとするも頭にもやがかかっている。彼女と出会って長くはない。きっとこの彼よりも短い時間だ。いつどうしてどうやって彼女に恋に落ちたのか。わからない。けれどとても苦しい恋だった気がする。彼女を思い出そうとして思い浮かぶのは、泣きながら見上げた眩しい初夏の日差し。木漏れ日よりも乱暴で強い陽光。

「俺はあいつを愛していた。誰よりも。他の誰にもこんなに心を許したことがない、特別な存在だった。それをあいつにも伝えていたはずなのに」

男の言葉はまったく僕の返答など待ってはいない。ただ暗闇に向かって放たれていた。

「俺にはわからない。なんで俺を置いていこうとしたのか」


向けた言葉の先でうなり声が聞こえた。

虎だ。

黒い虎がそこにいた。

緊張は走る。

男はさっと立ち上がり身構えた。

「あの男は言った。愛しているならあいつを見つけろと。ここは≪心≫だ。なら俺はこのバケモノを倒せばあいつに会える」

男は鼓舞するように大きな声をあげてそう言った。それは何かの戯曲の台詞のようだった。

男は近くにあった火かき棒と松明と再び手にし、黒い虎と対峙する。虎は動じることなくゆっくりと男に向かって行く。足音に重さが乗っている。

「こっち」

ふいに小さな声がした。僕は声の主を探す。けれどどこにも何も見えない。

「こっちへ来て」

もう一度聞こえた。あの少年の声だ。

僕は暗闇に目を凝らす。やはり何も見えない。けれど声のする方へ、そうっとそうっと進んでいった。

小屋の中はさっき見た時よりもずっと広く、闇も広かった。僕は小さなか細い声だけを頼りに暗闇を進んでいった。


虎はゆっくりとゆっくりと男に近づいていく。

真っ黒な体躯。金の目玉はまっすぐに前を見据える。

しかし男はひるまなかった。虎と同じ目で睨み返す。震える四肢を無言で叱咤し、松明と火かき棒硬く握り、床に力強く立っている。腰を低くし、虎の些細な動きを見逃すまいと神経を集中させていた。

睨み合ってどれほどの時間が立っただろうか。男の額に滲んだ汗が、次第に流れていく。汗が入り視界が滲む。けれど瞬きをしてはいけない。一瞬でも目をそらせば虎は容赦なく男を八つ裂きにするだろう。

これは試練だ。愛する女を手に入れるための試練だ。

男の心は折れなかった。

とうとう先に虎が動き出す。その瞬間を男は見過ごさなかった。虎の飛び掛かる方向を避け、男は横から松明で虎の顔を殴りつける。虎の顔に炎が押し付けられる。虎は大きく叫び声をあげる。男はさらに火かき棒で虎に殴りかかる。容赦なく目をえぐる。男はひたすら虎を殴り続ける。虎の喉を掻き切る。虎は暴れたが、やがて力許なく倒れこむ。男の体も鋭利な爪で裂かれ、跡が無数につけられていた。男は肩で息をしている。汗が床にぼたぼたとこぼれた。あまりに呼吸が苦しく、肺が焼き切れそうだった。

男は誇らしげに顔を上げた。これでようやくあいつに会える。あいつを連れて帰ろう。こんなところさっさと連れて出よう。そして日常へ帰るんだ。この関係がお互い心地よかったはずだ。お互い楽な相手だったろう?

男は歩き出す。

しかし次第に足取りが重くなっていく。地面が重くなる。ぬちゃりぬちゃりと、気味の悪い音が足の裏から聞こえる。虎の血か。いや違う。黒すぎるし、この異様な粘り気はなんだ。

気づくと男の周りに真っ黒な液だまりができている。男は身動きが取れない。

取れるはずがない。液だまりの中から伸びた黒い手が、男の足首を掴んでいる。

か細い腕なのに、男は振り払うことができない。

ずるずると音がする。黒いそれはゆっくり液だまりから姿を現す。

 ー大事になんてしてくれなかった。

低い声がうなるように囁く。


私を見てもくれなかったくせに。あなたは私が欲しかったんじゃない。

私といるのはそれはそれは楽だったことでしょう。だって私がそう舞台を整えてあげたんだから。決して私は本心をあなたに言うことはなかった。それを言ったらあなたは私を捨てるから。

私を愛している?

いい加減なことばかり。あなたは私じゃなくて、私の向こうに自分の好きなあなたを見ていただけじゃない。そして私はたくさんいるうちの1人でしょう?そのたくさんに辟易してる中で私に出会って、あなたを追いかけない私が好きだったんでしょう。私が心を開けばあなたはすぐに私を見限るわ。醜くて惨めな私はあなた好みの私じゃないんだから。愛してる?いったい何を言ってるの?

あなたは人の優位に立つことばかり。私を慮ることなんてない。

今あなたが誇らしげに殺した虎だって私そのものなのに。

私を手に入れる?笑わせないで。理解を拒んだのはあなたよ。私が本心を晒そうとしても、あなたは聴く耳なんて持ちはしなかった。俺とは違うと、受け入れてなんてくれなかった。

私は理解されたかった。

ううん、わかってくれなくたっていい。けれど寄り添ってほしかった。

弱い私を弱い私のままで許してほしかった。

愛してほしかった。あなたの物差しじゃなくて。

私を否定しないで。

あんたの尺度に押し込めないで。

そのままで、愛されたかった。

愛してほしかった。

本当に愛していたら、あの時かけてくれる言葉は別のものだったはず。

苦しむ私に、冷たく突き放す言葉なんて言わなかったでしょう。

けれどあなたは線を引いた。

あなたには通じないでしょう。私の言葉に理解なんて示してくれはしない。だってあなたは私を愛しているという言葉の意味を、あなた自身も理解していないのだから。あなたはあなたしか愛していなかった。他の女といるより、楽ができた。それだけしかなかった。


愛してほしかった。

ほんの少しでいいから、あなたの心が欲しかった。

私は、あなたを愛していたから。


顔まで出てきた黒いそれの、目だけがぎょろりと男を睨みつける。もう男の足は無数の黒い手に絡み取られている。

松明の火が黒い液体に燃え移る。

油か。

それは一瞬だった。

男の体は瞬く間に炎に包まれた。叫び声だけが無常に響き渡る。

黒い女は男を抱きしめた。

ただ、愛おしそうに。




ようやく少年の姿が見えた。

少年はニコニコしながら僕に走り寄る。

「ダメだよ、こんなところに来ちゃ」

少年は僕の手を握った。温かいかと思った小さな手は、不安なほどに冷たく汗ばんでいた。それでも少年はニコニコと微笑んでいる。

「早くここを出よう」

少年が僕の手を引いて歩く。欲しいものを見つけた幼子のように、強く手を引いた。

「あの虎は何?」

僕は少年に問う。

「虎?虎なんてここにはいないよ」

少年はきょとんとして答える。

「きっとそれはハリボテさ。虎なんてかっこいいもの、こんなジメジメして嫌なところにはいないよ」

少年は尚も強く手を引いて前を行く。

「ここにいるのは《独りよがり》さ。僕、あいつ嫌い。あいつは人の話なんて聞かないし。あいつの言葉を聞いてると嫌な気持ちになっちゃうよ。だから僕はあいつの言葉になんて、耳を貸さないんだ」

少年は一気に捲し立てるように言った。

「あれ?お兄さん怪我したの?」

少年ははたと、足を止め僕の足を眺める。

「待っててね。おーい」

少年は暗がりの遥か遠くへ声をあげた。少しの沈黙の後に何やら不規則な足音が聞こえる。生き物の足音に、ギシギシと機械の音が混ざっている。

馬だ。芦毛の馬がこちらへ向かって歩いてくる。だが後ろの左脚は義足だった。

義足の馬は僕らの前へ来て、ゆったりと止まった。毛並みと同じ、灰色の透き通った瞳が美しい。白く長いまつ毛が憂いを帯びている。

馬は無言のまま、おもむろに僕の足を舐めた。くすぐったかったが、温かい。そうだ、ここはずいぶんと寒かった。僕も少年もずっと震えてたではないか。足の温もりから悴んだ四肢の感覚が戻るようだった。そして傷はすうっと消えていった。

「よかった。もう痛くない?」

少年は馬を撫でている。

「ありがとう」

少年と馬に僕は返す。2人とも何も言わない。

「僕はこれからどこへ向かえばいいんだろうか?」

僕はそのまま、思わず聞いてしまった。少年は笑顔を止めて僕をまっすぐに見つめ返す。

「彼女に会いたいの?」

僕はゆっくり頷く。

「そっか。僕は彼女も苦手なんだ。彼女といると、僕は僕でなくなってしまうから。だから君を彼女のところへは連れて行けない。でも君が彼女に逢いたいと願うなら、必ず辿り着ける。ここはそういう世界だから」

少年は小さくため息をついて、肩を落とした。

「鳴き砂の砂浜」

つぶやくように少年は言った。そして今度は僕の方を見て、はっきりと言う。

「鳴き砂の砂浜を探して。波の音、潮の匂いを辿っていけばきっと見つかる」


がしゃんと、突然ガラスが割れた音が響いた。

驚いて振り向くと、僕の目の前に大きな透明なガラスの壁があった。その向こうは小さな部屋だった。誰もいない小さな部屋。カーテンの向こうは明るいのに、それに反比例するかのように部屋は暗い。本と紙と鉛筆が床に散乱している。暗がりの中にぼんやりと浮かぶ猫足のアップライトピアノと、まばらに本が入った本棚。部屋の真ん中の小さなちゃぶ台には、汚れた鋏が突き刺さっている。

「がしゃん」

もう一度音が鳴り響く。部屋には誰もいない、けれど女のヒステリックな声が響き渡った。そして、同時に子供の泣き声が響く。けれど部屋に誰もいない。

ふと見渡すと、すぐそばにいたはずの少年がいない。

胸騒ぎがする。

この泣き叫ぶ子供の声は。

胸をわしづかみするような声だった。

女の声は泣き叫び、子どもの声は嘆願する。

いやだ、と。いやだ、やめて、と。

お母さんやめて。

気づくと僕はガラスをたたいていた。

姿は見えないけれど、この部屋の中にあの子がいる。

何度叩いても、どれほど強く殴っても、ガラスはびくともしなかった。

「無駄です」

静かな声がそう言った。もう行きなさい、先ほどの義足の馬が僕に囁く。

「これは≪感情≫ではありません、≪記憶≫です。≪記憶≫には干渉できない」

馬は切なそうに部屋を見つめている。

「行きなさい、道はあの子が示したでしょう」

「あの子はどうなる」

「大丈夫。≪優しさ≫は≪無垢≫の側を離れませんから。貴方は早く行きなさい。少し急いだほうがいい。もう崩れ始めている。ここもいずれ割れてしまう」

馬に促され、僕は後ずさるように部屋を離れた。

耳に、少年の叫び声だけがこびりついていた。




僕はがむしゃらに走った。前も後ろも右も左も。もはやわからなかった。波の音?潮の匂い?そんなもの、どこにもない。いつの間にか外に出たようで、暗闇を抜けてはいたけれど、あたり一面真っ白な霧に覆われ、何もわからなかった。一本も木が見えなくなったから、森ではない。自慢は草も生えておらず、ただしめった地面があるばかり。風もなく、何の音もしなかった。僕はとうとうその場に座り込んで俯いた。

 ー鳴き砂の砂浜。彼女はそこにいるのか。

たった一粒だけ涙がこぼれ落ちて、僕は目を瞑る。

瞼の裏に広がる青い海。砂浜の感触。歩くたびにきゅっきゅっと、耳に響く砂の鳴き声。

恋しそうに、砂は鳴く。

そして、振り返る彼女。

手にサンダルを持って、無邪気に笑う。強い陽射しを気にもとめず、帽子も被らず、肌をさらしてノースリーブの緩いワンピースが風に揺れる。蒸せるように暑い夏のなか、彼女だけが爽やかだ。ふと足を止め、海を見つめる。潑剌としていた笑顔は緩み、瞳が切なそうに水平線を追う。海を反射する瞳には、とても届かない世界が映る。

僕の隣にいても、彼女は時折そうして遠くを見ている。僕を忘れて。僕では引き留めることの敵わない何かに、彼女は引かれてしまう。波打ち際に打ち付けていたはずの波は、実は抗うことのできない力で引いている。その引き潮に、彼女はいつか飲まれていく。それがただただ悲しかった。彼女が孤独であることを理解はしても、彼女の孤独そのものを覗くことはできない。

人の道を外れた恋だった。彼女に夫がいることを僕は知っていたから。だから夫を差し置いて、僕を含めた恋人たちが病室に呼ばれたのが不思議だった。夫は何をしているのだろう。でも僕にも妻がいた。歪な関係だった。


それは少し前の春、人知れず折れそうな彼女に、壊れた僕が手を差し伸べて始まった物語。

そのビルの屋上は、僕にとっての逃げ場だった。いつか、限界が来たらここから飛び降りて終わりにしようと、心に決めていた。挫けそうな日は屋上に登った。最後はここに来ればいい、それが僕の救いだった。明確な理由なんて存在はしない。それでも生きづらさは影のように付き纏い続けていた。その日も、僕は胸に息苦しさを覚えて、退勤後に屋上へ登った。そこに彼女はいた。同じ思いで、柵を一つ乗り越えていた。それがはじまり。

吹けば崩れ落ちそうな、危なげな逢瀬。叶わないものばかりの愛だった。けれど、お互い最愛の人にさえ呆れられるような生命観だったから、ほんの少し共有できたと思えた何かがあるだけで、生きていて良かったと、心の底から真夜中に泣く。

行き場のない恋だった。ただ好きなだけなのに、好きと思うことはそのまま、錆びたナイフで胸を突き刺すこととまた同義だった。写真は残すわけにかない。手紙を送るわけにはいかない。耐えきれずにあふれ出した、泣きながら言葉を紡ごうとしたラブレターは書きかけのまま、シュレッダーにかけた。僕の想いも君の願いも、すべて形に残ってはいけない。砂に描いた未来予想図は、柔らかな波が静かにさらっていく。ただ今を生きて、ただ君だけを愛している。それだけが確かなもので、けれどそれだけじゃどこへも行けなかった。

僕も海を見た。水面にキラキラと日差しは反射し、世界の美しさの全てが今そこにある気がする。けれど同じ海を見て同じ砂を踏みしめているのに、僕と君の孤独は同じ場所へ流れつけない。

恋しそうに、砂は鳴く。

 ー彼女は、あの砂浜にいるのだろうか。




「随分と見窄らしいものがいたものだ」

しゃがれた声に振り返ると、一羽の大きな黒いカラスがこちらを見つめていた。否、その顔には目がなかった。代わりに嘴は大きく歪み、ギザギザとした牙をちらつかせながら、嘲笑っているようだった。

「鳴き砂の砂浜を知らないか?」

僕は少し身構えながら、カラスに尋ねた。するとカラスは大きな声をあげて、嗤い始めた。

「鳴き砂の砂浜だって?そんなものとうに海に沈んださ!《孤独》が《絶望》に溺れた時のことさ!」

しゃがれた声は尚も嗤いながら言い捨てる。

「お前は何を探しにきた?」

「彼女だ」

「彼女?あの女に逢ってどうする」

「わからない、でもただ彼女に逢いたい」

「馬鹿馬鹿しい。自分の目的にすら責任を持てない奴が、どうやって己の欲するものを手に入れられるのだ」

僕は言い淀んだ。カラスは一歩も引かずに、僕を威圧する。その姿はいつのまにか僕の背丈ほどの大きさになっていた。

「お前は何を差し出す?」

カラスは問う。

「僕の命を」

「貴様の命を、だと!?」

カラスは、先ほどよりもさらに大きな声で嗤いだした。

「随分とまあ、お前の命は価値のあるもののようだな?いつでも投げやりに扱っていたことも忘れたか!」

カラスは僕の心など、とうに見透かしていた。

「だがまぁいい。臆病で幼稚なお前もあの女も、最後の理由を探していただけ。もっともらしい理由を、な。実にくだらない。くだらないが、無様で浅慮なところがいかにもお似合いだ。他者に生きる意味と死ぬ理由を押し付けて、自分の命を人質に狡猾で生に貪欲だ。なのにまるで生き死に無頓着なように装う。馬鹿馬鹿しい」

カラスは怒っているようでもあった。

「来るがいい。お前らは目を背けすぎだ。俺の背中に乗れ」

カラスは僕の前にしゃがみこむ。カラスの背は思いの外に温かった。僕が乗るやいなや、カラスは虚空に飛び立った。


真っ白な霧を、カラスの真っ黒な羽が切り裂いていく。あれほど深いと思っていた霧を吹き飛ばすのは一瞬であった。あっという間にカラスは天へ昇っていく。瑠璃色の空に、星がいくつも輝いていた。上がれば上がるほど空気は冷たく澄んでいく。小さな月が、白く僕たちを照らす。

「星さ」

盲目のカラスは唐突に言う。

「お前の目指す海はカシオペアの隣にある」

僕は空を見上げる。星なんて詳しくない。

「北の空に光る青白い星があるだろう。それがカシオペアだ。その隣にお前の向かう海がある」

「どうして」

「ここはお前が望めば叶うからさ」

最初からそうだったろう。

お前はそうあるべきものとしてここまでやって来たんだ。すべてがお前をそこへ導くために廻っている。なのにお前は迷っていた。まだ迷っている。

見てみろ。

世界の崩壊はすでに致命的だ。

僕は、周りを見る。夜に抱かれた世界は美しい。藍のベールをまとったように、森も湖も草原も、静かに揺れている。けれど端々が赤黒く光っている。炎だ。紙があぶられるように、世界そのものが焼け落ち始めている。その先は空虚だった。

「鳴き砂の砂浜はないの?」

「なんだ、お前はそんな言葉を大切にしているのか。ここをどこだと思っている。不安定で流されやすい、確かなものなんてひとつもない。ここはそういう場所だ。そういえば《屁理屈》が言っていたなぁ。『心は嘘をつかない?』?それこそたいそうな欺瞞じゃないか!心はいつだって嘘をつく」

カラスはしゃがれた声で再び嗤う。

空気はいよいよ冷たくなって、息をするだけで肺が指すように痛かった。けれどカラスはお構いなしに上っていく。眼下はもう雲海だった。羽ばたくたびにキシキシと音が鳴り始めた。

「カラス…」

僕がそう声をかけた途端、カラスの羽に青白い炎が上がりだした。カラスの身体はみるみる燃えていく。

「気にするな。この炎がお前に燃え移ることはあるまい。必ずあの星空の海へお前を連れて行ってやろう」

盲目のカラスの声は優しかった。

俺が燃えゆくことを、喜んでくれ。

元来、≪矜持≫とは地の上にあって振りかざすものではないんだ。

真っ暗な虚空にあって輝く、孤高の星であるべきものなのだから。

何も言わずに、ただ夜の旅人の道を標すように、小さく光るもの。

カラスの身体はすっかり炎に包まれ、尚もカラスは天へ昇っていく。空はもう青ではなく、黒い闇であった。カシオペアは煌々と輝いている。

お前を待っていた。

俺はそれを認めることはできない。

けれど世界はお前を待っていた。

そして僕は唐突に投げ出され、海へ落ちた。




海は暗く、けれど思いのほか冷たくはなかった。冷たさは一瞬容赦なく僕を襲って刺したように思えたけど、すぐに包むように寄り添うように感じた。息はできない。目を開けると、遠ざかる水面は小さな無数の星を抱いている。空気は遠く、僕は窒息していく。肺はぬるく優しく海水が溜まっていく。遠くでクジラの声がする。誰を呼んでいるのだろう。目を瞑ると大きなクジラの影だけが見える。降り注ぐ小さな光を遮るように星空を雄大に泳ぐ、大きなひとりぼっちのクジラ。

僕の体はすっかり脱力し、死んでいく。

真っ暗な海に抱かれて、僕は死んでいく。クジラの声がさみしく響く。さみしいのか、いや、悲しんでくれるのか。僕を悼むように、クジラは泣いている。


意識が戻ると僕は海底にいた。

けれどもう目は開かない。起き上がることもできない。横たわる僕の頬にざらつく砂の感触。

海底は孤独だった。真っ暗で冷たく、誰もいない。何もいない。

ふと、何か聞こえる。

これは、息だ。微かに、微かに聞こえる。

寝息が聞こえる。

誰かが僕のそばで眠っている。

途端に僕は泣いた。

愛しい寝息だ。僕の愛しい人の寝息だ。

逢えた。やっと逢えた。海の底で君を見つけた。

ここで二人死んでいけるのなら、これ以上の幸せはない。

僕は高揚した。胸が高鳴り、頬が紅潮する。冷たく凍り付いた手足の指先に、再び血潮が巡るのを感じる。


しかし彼女は喜んでなどいなかった。愛しい寝息の音は、次第にすすり泣きにかわっていった。

僕は慌てて目を開けた。目の前で彼女は膝をつき、丸くなって泣いている。僕はすぐにも駆け寄りたいが動くことができない。手を伸ばしたくても体は硬直して動かなかった。

 ー泣かないで。

僕の言葉は声にならなかった。それでもお構いなしに僕は続けた。

 ー僕をおいていかないで。

 ー僕をおきざりに、1人で死なないで。

声はかすれて言葉は宙を舞う。


「違う。貴方が先に死んだんだ」

慟哭。

彼女は顔を覆ったまま、吐き捨てた。

独りにしないと言ったのに。おいていかないと言ったのに。貴方が先に死んだんだ。

貴方の抱える痛みを、私だって背負いたかった。一緒に傷を負って生きたかった。

彼女の声は次第に空を裂くような絶叫に代わってく。

絶望に目を覚まして、私はたった一人で生きていかなきゃならない!貴方がいない世界で!


 ー僕が死んだのか。

思い出した。突然僕の記憶は鮮明に僕を襲ってきた。いままでずっとどこか遠くで見ていた僕の意識が一気に鮮明になっていく。

そうだ、僕は死んだ。

出刃包丁の取っ手の感触、触れた刃の冷たさ。目をふさいで耳を閉じて、自分の鼓動と息遣いだけに集中して、すべてを終わらせようと一気に力を込めた。叫びながら、手首で刃を引いた。次の瞬間に襲ってきたのは、代えがたい達成感だった。やりきった。僕はうれしくうれしくて涙を流していた。けど、次第に意識が薄れていく中で、だんだんと後悔をし始めた。彼女はどう思うのだろうか。僕を憎むのだろうか。恨まれるのはつらいな。誰かと幸せをなんて願ったら、彼女はそれこそ鬼の形相で狂ったように怒るだろう。どうしよう。取り返しのつかないことをしてしまった。酒に酔って、薬が回って、今日ならいける気がしたけども。彼女を置き去りにしてしまった。

そしてそのあと記憶に蓋をして、彼女が死んだんだと錯覚して、ここに落ちて僕が味わっていた絶望は、そのまま彼女が味わっていた絶望だったのか。

海は急激に冷えていく。肺の中は重たく、苦しく。水圧は突然に背中を、内臓を圧し潰し始めた。

彼女はもう言葉にもならない声で叫んで泣いている。ずっと顔を覆っている。長い黒い髪は、乱れて水中を苦しそうに舞っている。美しい僕の彼女が、とても惨めに小さく泣いている。

世界は、苦しみに満たされてしまった。


”心はいつだって嘘をつく”

ふと、カラスの声が聞こえた。確かにカラスはあの時そう言っていた。

”世界はお前を待っていた”

カラスは本当は、僕に何を伝えようとしていた?

そもそもここはどこなんだ。世界が僕を待っていたというのなら、なぜ彼女は僕のほうを見ない。僕を愛している彼女ならば、すぐに僕に駆け寄るはず。そうだ、どんなにすれ違っても、言い争っても、僕らは会えば惹かれあわずにはいられなかった。言葉より先に、手を伸ばしていた。思考するより先に抱きしめあっていた。

ここはどこだ。

目の前の彼女は本当に僕の愛しい彼女なのか。そもそもここは本当に彼女の心の中なのか。

僕は一体誰の心の中にいるんだろうか。


そうか、はじめから僕は僕の中にしか存在できない。

当たり前のことにやっと気づいた。僕らは自分の心の中しか知りえない。誰かの心の中に入るなんて、そんなのどれほど願っても詮無い、叶わない願い事だ。

生きている限り、僕らは僕らの中から出ることはできないのだから。

これはすべて、僕の心だったのか。

「やっと気づいたの」

背後から、それは優しく声をかけてきた。懐かしい、愛しくてたまらない声だった。

振り返るとそこには白い小さな貝が落ちていた。

「ようやく見つけてくれたのね。ずっとそばにいたのに。あぁ、声が届いた」

声が優しく僕を抱きしめる。

「ここじゃない。あの子は言ってたでしょう?砂浜を探してって」

水面を目指して。

もう一度裸足で砂を踏もう。

泣きながら一緒に、寄せては返す波の音を聞きながら、優しく香る潮の匂いを抱いて、足跡を確かに讃えてくれるあの白い砂を踏みしめよう。

僕は遥か上の水面を見る。

煌めく光と揺れる水面、生きている匂いと音。

僕はそこへ向かって海底を蹴った。



カーテンから差し込む光は、白く眩しい。僕は清潔なシーツの上にいる。身体は重く、機械から僕の心音が部屋の中に響いてる。無言で僕はひとり、泣いている。

それは、もう一度目覚める温かな午後。


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