霞ヶ関のお役人、異世界転生する。
「……ヴァ様」
「……ん?」
「エヴァ様!よかった!お目覚めになったんですね!」
目を開けると、栗色の目と色白の丸顔をもつ中年女性のドアップだった。素顔のようで、顔のそこここにそばかすが浮いている。白いコットンの頭巾を被っているので、メイドか何かだろう。
私は重たい頭に手を当てながら、何とかソファから身を起こした。体にかけられていた、見たことのない、重たげなウールのブランケットがずりおちる。ソファに広がる深緑色のスカートも、初めて見る服だった。そして、そこに添えられている、アジア人では到底あり得ない、ピンクかかった白い手。
「ええ……もう大丈夫」
自分で答えているはずなのに、響く声も小鳥のようにやけに高くて細い、と感じた。
「無理もありません……エヴァ様、なんとおいたわしい」
いつの間にか戻ってきたメイドが、私の膝に再びひざ掛けをかけて涙声を出した。わたしはそっと視線をはずし、胸にこぼれる黒髪を弄う。というか、私の髪は黒髪は黒髪でもショートヘアで……いやでも、この髪は洗うのに大層手間がかかり、浴室でマライアはいつもぶうぶう言うのだ。いくら綺麗なお髪でも、お一人で管理もできないんじゃあエヴァ様、ダメですよ、と。繰り返される小言も、確かに覚えている。そう、それにマライア。わたしが子供の頃から家にいて、ずっと面倒を見てくれている、亡くなって久しい母親よりも、ずっと頼りになる使用人だ。
「エヴァ、お前には本当に申し訳ないと思っている。僕が事業を成功させていれば、今頃持参金をたんまり持たせて、一度目の時よりももっといい家に嫁がせてやれたのに」
「一度目?」
「ジョン様、エヴァ様はまだ旦那様のことを忘れてはおりません。お言葉にお気をつけ下さい」
マライアが声を低めて、兄のことをたしなめる。そうだ、ジョンお兄様は何事につけてもこの調子で、夢見がちで短絡的だ。あの事業だって、いかにも悪そうなどこぞの外国帰りの貴族が持ちかけたもので、怪しいのなんて分かりきっていたのに。それでも愚かなお兄様は出資をし、そしてついに我が家は破産したのだった。ああそうだ、それで私は卒倒したのだ。
「エヴァ、それでな、王都にあるチャンドラー夫人が、お前さえ良ければ働きに出ないかと声をかけてきている」
「チャンドラー夫人ですって?ジョン様、正気ですか?チャンドラー夫人といえば、娼館を経営している方じゃありませんか」
「……お兄様、わたくしに娼婦になれとおっしゃるの?」
私は怒りに身を震わせた。これは私自身の怒りであり、エヴァの怒りでもある。だんだんと意識がはっきりしてきた。私は確かに、霞ヶ関で働く役人の女だ。そしてそれと同時に「暁のアテーネー」の登場人物の悪役、エヴァ・ブノワでもある。
「わたくしは部屋に戻らさせていただきます。お兄様、ひどいわ」
私は声を荒げながら立ち上がった。居間を足早に後にし、階段を駆け上がる。見たところ、ヴィクトリアン様式風の邸宅である。エヴァ・ブノワについては今日から配信される新章の中で出自が公開される予定だったが、この感じからすると中流家庭の娘のようである。家族は家長の兄、父母はすでに死亡、家事を取り仕切っているのは主にマライア。このあたりはエヴァの記憶が補ってくれた。これが異世界転生……と私はエヴァの部屋に入る。六畳間くらいの小さな部屋は綺麗に整えられており、鏡台が置いてあった。映る顔は、私の知る「暁のアテーネー」の立ち絵のエヴァの面影のある、20歳くらいの若い女だった。なるほど、エヴァは三次元になるとこういう顔なのね、と私は凹凸のはっきりした、イギリス美人女優風の顔をペタペタ触る。
鏡台に背を向けるようにして、本棚と文机が設てあった。本棚から何冊か本を抜いてみる。歴史、文学、哲学、驚くことに科学の本まであった。「暁のアテーネー」の舞台に設定された時代を鑑みると、エヴァは教養のある女性らしい。まあ、腐っても公娼だもんな、と「暁のアテーネー」のエヴァの設定を思い出していた。