霞ヶ関のお役人、悪役の過去を知る。
「失礼します。お嬢様、お着替えを手伝いに参りました」
ノックと同時に、マライアが部屋に入ってきた。ノックが意味をなさないところが、実家の母を思い起こさせる。それから、お母さん、一人で大丈夫かな、と急に心細い気持ちになった。母は父と離婚して、一人で暮らしている。
「ありがとう。ねえマライア、この本のことなんだけど…」
エヴァの蔵書の政治学の本の記載が、現在の情勢とどれほどずれているかを確かめたく、マライアに声をかけたが、彼女はうるさそうに首を振った。
「本なんてあたしみたいな使用人には読めませんよ。お兄様に聞いてくださいまし」
「マライアのご家族は文字が読めるのだっけ」
「うちの旦那ですか?まあ多少は読めますよ。私と違って親から習っていますしね」
そうか、この時代の労働者階級の女は文字が読めないのか。そう思うと、エヴァは教養があるどころの騒ぎではない。家自体は中流層風だが、親は彼女にしっかりと教育を施したらしい。それに、本人の知能も高かったのだろう。ゲームの中ではエヴァは権力に固執し放蕩の限りを尽くす悪女だが、まあ頭が働かなければ王を操ることもできまい。
「お嬢様みたいに、ガヴァネス(家庭教師)がついている女なんて、本当に少ないんですから。亡くなったご主人様は、エヴァ様を玉の輿に乗せたくてたっぷり教育したってのに、ウォルター様は亡くなって、ジョン坊ちゃんはあろうことがお嬢様を娼館に売ろうとするなんて!」
マライアは私のドレスを脱がせながら、ブツブツと文句を言っている。ウォルターというのは、エヴァの亡くなった夫だ。エヴァの認識の中で、未亡人のエヴァはウォルターの家から離縁されて、実家に戻されている。しかしながら、美人で教養もたっぷりあるエヴァが、なぜ実家に返されているのか?そして、困窮しているとはいえ、これだけの美人に再婚の申し込みがなく、娼館送りにされそうになっているのはなぜか?
「さあお嬢様、お髪も解いて下さいね」
「マライア、それくらいは自分でするわ」
本当はもう少しマライアに話を聞いて現状確認をしたい気持ちもあったが、それよりもウォルターとの結婚生活について調べたくなったため、私はマライアをやんわり押し留めた。マライアはそうですか?とだけ言い、ではおやすみなさい、とあっさり部屋から出ていった。
「婚姻契約書とか、何かないのかな」
文机を漁っていると、日記が出てきた。エヴァの日記に違いない。今までの経緯がこれでわかる、と私は小躍りしたい気持ちになった。
『2月10日
ウォルター様が結婚の申込みに来てくださった!本当に嬉しい!私がウォルター・レッドヴィル夫人になるなんて!パーティでウォルター様を拝見した瞬間から、この方の奥様になることに憧れていた。夢が叶った!』
『3月20日
素晴らしい結婚式だった!お天気にも恵まれて、ウォルター様の領地にある教会の中で宣誓をし、ネザーフィールドで皆にお祝いをしてもらった。ネザーフィールドは、ウォルター様に招待してもらった時から大好きな場所だ。私がそこの女主人になるなんて!ウォルター様のためにも立派にお勤めを果たしたい』
『4月12日
ウォルター様と湖畔に遊びに行った。ウォルター様は私のために詩を暗唱して下さった。ウォルター様は男らしくて聡明で、その上ロマンチックなところもある。こんな素敵な人の妻になれて、私は幸せ者だ』
なるほど、エヴァはかつてウォルターという名の裕福な男の夫人だったらしい。日記から推察するに、エヴァとウォルターはパーティで知り合い結婚したようだ。「高慢と偏見」みたいな話だ。エヴァは随分このウォルターに入れ込んでようで、おそらく初恋の相手だったのだろう。これが何年前の話かは知らないが、今は季節で言えば秋、11月頃に思える。これがもし今年の春の話なら?私は日記を読み進めた。
『6月8日
ウォルター様にお元気がない。ぼんやりされていることが増えて、話しかけても上の空だ。街に遊びに行きたいとねだったが、出かけるのが億劫と断られてしまった。ウォルター様の好きなお芝居が上演されているのに、見ないでいいと言われた。体調が良くないのかもしれない』
『6月21日
お医者様にいらしてもらう。ウォルター様は特にご病気というわけではないようだ。ただ、臓器が弱っているので、滋養のつくものを作るように言われた。メイド達とスープを作る』
『7月5日
ウォルター様を心配して、王都からロバート様がいらっしゃった。二人は従兄弟で親友同士なので、ウォルター様の気が晴れるといい。二人は遠乗りに行ってしまった。ウォルター様が外に出たがるのは珍しい』
『7月6日
ウォルター様の遺体が湖畔で見つかった。昨日、遠乗りの休憩のために湖畔に行ったところ、気づいたらウォルター様は湖に入っていたとロバート様はおっしゃった。なぜウォルター様は私を残して湖に身を投げてしまったのか?私には分からない』
私はインクがところどころ滲んだその日記を指でなぞった。ウォルターはおそらく、新婚早々に何らかの理由で鬱状態となり、エヴァを残して自殺している様子だった。二人の結婚生活はわずか4ヶ月。エヴァ、結構不幸な人生だったんだな、と私はこの美しい娘に同情していた。「暁のアテーネー」ではエヴァはまごうことなき悪役だが、彼女が悪の道に身を落としたのにも、理由があるらしかった。可哀想に、という気持ちと、でもこれは実体験で知るよりゲームプレイヤーとしてみる側が良かった……と私はため息をついた。
『8月27日
お葬式やその他のために逗留してくださっていたロバート様を見送った。ロバート様は最後まで私がブノワの家に帰すのを反対してくださった。王都に来たら必ず訪ねてほしい、なんでも力になるというお言葉が、どれだけ頼もしかったか。ただ、奥様も旦那様も私を許していないので、私はネザーフィールドを離れざるを得ない。とても辛い。せめて、ウォルター様の思い出の中で暮らしたかった』