霞ヶ関のお役人、自立を宣言する
「お兄様、私、チャンドラー夫人のところには行かないことにします」
食堂でパンにバターを塗りながら、私は何でもないことのようにそう言った。紅茶を飲んでいた兄は、びっくりした顔で私を見ている。
「お前、うちは破産していて、再婚の申し込みもまだないのに、どうやって生活する気だ?」
「ガヴァネスになろうかと」
私の言葉に、そばに控えていたマライアが立ち上がった。
「そんなお嬢様!お嬢様ほど若く美しい女性が、そんなオールドミスのような真似を!」
マライアは真っ青になっている。この世界では、ガヴァネスはやはり結婚できなかったオールドミスの成れの果て、という様子である。ただし、時代設定的に女性の勉強は女性が見ているだろうし、そういう意味ではガヴァネスは意味のある仕事なのだけど……とマライアを上目遣いに見ると、彼女はほとんど泣いていた。そんなに私が結婚しないのが嫌か。
「そうだ。それに、チャンドラー夫人のところに行けば、お前は今までよりも裕福に暮らせるというのに!」
兄もマライアに追従するように声を高くする。歴史を紐解いても、娼館で娼婦がまともに暮らしていた例などない。高級娼婦は豊かで好きに客をとっていた、などという言説もあるが、そんなものはまやかしだ。どの時代、どの国でも娼婦は搾取されて終わりだ。自由意志もなければ、幸福な生活もない。兄はチャンドラー夫人にいいように言われているのだろう。
「前の結婚の結果からしても、待っていても再婚の申し込みはおそらく来ないでしょうし、そもそも持参金もないので結婚も難しいのでは?私は私にできることをして、ささやかに暮らしとうございます」
パンは、硬くて酸味があった。ヨーロッパっぽい味、と就職後久しく海外旅行に行っていない私は、嬉しくなってぱくぱくパンを食べた。兄は青ざめている。こいつ、チャンドラー夫人から手付金もらったんじゃないか?
「……そもそも、家庭教師先などあるのか?」
「王都のロバート様を頼ろうと」
「まあ、レッドヴィルの本家のロバート様ですわね?」
ロバートの名前を出したところ、兄は苦虫を噛み潰したような顔になり、反対にマライアは顔を輝かせた。ロバート氏は、よほど影響力のある人物らしい。
「そういうわけで、しばらく王都に滞在しますので。お兄様、チャンドラー夫人にはお断りの連絡を」
私はパンとソーセージと卵の朝食を食べ終えると、席を立った。今日はロバート氏に面会のお願いの手紙を書かないといけない。後ろからついてきたマライアは、 「王都でならお嬢様の結婚は噂にもなっていませんし、再婚の申し込みがあるかもしれませんね。ロバート様には結婚のことも相談しましょうよ」
と嬉しそうにしている。私は曖昧に笑った。