第2話 記憶喪失の女
自分の趣味に合わせた大邸宅を建てられる。その事実からもわかるように、シャルフェンは大金持ちだった。先祖から受け継いだ資産だけで、働かなくても食べていける状態だった。
家族も恋人もおらず、人付き合いも苦手な彼は、本を読んだり音楽を聴いたりして、いつも一人でのんびり過ごしている。シャルフェン自身は幸せそうだが、このままでは、アンツェル家は彼の代で途絶えてしまうだろう。
主人に対して意見するつもりはないけれど、時々ヴァルターは不安になるのだった。
そもそもシャルフェンは、資産家なだけでなく、容姿も優れている。同性であるヴァルターから見ても、惚れ惚れするくらいだった。シャルフェン自身は嫌がるだろうが、もしもどこかの婚活サイトに登録したら、女性が殺到するに違いない。
唯一問題になるのは、シャルフェンの懐古主義だろう。シャルフェン城のような環境――インターネットすら繋がらない場所――に、いったい誰が嫁いできてくれるというのか。住み込みの使用人ですら、新しく雇うのは難しいというのに……。
そんなシャルフェンの屋敷に、一人の若い女性が転がり込んできた。今から一ヶ月ほど前の出来事だ。
「シャルフェン様、大変です!」
ちょうどその日は、毎月一度の庭師が来る日だった。屋敷を訪れた彼は、いつものように庭で作業を始める前に、建物の中へ駆け込んできたのだ。
「屋敷の外で、若い御婦人が一人、倒れております!」
慌ててヴァルターが様子を見に行くと、地面に伏せていたのは、青いドレスを纏った女性。
ちょうどシャルフェンと同じくらいの年齢であり、ルックスも同レベルだった。もしもシャルフェンを女性にしたらこんな感じだろう、というくらいに、絶世の美女だったのだ。
ヴァルターが気付け薬を嗅がせると、女性は意識を取り戻した。
「ここは……?」
「アンツェル家の屋敷の前です。それで、あなたは……? 当家へのお客様でしょうか?」
「私は……」
虚ろな目をした女性は、頑張って答えようとしたのだが……。
何も答えられなかった。
彼女は記憶喪失だったのだ。
麓の街まで出向いて、かかりつけの医者に来てもらった。
懐古主義のシャルフェンが嫌うような最新鋭の診察機器――小型だが大抵のことはわかる――を使ったが、特に体に異常はないという。ただ、記憶だけが抜け落ちているのだった。
「原因はわかりません。頭の中の話ですからねえ」
医学が進歩しても、そこだけは理解不能。そんな表情で、医者は帰っていった。
残された女性に対して、シャルフェンは優しく接する。人付き合いが苦手な彼にしては珍しく、穏やかな笑顔を浮かべて。
「自分の名前すら思い出せないのであれば、とても心細いでしょう。行くところもないでしょうし、しばらくは僕の屋敷に滞在してください」
空いている部屋の一つを彼女に与えたのだが、
「どうぞ、ここを使ってください」
「まあ! こんな素敵な部屋……。ありがとうございます!」
そこは、窓からの眺めが良い部屋だった。空き部屋を掃除する使用人が、庭の花壇を見てうっとりして、つい手が止まってしまう。そんな逸話もあるような場所だ。
この時のシャルフェンも、庭の花々に目を向けていた。ちょうど庭師が、青い薔薇の手入れをしている。
「知っていますか? はるか昔、青い薔薇は存在しなかったそうです。科学技術の進歩により、人為的に作られたそうです」
シャルフェンが『科学技術の進歩』を好意的に評価するのは珍しい。だが『はるか昔』であれば、青い薔薇が作られたのは、まだ彼の懐古主義に含まれる時代だろうか。
主人の言葉を耳にして、ヴァルターは、そんなことを考えてしまう。
「あの薔薇の名前は、マリーアントワネット。ちょうど、あなたが着ている服も青色ですね。あの薔薇から取って、マリーとお呼びしても構わないでしょうか?」
こうして、名前もわからぬ女性は、シャルフェンによって『マリー』という新しい名前を与えられたのだった。




