その令嬢、劇物につき ~毒にも薬にもならない役立たずと仰るならば、目にモノ見せてくれましょう~
お目に止めて頂き、ありがとうございます。
よろしくお願いいたします。
*
「フローレス・クロムウェル! もう貴様の顔を見るのも我慢ならん。婚約破棄だ婚約破棄!」
唐突に響き渡った怒声に、辺りは静まり返った。
王立植物園の中庭に設けられたカフェ、そのオープンテラスの一角に視線が集まる。
それは見たくもなるだろう。どんな阿呆がこんな品の無い事を天下に向けて叫んでいるのか、それは是非とも見てやろうと思うに決まっている。そして話の種にする。誰だってする。フローレスだって、そんな現場に出くわしたら、阿呆の見目をじっくりと観察し、興味深くそのバカ話に耳をそばめもするだろう。
そう、他人事であるならば。
フローレスは落ち着き払って、目の前で湯気を立てている己が婚約者、ジョナサン・クラックスを眺めた。
外見だけは良い。
二十代に差し掛かったばかりのジョナサンは、艶のある栗毛に碧眼、甘く整った容貌は男女を問わず人好きがする。上背のあるすらりとした体躯に、伯爵家の令息に相応しい趣味の良い装いがぴしりと身に付き、これで背筋を伸ばしてきちんと着座し、小脇に女を抱えてさえいなければ、文句なしの絵に描いたような伊達男だったろう。しかしながら現状は左脇に手挟んだ肉感的な美女とあれこれ絡まっているため、見事にだらしない、鼻の下の伸び切った下種野郎にしか見えない。
「聞いているのかフローレス!」
ジョナサンはフローレスを睨みつけた。
「婚約破棄、そう仰いましたか」
フローレスはそっと茶器を受け皿に戻し、小首を傾げた。滑らかな黒髪を纏めた髪飾りに散りばめられた白蝶貝の鈴蘭が、動きに合わせてちりりと鳴る。
「理由を伺えますか?」
「だからそういう処だよそういう処」
苛々とジョナサンは右足で地面をタップした。
「その無表情。可愛げのなさ。少しは取り乱したらどうだ、鉄面皮」
「無表情はともかく、鉄面皮は承服致しかねます。それはむしろそちらの方でしょう。どなたか存じませんけれど」
フローレスは、大胆に胸元を強調したデイドレスを纏った、己より少々年かさの美女に、ごく小さく微笑みかけた。
「私の前で、彼と適切な距離感ではないのはお判りですものね?」
「ジジを誹謗するのはやめて貰おう」
ジョナサンは歯を剥きだしてフローレスを威嚇し、改めて美女をぐっと抱き寄せた。
波打つゴールデンブロンドの美女は、鮮やかに彩った唇を物憂げに吊り上げてフローレスを馬鹿にしたように見てから、より一層ジョナサンにしがみつく。
「まあ怖い。そんな死んだお魚みたいな目で睨まないで頂きたいわ」
美女は―――ジジは、己のカッパーブラウンの美しい瞳をフローレスに見せつけるように、わざとらしく見開いた。
「ははは、確かにな。フローレスの目の色は死んだ魚によく似ている」
あからさまにジョナサンは嘲ったが、フローレスがびくともしないのに気付くと、より憎々し気にフローレスのスレートブルーの瞳を睨みつけた。
「とにかくお前とは婚約破棄だ、フローレス。格下貴族の分際でいちいち小言が煩いわ、さもなければ訳の判らん下らん話ばかりだわ、役に立つ情報ひとつ拾ってこられないような愚か者、俺の人生には必要ないんだよ」
随分な言われようだ。
フローレスは背筋を凛と伸ばして、でれでれと女と絡まるジョナサンを見返した。
「くだらない事? 私なりにジョナサン様の為になることを伝えていたつもりなのですが」
「は! 笑わせるな」
フローレスの言葉を、ジョナサンは鼻で嗤い飛ばした。
「女共が群れ集まるだけの、くだらない茶会で聞きかじってきた噂話が、俺の投機の何の役に立つというんだ、阿呆らしい」
「ジョナサン様はいつもそう仰いますが、上流婦人の情報網は馬鹿に出来ません」
穏やかにそう窘めるフローレスを、ジジは可哀想なものを見るような目で見下し、クスクスと嗤った。
「そうよ、ジョナサン。オバサン達の井戸端会議だって重要なのよ? 何処かの犬が風邪ひいたとか、子供のおやつは何が良いとか」
「ははは、そうだな、女子供の菓子の流行りだの、バアさん連中のバカンス先だの、爺共の浮気話だの、どれもこれも下らん限りだ。何の儲け話にも繋がらん。その点、ジジのくれる情報は価値がある」
「ふふ、わたしが持ってくる紳士たちの内緒話は面白いでしょう?」
ジジは勝ち誇ったようにつんと顎を上げた。ジョナサンがこれ見よがしにジジの髪にキスを落とし、その余りに傍若無人な振る舞いに、ギャラリーから微かなどよめきが流れ出る。
フローレスは何度か瞬きをし、ジジの悦に入ったような笑顔をまじまじと見た。
「紳士たちの内緒話、ですか? 一体、何処で、どのようにして耳にしてらっしゃるのかしら。だって会員制倶楽部は女性禁制でしょう?」
上流階級の男たちが集い、親交を深める会員制の社交倶楽部はいくつもあるが、その全てに共通する大原則が、徹底的な女性の排除である。メンバーに加えないのは元より、従業員すら、それこそ掃除婦ひとりでさえも雇わない。
確かに上流紳士が集まる倶楽部でならば、さぞや価値のある情報も手に入るだろう。しかし、どのような身分であれ、例え王族であろうとも、会員制倶楽部には女性は絶対に入れない。聞き取りようが無い筈だ。
ジジはその振る舞いからして、如何にも庶民である。百歩譲って、もしかしたら下級貴族の娘なのかもしれないが―――もしそうならば、最低限の礼儀は備えている筈で、と、言う事は。
「もしかして、何処かの倶楽部で限定的にメイドを雇う事にしたの? ……何処からもそんな話は聞かないけれど……」
フローレスの溢した呟きを聞き咎めて、ジジは柳眉を逆立てた。
「失礼ね、わたしが下働きだって言いたいの?!」
「何て事を言うんだ、フローレス! ジジはサロンの人気嬢なんだぞ」
フローレスは、再び瞬いた。
「サロン。貴女が主催なさっているのですか?」
だとしたらお見逸れしました。フローレスは、素直に思った。
ひとは見た目によらない。サロンを主宰するほどの教養や嗜みがあるのだとしたら、それは確かに価値ある情報が入手出来ても不思議はない。
「文学ですか? それとも絵画? どんな方たちがメンバーなのでしょう」
「はああ?」
「何の話だ。文学だと? 何の腹の足しになるんだ、そんなもの」
「はい??」
胡乱そうなジョナサンの言葉に、フローレスは本気で首を傾げた。だってサロンとはそういう場だ。芸術について喧々諤々と語りあい、議論を交わし、交誼を深める場だ。一癖も二癖もある論客ばかりだろうその場を取り仕切るには、並々ならぬ教養と手腕が必要な筈なのだが。
「―――あ、判りました。サルーン、の方ですか」
間抜け面の二人をしばし眺め、漸くフローレスは腑に落ちた。
つまり、ジジは酒場勤めなのだ。どの程度のサルーンかは判らないが、確かに紳士の社交場のひとつではある。上手いこと呑ませれば、口も軽くなろうと言うものだ。
だけど、とフローレスは内心で再び首を傾ける。
酔っ払いの戯言の方が、茶会のゴシップよりも信用ならないのでは?
だって、茶会のゴシップは、煙幕さえ正しく読み解けば……
「お前は本当に可愛げが無いな! 判り切ってはいたが、腹が立つ。何がサルーンの方ですか、だ。そういうのを、お高く止まって厭らしいと言うんだ」
フローレスの物思いをぶった切る勢いでジョナサンが声を荒げた。不貞腐れたように唇を尖らせたジジの髪にまた音を立ててキスを落とし、憎々し気にフローレスを睨みつける。
「とにかく、お前のような役立たずは俺の妻には相応しくない。その高慢ちきな澄まし顔も気に喰わん。俺に逢うと言うのに、女学生じみた野暮ったい服装しかしない処も腹が立つ。少しはジジを見習え」
すっかり機嫌を直し、うふん、と身をくねらせるジジを、フローレスは真顔で上から下までとっくり眺めた。
確かに野暮ったいとは言わないだろう。フローレスは、微かに頷いた。
野暮ではない。その華やかな装いは、ジジに大変似合ってもいる。しかし、場にはそぐわない。日中の屋外、しかも王立植物園といういささかアカデミックな場面で、大きく刳った襟ぐりから腰回りまで、張り付くような薄い生地と透けるレースを多用した、目にチカチカするような『デイ』ドレスと華奢なヒール、派手に光を弾くアクセサリーは、余りに場違いだ。フローレスが纏う、襟の高いツーピースの外出着と歩きやすさ重視の編み上げブーツ、髪飾りと揃いの白蝶貝のブローチという、生真面目な装いとは正に対極だ。
だが、そうは言っても、とフローレスは密かに嘆息する。
そもそもの話として、『じみた』どころではなくフローレスは最終学年とは言え正真正銘まだ学生なので、この慎ましやかな装いは誰が何と言おうと正しいのだが。
未婚の淑女たる者、熱中症でもない限り、昼日中に人前でデコルテは開けない。
「―――何だ、その顔は」
「いえ、ジジさんは確かに華美でいらっしゃるな、と」
「そうだろうとも」
何故かふんぞり返るジョナサンを前に、フローレスは穏やかに言葉を継いだ。
「確かに私とは大違いですね。華やかで、殿方との会話に長け、人あしらいがお上手」
「判ってるじゃないか」
「ジョナサン様に相応しい妻とは、そのような世慣れた女性だという事で宜しいですか」
「まさしく! ジジは美しいだけでなく、機転が利いてウィットにも富み、実に魅力的な好い女だ。下らんゴシップばかりを囀るお前のような、毒にも薬にもならん能の無い小娘とは大違いだ」
どんどんジョナサンの暴言が積み上がって行く中、フローレスの表情は小揺るぎすらしなかった。ゆっくりとした瞬きが頬に影は落とすものの、顔色ひとつ変えずに年長の男の罵言を受け止め、ジジが浴びせるあからさまな嘲笑も綺麗にいなす。
そして。
「承知しました」
フローレスは、すぱんと言った。
「…………ん?」
余りにも簡単にフローレスが宜ったからだろうか、ジョナサンは目をぱちくりと瞬いた。その少々滑稽な、虚を突かれた様子には全く頓着せず、フローレスはハキハキと言葉を繋ぐ。
「婚約破棄とのお言葉、確かに承りました。私個人は全く吝かではありませんので帰宅しだい速やかに両親に申し伝えますが、そもそもはクラックス家からの申し入れで結ばれた縁です。ですので、間違いなくジョナサン様からの破談として、早急に筋を通して下さいますよう」
「―――ん? そう、だったか?? え? 我が家から???」
「はい。クラックスの先代様からのたってのお申し出でございました。実は当家はそれほど乗り気でも無く」
「は?」
「そんな事はもうどうでも良いですね。それではジョナサン様、この十年、互いに不満も不自由も多々ございましたけれども、婚約者として精一杯のお世話をさせて頂きました。もうお目に掛かる機会もそうは無いでしょうから、どうぞお元気で」
「おい何だ、お前が俺の何の世話をしたって」
柄にもなく一瞬たじろいだ隙に畳みかけられて、ジョナサンはむっとした。口の減らない生意気な小娘をやり込めようと居丈高に向き直り、正面から睨みつけて―――唖然とした。
地味で無表情で大した美人でもない癖に高慢ちきだと、今の今まで馬鹿にしていた年下の少女の暗い灰青の瞳に浮かぶ昂揚、未だかつて見たことも無い、眩いばかりの煌めきに、自分が何を言おうとしていたのか、全ての言葉が舌の上で凍り付く。
「大変お世話致しましたが、やっぱりお判りでは無かったのね。そんな事だと思っていました。ああ馬鹿々々しい」
「な、何」
「無駄な十年を費やした私が切ないですから、最後の最後にひとつだけ。不本意とは言え今までご縁を結んでいた方へ、置き土産として、いま一度だけ申し上げます。―――今、バルバーニに投資するのはお勧めしません」
「……お前は先刻もそう言ったが、何が根拠だ。バルバーニ家の事業は安定しているし、現当主の才覚は本物だぞ」
「根拠ですか? 再三の忠告もことごとく無視、しまいには激高されて怒鳴られて、十年ものの婚約を衆人環視の中で声高に破談にされても取り下げないくらい、ありますよ。バルバーニのご当主は華やかな恋愛遍歴を誇っておられますが、奥様には決して頭が上がらないのは有名な話です」
「意味が判らん! バルバーニの奥方は、お前と違って控えめで淑やかで、内助の功で有名な方だぞ。常に当主を立てる賢夫人だ」
「そうですね」
いつの間にか、周囲はまたしんと静まり返っていた。
一貫して声を荒げることなく、淡々と言葉を紡ぐフローレスは、今や艶やかと言っても良い微笑を浮かべていた。先ほどまでの慎ましくも大人しやかな女学生ぶりの片鱗は何処にも無い。年齢も体格も社会的な経験も敵わない筈の大の男を相手に一歩も引かない凛とした姿に、ジョナサンもジジも呑まれたようにフローレスを見つめるしかない。
「バルバーニの小母様の事は、私も心から尊敬申し上げております。ですから、私でしたら、今のご当主の計画には乗りません」
駄目押しのように嫣然たる笑顔を向けて、フローレスは静かに立ち上がった。
「それでは、私はこれで。ご機嫌よう、おふたかた。どうぞ末永くお幸せに」
「ちょっと待て! 判るように言え」
我に返ったジョナサンが反射的に手を伸ばしたが、軽やかに躱されてフローレスには届かない。
何だ、こんな女、自分は知らない。
ジョナサンは、喉が絞まるような息苦しさと共に、嫌な汗が流れるのを感じる。
十年間、年長を笠に着て、気分次第で如何様にでも踏み潰せた婚約者だ。賢しらぶった小言を言う事もあったが、頭ごなしにやり込めれば引き下がる、そんなつまらない小娘だった筈だ。
こんな、内側から強く煌めく瞳で挑発的な口を利く、眩いばかりの少女は、俺は知らない。
―――これはもしかして、やらかしたのかも。
今更ながら狼狽するジョナサンを尻目に、フローレスは実に綺麗な所作での暇を告げる礼をするや、魔法のように現れた側仕えが取り出した紙幣を残して、その場を優雅に歩み去り。
一部始終を見届けた観客から、フローレスには密やかな嘆声と拍手が、残されたふたりには冷えた薄笑いが浴びせられたのだった。
**
「やっぱり此処か、クロムウェル嬢」
のんびりと掛けられた声に、フローレスはゆっくり振り返った。
不意の休講に当たったフローレスは、学舎の屋上でひとり読書を楽んでいた処だった。
屋上は、フローレスお気に入りの寛ぎスポットだ。屋根も無ければベンチも無い、転落防止の高い柵が巡らされているだけののっぺらぼうな空き地なので、余程の物好きでも無い限り、延々と続く階段を上がってやって来ることは無い。それで、何にも考えずにのんびりと過ごしたい気分の時、フローレスは誰にも言わずに此処に来る。
なので、華奢なグラスを両手に持ち、屈託のない笑顔を向けてくる級友の姿に、フローレスは戸惑いを隠せなかった。
「祝いと礼の杯を捧げに来たよ」
「何の祝いで何のお礼でしょう?」
「阿呆と縁が切れた祝いだね。それと素晴らしい情報を貰った事をね、感謝しようと思って。隣、良い?」
フローレスは、広げていたブランケットの上を移動し、級友の為にスペースを空けた。彼が手渡してくるレモネードに、思わず目を瞠ってしまう。
「良くこんな処まで溢さずに持っていらしたわね」
ふふん、と得意げに微笑みながら、無造作に地面に腰を下ろす級友は、いつになく子供っぽい。
彼の身分からすれば、喫する物は全て使用人が準備し運んでくるもので、自ら持って歩くことなど、それこそ学舎のカフェテリアぐらいしか無い筈だ。その僅かな距離でさえ、液体の満ちたグラスを運ぶのはそれなりにコツが要ると言うのに、遠く離れているばかりか、三階分もの階段を登らねばならない屋上まで、良くも運んできたものである。
「本当なら果実酒くらい交わしたいところだが、流石に学舎ではね。はい、どうぞ。では改めて―――婚約破棄おめでとう、クロムウェル嬢。乾杯」
「言葉の選択が可笑しいでしょう」
遠慮なくグラスを合わせられて、フローレスは抗議はしたものの、笑いながらでは説得力が無い。
「だって別に哀しんでもいないでしょ?」
だから級友もそう嘯いて、日差しに目を細めつつ、果汁を口に運ぶ。
フローレスは苦笑した。
「……気落ちとは程遠い心境だとだけ」
「そう来なくちゃね」
フローレスとジョナサンの婚約は、あの公共の場にも程が有るカフェでの見苦しい一幕が豪速で世を駆け巡り、素晴らしく速やかにジョナサン有責で破談となった。当たり前である。あそこまで善意の第三者による証言に事欠かない舞台もなかなか無い。
彼らが何処の誰だか全く知らない人々の目にも、どちらが悪いか一目瞭然だったため、暴虐極まりない浮気男の讒言に毅然と立ち向かったうら若い乙女へ寄せられた同情と憐憫たるや、天井知らずと言っても良かった。良くぞ言った、スカッとした、もっとやっても良かったのにという声すらあった。つまり、その分、ジョナサンはいけ好かない屑として世に知れ渡ったことになる。だから端からジョナサンは分が悪かったのだが、いざ両家による会合の場に於いても、彼は良いだけ男を下げた。そもそもフローレスが至らないだの心無いだの魅力が無いだの、挙句に彼女が煽るからつい心にも無い事を云々、だからフローレスさえ自分に頭を下げるならば等と往生際悪くゴネまくって、フローレスの父、クロムウェル子爵の逆鱗を見事に鷲掴みにし。
結果、ジョナサンは個人で血反吐を吐く勢いの慰謝料を払う羽目となった。
当初は、蒼褪めたクラックス伯爵夫妻が、頭を擦り付けるように家門としての補償を申し出てきたのだが、フローレスとしては、婚約こそ強引に捻じ込んできたものの幼い頃から自分を可愛がってくれた伯爵夫妻には何らの遺恨も無い。そのあまりの消沈ぶりには、気の毒なような気すらした。まあ、息子を育て損なっているという点では言いたい事は多々あるが、とりあえずそこはそれとして。
翻って、詫びるどころか、いつまで経っても喧しい自己弁護しかしないジョナサンには思う処しかないので、沸々と怒れる父に、フローレスは自分なりの落とし処を耳打ちしてみた。それが、家門としてではなく、飽くまでもジョナサン個人からの陳謝と補償である。果たして父は面白がったし、クラックス夫妻からも然したる異論が無かった為に、ジョナサン本人の反論など丸無視で、諸々の条件は締結された。
という事で、現在、ジョナサンは実家からの援助を絶たれ、身ひとつの崖っぷち状態で資産を搔き集めている筈である。金額はそれなりだが、一括でなくても良いという事になっているし、納入期限が切られている訳でもないから、暫しの頑張りで元の呑気な伊達男に戻れることだろう―――馬鹿な博打にさえ出なければ。
フローレスは、小さく微笑んだ。
―――気落ちどころか。
嘗ての婚約者のもがきっぷりは、もはや高みの見物の境地と言って良かった。
「―――ところで、どうして私が此処にいるとご存じだったの?」
フローレスは、隣で長い脚を投げ出して寛ぎ、果実水を愉しむ級友に問いかけた。
渡されたレモネードのグラスは汗をかいているけれども、中身はまだ十分に冷たい。水滴で濡れた指先をハンカチで拭きながら、フローレスは小首を傾げる。
「うん? 単独行動しているなら此処だろうなと思ってね」
当たり前のように言われて、フローレスは眉を寄せた。
そう言えばこの男は、開口一番『やっぱり此処か』と言わなかったか。
この男とは、級友としての通り一遍の付き合いしかない。
何しろ、入学した時点で既にフローレスはジョナサンと婚約していたから、学内の異性とは常に明確な一線を引いて接してきた。だから彼の事も、ファーストネームがアダムで、ランドール伯爵家の次男で、物腰が穏やかな秀才としか知らない。フローレスとは席次が近く、講義によってはグループになることがあるから、その絡みでたまに雑談をする。もっとたまには、学外の社交でも顔を合わせない事も無い。そんな程度の付き合いだ。
いま、わざわざこんな処まで、フローレスがカフェテリアで一番好きなソフトドリンクをデリバリーしてきて、隣に座って涼しい顔で微笑みかけて来るけれど、その行動がまるごと腑に落ちない。
フローレスは問い質そうとしたけれど、それよりも彼が言葉を継ぐ方が早かった。
「そんな事より、改めて感謝するよ、クロムウェル嬢。いや、感謝なんて言葉じゃ足りないな。君のお陰で、我が家は有望な新規事業が立ち上げられたんだから、異国の神に捧げる如く、五体投地でもした方が良いかな」
冗談めかした言い草の中、そこはかとなく感じられる本気に、フローレスは露骨に顔を顰めた。
「何てこと仰るの。そんな事されたら、格下の家の私なんか明日から登校も出来なくなるじゃない」
「学舎で身分の上下もへったくれも無いでしょ。そもそも誰も見てないし」
「そういう問題じゃありません」
だいたい、とフローレスは目を眇めた。
「茶菓子に関したよもやま話を事業にまで持って行けたのは、ひとえにそちらの手腕です。……あの後、私がジョナサン様に一刀両断された処も、見てらしたでしょう」
「うん、えらい勢いで馬鹿にされてたね。君はただ、婚約者の家が主催した茶会で、年配の招待客を持て成して歓談してただけなんだから、随分失礼だろうと呆れたものだが、今となっては彼の阿呆さ加減に感謝している。本来ならクラックス家の儲け代になっただろう話が、我が家に転がり込んできたんだから」
アダム・ランドールは、片頬を吊り上げた。普段、教室で見せる端正な笑顔とは随分違う、人の悪い表情だ。
「滋養の高い甘味がコメから作り得るだなんてね。しかも太りにくく美容に良いときては、売れない訳が無い。領地で持て余していた産物が思いがけない宝の山と判明した父と兄は笑いが止まらなくなっているが、ずっとモニターを務めていた母がね、君にとても感謝していたよ。実際、髪や肌が艶々してきて、息子の目にも若返った感が半端ない」
フローレスは瞬いた。
記憶にあるランドール夫人は、美人だが、見るからに貧血質で病弱そうな貴婦人だ。それが艶冶になってきたと言うのなら、成程、良い広告塔だろう。
「それは何よりですけれど、それなら尚のこと、私ではなく、あの老紳士に感謝なさって。あの方の母国では、女子供のおやつとして珍しくもないものだそうですから。私はただご接待しただけ。ランドール様が興味を示して、いろいろ質問なさるから、それならとお顔を繋いで差し上げただけだもの」
「あのね、君が年寄の昔話を聞き流さず、かつ僕に興味を持たせてくれなければ、そもそも話が始まらなかったんだよ。感謝くらい素直にさせてくれ」
譲らないアダムに、フローレスは苦笑した。
「慣れていないので、落ち着きません」
「哀しい事を言わないで欲しいな」
あの阿呆めが。ごく小さい声で呟いたアダムは、本当に悲しそうに眉を下げて、フローレスの灰青色の瞳を覗き込んだ。
「―――私の言う事は全て、訳の判らない、くだらない話だそうなので」
怜悧な翠色の瞳から、フローレスは視線をふいと外した。
それから、嘗ての婚約者の発言を思い出して、指を折る。
小煩い。くだらない。つまらない噂話で価値が無い。役に立たない。
「あと何でしたっけ……そうそう、意味が判らないとも言われました」
「それはクラックスの頭が悪いだけだろう。自分の察しが悪いのを棚に上げて、君を誹謗しているだけだ」
アダムは、それこそ一刀両断にジョナサンの暴言をぶった切った。
「確かに噂話には耳を覆いたくなるものも少なくないが、全てが愚にも付かない訳じゃない。聞き処も判らない、情報を擦り合わせられない馬鹿の言う事に取り合うんじゃないよ」
アダムは、フローレスの手にそっと己の手を添えて、折り込まれた指を優しく解いた。そのまま指先を軽く、だが明確に力を込めて握る。
「バルバーニ家の醜聞を知らない方がどうかしている」
フローレスは唐突に取られた指を振り解こうとしたが叶わず、困惑を隠さずに級友を見上げた。元婚約者でもあるまいし、みだりに異性に触れて来るような男ではない筈なのに、何で離してくれないのか判らない。アダムはフローレスの困り顔には知らん顔で、ただにっこりと微笑むだけだ。
暫し頑張ってみて、結局、フローレスは手を振りほどくのを諦めた。誰も見ていないし、今は婚約者も居ない身であるから、誰に疚しい事もない。……多少は恥ずかしいが、それだけだ。
努めて気にしないふりで、フローレスは言葉を返す。
「そうですね……バルバーニ家も、そろそろ世代交代の頃合いでしょうか」
「卿も必死で取り繕っていたようだが、所詮、放蕩者のやることだ。あれこれ杜撰すぎるよね」
「仰る通りですね。婿養子の癖に女癖が悪くて、とうとう娘の友人にまで手を付けた、まではまだしも、子供を作ったのは流石に下手を打ち過ぎです」
容赦の無いフローレスの言に、アダムは苦笑したが、首肯した。
「腹の膨れた未婚女性を、強請られるままに保養地に匿うと言うのも迂闊すぎる。人の目に留まらないわけが無いんだ。ひと昔前ならいざ知らず、あの地は今や、鄙びた処が逆に良いとご婦人方に大人気なんだから」
何しろうちの母も義姉上も御用達だもの、とアダムがまた人の悪い顔をする。
フローレスはうっかり釣られかけて、口元を引き締めた。
「きちんと世の中をリサーチする余裕も無くしているという事ですね。無理も無いですが。―――愛人も愛人の実家も強かで、子供も間もなく産まれてしまう。娘婿は実に優秀だし、このままでは当主の座を失うどころか、離婚・無一文で放逐も在り得ると、さぞや焦っている事でしょう。それでは目も曇るし勘も鈍って、どんな危ない話で資金集めに走るやら」
だからフローレスはジョナサンに、『今の当主』の口車には乗るな、と言ったのだ。
あんな公共の場で他家の醜聞を事細かに解説出来る訳も無し、『恋愛遍歴が派手』で『奥方に頭が上がらない状態になっている』と言えば、察しくらいつくだろうと―――まあ、本気で思ってはいなかったけれど。
フローレスは、物憂げに吐息をついた。
ジョナサンの事なので、ああいう言い方をすれば、フローレスに反発する余り、むしろ前のめりに泥船に乗り込む可能性があるな、とは思っていた。
まさかこうまで綺麗に乗っかるとは予想外だったが、彼も良い大人だ。あれほど自信満々自分で決めたことである。そろそろ舟も自力では降りられない程の沖合いまで進んでいることだろうが、ぜひ最期まで頑張って頂きたい。大丈夫、いよいよとなったら彼の両親が何とかするだろう。する筈だ。出来る程度で気が付けば。
大体、フローレスが何を言おうが言うまいが、そもそもまともな情報収集をしている人間なら、いまこの時、『バルバーニ家の事業』ならともかく、『放蕩当主の儲け話』になんぞ、どう間違っても金を突っ込む訳が無い。それくらい周知されている惨状を知らず、忠告も聞かないならば、それはもう如何様にでもカモられろという話である。
フローレスの唇から、また溜息が漏れる。今度のそれは長かった。
―――フローレスとて、何も最初からジョナサンに愛想を尽かしていたわけではない。
何せ、七歳からの付き合いだ。ジョナサンも初っ端から人の話を聞かない俺様だったわけではない。いささか後先を考えなかったり迂闊だったり愚かだったりはしたけれど、だからこそのフローレスとの婚約だ。フローレスならば、ジョナサンを補って、支えて、末長く伯爵家を盛りたてて行けるだろうと先代当主に見込まれたのだ。……フローレスにとっては、不幸にも。
とは言え、フローレスとジョナサンの仲が良好だった時期は、確かにあった。ジョナサンが、少々頼りないとはいえ朗らかで気の良い少年で、しっかり者の婚約者を大事に思っていた時期が。
それがいつの間にやら成長と共にフローレスを煙たがりはじめ、あまり好ましくない友人たちとつるむようになり、どんどん彼女を蔑ろにし、年長であることをカサに抑圧に掛かって来だしたのである。
それでもフローレスは関係を改善しようと頑張ってきた。
人生を共にする男と定められていたから、頭ごなしに腐されても、踏み付けられても、何時かは心に届くだろうと誠実に尽くしたし、引きたくない処で引き下がってもきた。それでも目に余るアレコレに対して、言いたくもない苦言だの小言だのを言わざるを得なかったというのにだ、公開処刑よろしく鬱陶しくてくだらなくて小煩いからお前なんかもう要らんと言われれば、フローレスだってこんな阿呆はとっくに要らない。誰にだって熨斗をつけてくれてやる。ただし、ここまで散々に踏み付けて来たからには踏み返される覚悟はあるんだろうな、と、確かにあの時そう思って―――。
「今後クラックスがどんな目に逢おうと、それこそ身から出た錆というもので、君が気に病む必要なんか何処にも無いよ」
心を読んだようなことを言われて、フローレスは物思いから浮上した。
「そんな事はしていません」
そして、即座に否定した。
「だったら良いが、さっきから何度も溜息を吐いているから、彼の行く末でも憂いているのかと」
「そこまでお人好しじゃありません」
「良かった。気に掛かるのは、心が残っているという事だ。付き合いが長ければ長い程、情もあるし、振り返れば絆される」
「冗談でも止めて下さる?」
心の底から嫌そうな顔を隠さないフローレスに、アダムはくすくす笑って、レモネードを飲み干した。フローレスも釣られてグラスを傾ける。
「それではクロムウェル嬢、卒業を目前に君は自由な立場になった訳だが、今後の事はどう考えている?」
問われて、フローレスは、ちょっと視線を遊ばせた。
阿呆がやらかさなければ、フローレスは今頃、婚姻準備で大忙しだった筈だが、いまやぽっかりと予定は空だ。
実家の後継は決まっているし、そこに余計な手出しをする気も無い。
であれば、将来が決まっていない令嬢たるもの社交に勤しみ、次の縁を求めるものだろうが、
「暫くは好きなことをして良いと許しを貰っているので、のんびり旅行でもしようかと」
ジョナサンが泥船と運命を共にし、あっぷあっぷと沈んだり潜ったりしているであろう間は近くに居ない方が無難だろうと、家族会議で一致を見た。ジジも脱兎の如く行方をくらましたらしいし、それでいよいよ二進も三進もいかなくなったジョナサンに逆恨みされて、絡まれたり付き纏われたりしがみ付かれたりしては洒落にもならない。自暴自棄になった人間は何をしでかすか判らないものだ。
「―――そうだね、暫くはクラックス家からも物理的に遠い方が面倒がないだろうね」
同じような事を考えたらしいアダムは憂うようにそう言って、何故かフローレスの指を握る力を少し強めた。
そう、彼はまだフローレスの手を取ったままだったのである。
何となく感じる不穏な気配に、フローレスはさりげなく自分の手を取り返して距離を取ろうとしたけれど、アダムの方が素早かった。
「それではクロムウェル嬢、我が家に招待しよう。さっきも言ったように、母が君にとても感謝しているし、逢いたがってもいる。いつまででも逗留してくれて構わないよ」
フローレスの手をぐいと引き寄せ、笑顔でとんでもない事を言い出したアダムを、フローレスはじっとりと見あげた。
「身に余り過ぎてお受け致しかねます。お心だけ有難く」
そう言いながら手を捥ぎ放そうとしたものの、到底、敵わない。細身に見えても男の力で、痛くはないが、案外にしっかりとした長い指にがっちり回り込まれてどうにもならない。
「大体、そこまで貴方とも貴方のご実家とも親しくしていないでしょう。唐突に招かれても困るし、変だし、逗留なんてしようものなら周りからどういう目で見られるか」
「それは君が阿呆に義理を立てて、全く取りつく島が無かったからだ。それさえ無ければ、僕はもっと早くから君にアプローチしていたよ」
「は?」
「こんな機会、逃せる訳がない。うん、じゃあ、ご両親が許して下されば招かれてくれるという事で良いね」
「良くないです。私の言う事、ちゃんと聞いてらっしゃる?」
「聞いてるとも。君は困るとは言ったけど、嫌だとは言ってないんだ。家絡みの交流なんて、今から幾らでもどうにでもする」
「そんな強引な」
呆れて見上げる級友の顔が、見たことも無い、駄々っ子のようなふくれっ面で、フローレスはとうとう笑ってしまった。
「ランドール様、子供みたいな事を仰らないで」
「何とでも言ってくれ。クロムウェル嬢、僕と居るのが不快じゃなければ、どうかチャンスを与えてくれないか」
真正面からのアダムの真剣な眼差しに、フローレスは大きく息を吸い込んだ。
彼の申し出が何を意味するか、それが判らないほどフローレスもぼんやりではない。
アダム・ランドールとは級友としての付き合いしかないが、節度のある穏やかな男だというのは知っているし、もちろん接していて不快感を覚えたことなど一度もない。
現状いささか箍が外れているのは確かだが、気まずくも無ければ、対処に困るような態度でも会話でも無かった。思考のテンポが合うのかも知れない。
気になるとすれば、何故かフローレスの行動範囲を把握しているらしい言動がある事と、物理的に距離感が近いところだが、それでも不愉快だとか、恐怖を感じる訳でも無い。何しろ未だに手を握られているどころか、今にも腰を抱かれそうな体勢なのだが、それでも脅威は感じない。
何なら、ジョナサンに肩を抱かれたり腰に手を回されたりする方が不愉快だった。特にこの二年くらい、様々な女の気配が濃厚に漂いだした辺りからは。
なので。
「―――不快な事などありません」
すぱん、とフローレスは言い切った。
「ランドール様とご一緒するのも、話をするのもです。とても楽しく感じます」
アダムは、ぱっと表情を明るくした。
「それは嬉しい! ではクロムウェル嬢、早急に子爵家にご挨拶に伺おう。ああ、父も一緒のほうが話が早いかな」
「そんなに慌てなくても、卒業まではまだ間があります」
「君に気を変えられたら困る。それに、他家から余計な横槍が入る前に足場を固めておかないと、到底、安心出来るものじゃない」
「何を大袈裟な」
―――と、この時は、おかしな具合に目を据わらせたアダムを笑い飛ばせたフローレスだが、その後、言動一致というか有言実行というか、恐るべきスピードで外堀を埋めに掛かったアダムにあっという間に囲い込まれて目を回した。何をそこまで焦る必要があったのか、フローレスには未だに判らない。
そんな怒涛のような男ではあったが、アダム・ランドールは、これと定めた女におかしな我慢や忍耐を強いるような人間ではなかった。彼はフローレスに誠実で、揚げ足を取ったり、隙あらば踏み潰そうと仕掛けて来ることは無く、それでフローレスも彼に小言や苦言を呈することも、反撃するべくひっそり足元を掬う機会を狙うことも無くて済んだ。心安らかだったらない。
とは言え、クリームをたらふく嘗めた猫のような目で自分を見つめる男には、なかなか慣れない。
今、フローレスはアダムとふたりきり、ランドール家のタウンハウスで茶を飲んでいる。
宜しくない態度である事は自覚しつつ、フローレスは向かいに座るアダムに向かって、高飛車な仕草で頤を上げた。更に脚でも組めれば完璧だったが、このクッションの効いたソファでやったら無様に引っくり返りそうで、スレートブルーの瞳で睥睨するに留めておく。
「アダムは私の言う事が気に障らないの?」
何故なら、ランドール家に後援を願い出てきた技術者に関する話、茶会や観劇などで耳にし繋ぎ合わせた情報をアダムの耳に入れた処なのである。
伯爵家の人々の前では殊勝がましく振舞う技術者だが、これまで周囲の若い女性に何をし、させてきたか、本人は秘匿したつもりでいるけれども、火の無い処に煙は立たないし、ご婦人方の目は鋭く、耳は聡い。
「いや何で。助かってるよ。そうかあいつ、何となく胡散臭い気はしてたんだが、腑に落ちた。父の耳にも入れておくよ。……何でそんな顔になるの」
「下世話でくだらないと思わない?」
「いやいや、研究資金を調達したいが為に、お針子嬢を騙して娼婦に堕とした話の何処がくだらないんだ。気の毒に。―――しかし彼女が何処の誰の贔屓筋なのかを見落とす辺り、詰めが甘いにも程がある。そんなザルに金を積めるわけが」
何やらむにゃむにゃ呟きながら立ち上がったアダムは、未だ胡乱気な表情のフローレスの隣に陣取ると、彼女をしっかと抱き込んだ。
「感謝してる、フローレス。君はいつでも、僕には探しきれないパズルのピースを何処からともなく拾って来る。心強いことこの上ない」
「アダムはいつも大袈裟なのよ」
そんな風には言うものの、こうやって彼がフローレスの心に寄り添ってくれるごとに、心の底にわだかまっている何かが解れていくのは間違いなくて、フローレスは素直にアダムの胸に寄り掛かった。
……こんな風に過ごしながらも、フローレスは、人の心が簡単に変わる事は忘れていない。
いつかはアダムもフローレスを蔑ろにしてくるかも知れない。彼から踏み付けにされる日は来ないだろうなんて、そんな期待は端からしていない。だからと言って、びくびくと彼の顔色を伺う気も全くなくて、フローレスは存分に彼に甘える事に決めていた。機会は機会、楽しめる時には楽しまなくては。
フローレスは、裏切られる日が来るのを恐れはしない。何故なら、いざと言う時、出せる爪も牙も引っ掛け技も、常に準備は怠りないので。
「―――何か変な事を考えてるだろう、フローレス」
そんな言葉と一緒に頭頂部に唇を落とされて、フローレスは首を竦めた。
「何にも」
フローレスは、扱われたように相手を扱う。
誠実な態度と優しさをくれる人には、同じように真心を。
差し出した気持ちを踏み躙り、役立たずと罵って来るなら、相応の報復を。
それだけの事である。
フローレスは伸びあがって、アダムの頬にキスを返した。
<了>
最後までお付き合い下さいまして、ありがとうございます。
健気なヒロインが逆境から立ち上がる話を考えていた筈なのに、何故か口の減らない鋼の虎が降臨。
次こそは、正統ドアマット物を目指します。