自分が思う青春を息抜きに書いてみたって話
11月下旬、ガラリとした放課後の校舎。廊下には自分の足音のみが響いている。校庭からは、野球部がボールを打つ音。外はまだ明るく、雲一つない青空が広がる。
エマは自分の教室に忘れ物を取りに行っていた。学校の校門を跨ぐ直前に危機一髪、ジャージがないことに気づいたのである。教室に置いて帰ることも出来るのだが、エマはまめな性格なので、どうしても持ち帰りたかったのだ。
エマのクラスの教室は、校舎の別棟三階にあり、階段を登って一番手前に位置する。
エマが教室の扉を開けると、目に飛び込んできた光景に思わず唖然とした。
二人の男子がいた。教室の一番窓側の列、後ろから三番目の席の机に、エマに背を向ける形で一人の男子が腰掛け、もう1人の男子は立っていた。そして二人は、キスをしていた。
立っている男子が先にエマに気づいた。彼の名はカケルという。
カケルはクラスで唯一のバスケ部だ。クラスでは寡黙で男らしい感じがするが、実はとても優しい。
その後、机に座っている男子が振り返った。彼はキョーヤという。
典型的な陽キャで、男女ともに誰でも仲良くできる気質である。
だが、エマはこの二人との関わりはほぼなかった。まとも会話をした記憶もない。避けているつもりはないが、ひたすら縁がなかったのだ。
そんな彼ら二人のキスシーンを目撃してしまった。
目が合うなりカケルはすぐに視線を逸らし、エマが言葉も出ないでいるうちに、
「俺、帰るわ」
とだけ言って、逃げるように教室を出て行き、素早く扉を閉めた。
一瞬の沈黙の間に、エマは色々なことを考えた。
黙ってシラをきるか。いやいやそれには無理がある。だって、はっきりとキスを目撃してしまったから。だったら声をかけるべきか。だとして、何て声をかけたらいい?どんなことを言っても正解でないような気もがするし、第一望んでもいないのに変に距離が縮まることにならないか?いや、いいけど。なんとも思ってないけど。むしろ、二人とも背が高くてわりかしビジュもいいから絵になるし、一瞬見惚れてもいたけど。
先にキョーヤが口を開いた。
「忘れ物?」
「え……そう。 ジャージ取りに来たんだけど……ごめん」
キョーヤは本当に不思議そうな顔をして、首を傾げた。
「何で謝るの?」
「だって、いきなり教室に入って驚かせちゃったから……」
「エマは悪くないよ」
キョーヤは穏やかに微笑んだ。
「教室でキスしてた僕たちが悪いんだから」
またもや沈黙が訪れる。
何か、何か言わなければ。
「二人は、付き合ってるの?」
心の中で、手で目を覆った。
いきなり地雷を踏みに行ってどうする、馬鹿馬鹿。
「そうだよ」
キョーヤは何の躊躇もなく言った。
「僕から告白して、オーケーしてもらえたんだ」
「そうなんだ」
エマは言おうか言わまいか迷って、結局言うことにした。
「あの……気にしないで」
え?とキョーヤはきょとんとした。
「私、別に何も思ってないし、言いふらしたりしないから」
すると、キョーヤは吹き出して、ころころと笑った。
「分かってる。 エマがそんなことする人とは思ってないし」
一通り笑うと、キョーヤは鞄を肩にかけた。
「僕は帰るよ。 彼氏も帰っちゃったからね」
エマは一人、教室に残された。しばらく、その場に佇んでいた。
* * *
エマは教室に一人、残っていた。今日は日直だったので、最後の戸締りをしないといけないのだ。窓の鍵も、電気のスイッチも、ストーブの元栓も全て確認して、後は黒板掃除のみ。仕事を黙々とこなしている間、エマはずっと暗黒に心が押し潰されそうだった。
エマは受験する第一志望を既に決めている。将来の夢があり、それを叶えるために自分で選んだ。だが、両親は反対している。エマにとっては、かなり背伸びをした第一志望だからだ。更には、エマは夢についても否定されている。両親はエマに安定した大学を受け、安定した職に就いて欲しいと考えているのだ。
だが、それだけなら反発できた。両親の意見を意地で突っぱねることができた。だが、今日の進路相談で、先生からもやめた方がいいと言われてしまった。エマは生半可な気持ちで進路を決めているのではない。エマの夢にはきっかけと、理由と、根拠があって、きちんと覚悟も決めている。それなのに、両親も先生も夢を見るのはいいが、そろそろ現実を見ろと言う。――決して間違いではないのだろう。両親も先生も、エマのことを考えて言ってくれているのも分かる。だが、それで納得できるかと言われるとそうではない。エマだって、第一志望を決めるに至るまでおおいに悩み、考え、調べ、現在進行中で努力している。
それを否定されたことが悔しくて、悲しくて、涙で視界が潤んだ。でも、絶対に泣きたくはなくて、黒板を腕が痛くなるほど全力で拭いた。
すると、突然教室の扉がガラリと開いた。そこに立っていたのは、キョーヤだった。
エマの顔を見るなり、大慌てで
「な、何? どうしたの?」
と、ポケットティッシュを差し出した。
潤んだ目を拭くとともに、鼻水をかんだ。静かな教室に盛大な音が響く。
「何かあったの?」
キョーヤが心配そうに聞く。
さあ、どうしようか。涙を見られたからには、このまま何でもないですというわけにはいかない。――でも何故か、キョーヤには話しても大丈夫な気がした。何がどう大丈夫なのかは分からないが、彼になら話してみてもいいかもしれない。
彼なら信頼できる、と思う。
「実はね……」
* * *
「……そうなんだ」
キョーヤは一言も口を挟むことなく、最後までエマの話を聞いていた。
「そういう時も、あるよね」
自分から話し始めたにも関わらず、この重苦しい空気に耐えがたくなった。雰囲気を変えようと、垂れていた頭を思い切り上げた瞬間、キョーヤが言った。
「今、苦しい?」
鏡がないので、エマがいかに間抜けな顔をしたかは知る由もない。
「そ、そりゃ苦しいけど……」
「じゃあ、こっち来て」
すると、キョーヤは突然エマの手を取って教室を飛び出した。
抵抗もできぬまま、廊下を駆け抜け、階段を走り上り、立ち入り禁止のロープをくぐり抜けて行った先は屋上だった。生徒が屋上に行くことは禁止されているので、扉には鍵がかかっているはずだ。だが、キョーヤが押すとガチャリと開いた。
「はあ? 何で開けられるの?」
「鍵がめちゃくちゃ古くて、壊れてるから。 この前適当にいじってたら開いたんだ」
いつの間にかそんなことをしていたのか。
キョーヤが屋上に入っていったので、エマも一歩踏み出すと、思わず目を見張った。
雲一つない、真っ青な空が広がっていた。それは眩しいほど美しく、大きなキャンパスのようで、目の前の景色が蒼色に色づいてゆく。小さな風がエマの頬を撫でた。
「すごい……」
キョーヤは屋上のど真ん中まで行くと、大きく大の字になって寝転んだ。
「何してるの?」
エマが近づくと、キョーヤは寝転んだまま言った。
「エマも同じようにしてごらんよ」
躊躇していると、キョーヤは続けて言った。
「今から僕たちはリセットするんだよ。 一回全て忘れて、初期化する」
はあ、と頷いていると、
「だから、エマも僕と同じように寝転んでみて」
と、急かされた。
恐る恐るという感じで寝転ぶと、目の前に青空が広がった。
「目を瞑って、これから一言も喋らないで。 まつ毛一本、指先一本動かさないで」
11月下旬である。身体の芯から冷えてゆく。それでもエマは、キョーヤの言う通りにした。ここでツッコミを入れるのは野暮だと思った。
エマは目を瞑った。
* * *
どれくらいの時間、寝転んだまま動かなかっただろう。エマはただひたすらに青空を受け止め、灰色の心が蒼く染まっていくのを感じた。思春期の、青春の色を知った。
「ううう……寒っ」
声がして目を開けると、キョーヤはすでに起き上がっていた。
「風邪引きそう。 そろそろ帰ろう」
そして、エマに手を差し出した。
「コンビニであったかいもの食べよう」
* * *
- - -キョーヤ目線- - -
カケルと喧嘩をした。きっかけは覚えていない。それくらい些細なことだった。
いつも僕は思う。僕の恋愛対象が男子でなかったら。僕がどこにでもいる普通の男子だったら。僕が女子を好きになれたら。でも、それが出来ない。
僕はカケルの側に居たいだけ。なのに、いつもカケルを苦しませてしまう。なぜなら、カケルは女子が好きだから。カケルにとって、男子は恋愛対象じゃない。
だけど、カケルは優しいから隣に居てくれる。嫌じゃないフリをしてくれる。でも、それがとてつもなく痛くて、辛い。
カケルと距離を取ったこともあった。けど、離れると寂しくて寂しくてたまらなくなる。カケルの隣が僕以外だと、まるで居場所を失くしたみたいな気持ちになる。
僕は隣にいる誰も傷つけたくない。好きな人だから、傷つけたくない。なのに、近づきすぎると苦しませてしまう。傷つけてしまう。
カケルの隣に居たいだけ。カケルの隣で笑っていたいだけ。なのに、なのにどうして?
――これが青春というものなのか。人とゴリゴリぶつかって。張り合って。傷つけて、傷つけられて。
それなら、青春なんて病と一緒だ。
こうして屋上で寝ていると、全てを忘れられる。身体は芯まで冷え切っているのに、心は全く寒くない。空は無彩色の冷たい心を温かくする。青空はこんな僕のことを許して、受け止めてくれる。そして、目を開けた時に、僕は生まれ変わってる。
- - - - - -
* * *
エマは受験に失敗した。第一志望の推薦はことごとく落ち、一般入試も落ちた。第二志望以下は受かったり、落ちたりした。受験前は第一志望以外に進学するつもりはなかったが、こうしていざ不合格になると、どうしてもヒヨってしまう。浪人する道もあるが、エマの家はもう一年予備校に通えるほど裕福ではない。なにより、両親が浪人することを反対している。どうしても浪人したいのなら一人暮らしをしろと言う。エマ自身も、両親に大きな心配をかけたくない。だが、エマには夢がある。その夢は未だ変わっていないし、諦めてもいない。その夢を追いかけるには、第一志望に行く必要がある。
エマは悩んだ。第一志望に落ちてから、泣いて、周りが第一志望合格を喜んでいるのを横目にひたすら泣きながらも、ずっと考えて悩んでいた。悩んで悩んで悩んでも、答えは出なかった。
卒業の日、式典を終え、友や先生と別れを十分に惜しんだ。一通り落ち着くと、喧騒に包まれる教室を背に、エマは一人屋上に向かった。一年ちょっと前、キョーヤと一緒に寝転び、全てをリセットした場所。空はあの時と同じように変わらず澄んでいて、広かった。
キョーヤの進学先は知らない。そもそも彼とは近い距離の人ではなかったから。
エマは一人、かつての同じ場所に寝転んだ。そして、同じように目を閉じ、指一本動かさなかった。
どれくらいの時間そうしていたかはわからない。
そして、エマはふいに立ち上がり、一つ大きな決心をした。