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告白(2000年7月22日)

 今年の暑さはよりいっそう強く感じられます。あれから四年経ってやっと、いつもの暑さを感じられるようになったからでしょうか。もう二度とあの白い病室で感じた寒い夏は来ないでしょう。

 最近あたしは、就職活動をしています。日ごろのおこないの悪さのせいか、ナカナカよいご縁がありません。ゴールデンウィークに少しうちに帰ったときは「お母さんの日」までには何とかしたいなって思っていました。でももう間に合いそうにありません。おとといの会社説明会の後、夕陽がとてもキレイで、涙が出そうになりました。内定がでないから、ばかりじゃなくて、その日が七月二十二日で、あることを思い出したからです。木から落ちてしまった梅の色をして、その光がうろこの雲を照らしました。きっとこれが夏模様って言うんだと思いました。



 親愛なる由里子様


 ようやく春の陽射しが肌に心地よい季節になりました。いかがお過ごしですか。その後、お身体の具合はいかがですか。

 あれからもう何日も経ちますが、私はあなたのことが心配で心配でなりません。もうあなたおひとりの身体ではないのですから。大事に、大事にしてください。私でお役に立てることがあれば、遠慮なくなんでもおっしゃってください。・・・もしかしたら、おひとりで無理をしているのではないですか。そんなことを考えるといてもたってもいられません。私は本当に心配しています・・・・・



「なあっ、お父さんなんかなにやってるかわからねえがあれ。」

「ゆりこってだれら。」

「そんねんしらね」

 なんだか名前が気に入らない。あーなるほど、あいつ、最近妙なこと言うなぁって思っていたけど、これのことか、とやっと原因が判明してよかった。ほら、おめえらの兄弟られ、なんて連れてくるかもしんねえとかなんとか、言ってたこうちゃんとふたりで真っ暗な部屋の中、灰色の窓を覗き込んでいた。昼間みたいか光を放ち、灰色の窓の『由里子様』はあたしたちの顔を肝だめしの時のように浮かび上がらせていた。

 五月のあたま、実家に帰ってきた日の夜、あたしにこうちゃんは『由里子様』を見せてくれた。こうちゃんが『由里子様』を発掘できたのは、偶然だった。共同で、という名目でうちにもノートパソコンがやってきた。弟のスムーズな就職活動のため、父の家計簿をつけるぞ、という変な意気込みから。こうちゃんは、いつものようにネットを使ってセミナーの申し込みでも、と気軽に立ち上げたデスクトップに見なれないアイコン。無意識にクリック。そして『由里子様』は発見させた。

 もうかれこれ二十三年父の娘をやってきたなかで、初めての存在だった。あたしの姫の座を脅かす存在。一等の、唯一の座をはてなにする存在。

「これ、ほんもの、らろっかね。」

「たぶんね。」

 父は隣の部屋で危険ないびきをかいている。弟はもう寝るといって電源を切って行ってしまった。部屋は急に夜になってしまった。静かな夜だなと帰ってくるたびに思う。でもいつもとちょっと違う。物を言わない『由里子様』の静けさがいっそう闇につるつる感を与えたから?


 お母さん、この時、発掘された『由里子様』を見たとき、隣にこうちゃんがいるのも忘れて秘密を思い出してぼうっとしていました。こうちゃんには、よっぽどショックを受けて茫然としているだろうあたしに、少しの罪悪感と、してやったり感があったかもしれません。そうではないのです。実はお父さんの秘密を見たのは、これでやっと二回目だったのです。ひみつって誰にも言えないくせに、だれかに言わないとひみつにならないのは、どうしてでしょうね。

 最初の秘密は、小学生の時会いました。あの頃、ひとりずつ部屋を持つまで、あたしとこうちゃんとでばあちゃんとお母さんのとこと、手分けして寝ていたのをおぼえていますか。一つしか違わないあたしは、姉の権力をふりかざし、お母さんのところで寝ることが多かったと思います。でも、その時は、あたしはばあちゃんの当番でした。クーラーがあったのはあの部屋だけだったでしょう。お風呂のあと、涼みに行って、お父さんの布団でごろごろしていたんです。たしかお母さんと一緒に入ったんだと思います。お母さんは鏡台に向かってぱたぱたしていました。あたしは、ごろごろしているうちに布団があたたかくなってきてので、冷たい「領地」を求めて枕の下に手をやりました。そしたら、手にぶつかる物がありました。

「これなあに。」ってきいて、どうお母さんが答えるか、それもまたきいてみたい気がしましたが、きいたらなんだかいけない気がしました。何の根拠もないけど、もしきいたら、わざとらしいって思われる気がしました。でもそれは今思いついたことかもしれません。ただ単純に怒られる気がしたからでしょうか。あたしは枕のしたから手を抜いて、黙ってそれをながめてからそっと元に戻しました。『由里子様』を見たとき、真っ先に思い出したのは、この秘密です。おやすみの前にいつも唱える呪文がばあちゃんの部屋にはありました。言わないといけないのです。


 ただたのめ たのむこころの みつくりの

 なかなかのりの まことなりけり


 こんな歌まで思い出してしまうほど、はっきりと思い出しました。

 東京に戻ってからもこのことは頭の中にずっとありました。なんだか父権を奪われた気分です。ひとりで暮らしはじめてからもううちにはかえれない、つまりはなんだかお嫁さんになった気分になっていました。守ってもらった固い殻を恩も忘れて破り、捨てるように上京してきたようなものです。そこには特別な解放感がありました。軽くなったのです。でもまだあたしは本当のお嫁さんになったわけではありません。お父さんの娘という権利を放棄したわけではありません。ただ少し重たかった殻を脱いでおいて来ただけです。それは本当のお嫁さんに行くときにだんなさんの所へもっていかなければならないものでしょう。だんなさんにわたすんでしょう。なんだかお父さんはそのことを忘れてしまったみたいです。なんだかお父さんは『由里子様』に父権を渡してしまったみたいなのです。あたしの権利は『由里子様』の手の中にあるのでしょうか。殻をかぶっているのでしょうか。

 七月二十二日の夕焼けに泣かされたのは、ただあの日も七月二十二日だったからです。付け加えるならお父さんの新しい秘密に出会ってしまった悔しさからなのです。お母さんはもう忘れてくれましたか。あたしは忘れようとしても、忘れられないので思いきってこれを秘密にすることにしました。

 もう予備校も休みに入っていました。予備校というより、病院とうちとの往復の毎日でした。あの頃のあたしはお母さんよりテンパってました。浪人することになったのも、うちのことをしなくてはならないことも、それで手が荒れることも、何もかもがあたしの気持ちをぶるぶる震わせガタガタでした。もう、見ていれば手に取るようにわかったでしょう。あの日は、あたしとお母さんだけでしたね。まだ陽が高い四時過ぎでした。病院の方が空調的にもよかったろうに、お父さんの意向でしょう、お母さんは一時退院していました。痛み止めでお母さんはあたしのことなんかとっくに壊していたんでしょう。意識していなかったでしょう。ぐったりとして、無表情で、あきらかにあたしをしかりつけていた昔のようすはなかったお母さんを見ても、お母さんの中であたしは壊れてしまっているという寂しさと怒りで、死んでしまうなんて、その時もまだあたしは全然考えていませんでした。

 西陽の届かない部屋の中、お母さんはベッドの上で何かしきりに言葉にならないうめき声で訴えていました。きっとどこか痛いのだろうと思ってあたしは身体の向きを変えてあげました。そしたらにおってくるんだもん。いやだなって思いました。おむつを取り替えるのがいやなのもそうだけど、取り替えてあげなければならないほどなのかって、そんな疑う気持ちがあったのです。あたしもこうしてもらったことがあって、いま逆転している立場を不思議にも感じました。おむつを敷くのに、左右に身体を倒すたび、痛そうな顔をしました。でも、あたしもつらかったんです。ひと汗かいてようやく取り替えたと思ったらすぐ汚してしまうんですもの。

 痛かったでしょう。本当にごめんなさい。あの時、お母さんのびっくりした顔がだんだんしかめっていくのを、ぼんやりとしか見ることができなかったのは、もうあたしがわんわん泣いていたからです。第二関節のしびれている右手の指を見たとき、もげてしまったかと思って、恐ろしくてまた涙が出ました。あたしがお母さんと均衡になるよう培ってきたバランスをこの右手で破壊してしまった恐ろしさも、ありました。そしてきっと、その時からはっきりと意識したと思います。それは、お母さんはいつ死んじゃうんだろうってことです。本当に、恐ろしいことに。

 車の音がしたときにはもうずいぶん落ちついて、一生懸命お母さんのおでこを冷やしていました。空が燃えるぞっていうお父さんがこうちゃんとあたしを引きつれてうちを出てしまったとき、その時もごめんなさい。三人だけで見て、置いていってごめんなさい。あの坂をのぼってそこから弥彦の山を見ました。でも、見ようにも夕陽が眩しくて見れませんでした。空は海でした。あたしに近い空ほど海でした。目がしぱしぱしてきて、指のしびれが上ってきたんだって思いました。夏の模様は本当にキレイで、お母さんにも見せてあげたいって心から思いました。でも、無理だなって冷たく思いました。お母さんは届かないところにいるような気がしました。

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