未来の約束
金属とフローリングのぶつかる派手な音が、明日美の意識を現実に引き戻した。
ひとしきり遊んでいた携帯ゲーム機を置き、ソファから身を起こす。視線をキッチンに向ければ、同居人がステンレスのボウルを拾い上げ、流しで洗おうとしているところだった。
それなりに料理に慣れている同居人だが、今日挑戦するのは初めてのメニュー。傍らに広げた料理本を頻繁に確認しながらの作業は、決して『手際が良い』と言えるものではない――内心の慌てぶりを示すかのように、彼は先程から調理器具を落としたり、「忘れてた」などとつぶやきながら冷蔵庫を何度も開いたりと、小さなミスを繰り返していた。
「ねえ……私も、手伝おうか?」
見ていられなくなって、そんな言葉が口をついて出る。
自分だって、『料理上手』と呼べるような腕前ではない。だがそれでも、彼一人で作るより、作業効率は良くなるはずだ。
「それは駄目」
けれど、明日美の言葉に彼は振り返り、真剣な表情で大きくかぶりを振った。
「今日は俺が全部やる日。明日美はゆっくりしてて」
いつものように穏やかな口調なのに、そこに秘められた意志は強い――これ以上何を言っても無駄だろうと、明日美は彼に悟られぬよう、小さなため息をこぼした。
「分かった……でも、手が足りなかったらいつでも呼んでね。手伝うから」
「うん、ありがとう」
「それと……休憩はちゃんと取ってね」
「……分かってる」
明日美の言葉に、彼は柔らかに破顔しながら小さくうなずいて見せる。
退院してから二ヶ月以上経つのに、その頬は相変わらず少し痩けたまま。けれど、今日はずいぶん顔色が良いようだ――その事に、明日美は少しだけ安堵した。
***
明日美の同居人――咲斗は、先天性の病を患っている。現在の医学では根本的な治療方法はなく、投薬で症状を緩和しながら、一生付き合って行くしかない病気だ。
そのため彼は、日常生活において様々な弊害を抱えている。
毎日の通勤に耐えられる身体ではないから、仕事は在宅でできるものに限られていて、体調に波があるせいでそれも思うように進められない。体調不良が長引けば、入院が必要になる事だってある。
本人は『一年の半分以上入院してた子供の頃に比べれば、かなり健康になった』なんて笑っているけれど――それでも、一般的な成人男性に比べれば、はるかに虚弱であると言わざるを得ない状態だった。
そんな彼が、朝から台所に立ち、初めてのメニューに挑戦している。
その理由は単純――今日が、明日美の誕生日だからだ。
***
それから、再びソファに寝転がってゲームの続きをしたり、DVDを見たり、スマートフォンでSNSをチェックしたり――そんなことをしているうちに睡魔に襲われ、いつの間にか眠りに落ちていたらしい。
明日美が瞼を開いた時、窓から差し込む光はほのかに赤みを帯びていた。
眠っていた時間はそう長くないようだが、頭の奥が妙に重い。ゆっくりと起き上がると、胸元に置きっぱなしにしていたスマートフォンが、ソファの上に滑り落ちた。
久しぶりに、だらけきった休日を過ごしてしまった――そんな事を考えながら、明日美が大きな伸びをした時。
がちゃり、と玄関の扉が開閉される音が、静まり返った室内に響き渡った。
「……咲斗?」
寝起きで茫洋としていた頭が、一瞬でクリアになる。はっと見開いた双眸をキッチンの先にある玄関に向けると、そこに立つ咲斗の姿が目に飛び込んで来た。
彼は外出用の薄手のパーカーを羽織り、マスクをつけていて――これから出掛けるのかと思った明日美だったが、すぐにそれが誤りだと気付く。
咲斗は右手に、四角い箱の入ったビニール袋を提げていた。
「ただいま」
「…………何で?」
マスクを外しながら、柔和に目を細め挨拶する彼を前にして、明日美の口から思わず棘のある声が漏れた。ソファから立ち上がり、大股でキッチンへ――袋をダイニングテーブルの上に置いてから、洗面所で手洗いうがいを済ませて戻って来た咲斗に、咎めるような声を投げつけてしまう。
「出掛けるのはできるだけやめようって……どうしても出掛けなきゃいけない時は私が行くって、約束してたよね?」
――冬の終わりから流行し始めた、非常に感染力の強い新型ウィルス。それは咲斗にとって、人一倍恐ろしいものだ。
万が一感染して重症化すれば、命を失う可能性は常人より高い。病院がその患者でパンク寸前になっている今、他の病気にかかったり怪我をして、医者に頼らざるを得ない状況に陥るのも避けたい。
だから咲斗も、そして明日美も、外出自粛に努めてきた。
日用品や食料の買い出しは、以前から利用していた宅配サービスに全て頼るようになったし、あらゆる手続きをネットで行うようにした。明日美の会社はいち早くリモートワークを導入したから、しばらく会社にも行っていない。
どうしても外出しなければならない用がある時は、全て明日美が担当するようにしていた。それくらい、彼の外出する回数を減らすようにしていたのに――それなのに。
「言ってくれれば、私が出掛けたのに……どうして?」
平時以上に外出にリスクがつきまとう事は、咲斗自身が一番理解しているはず。なのにどうして、何の相談もなく家を出たのか。
心配や、苛立ちや、疑問。色々な感情が胸の奥でぐるぐると渦巻いて、うまく言葉が出て来ない。自分でも駄目だと分かっているのに、責めるような口調になってしまうのを止められなかった。
「……ごめん」
咲斗は少しばつの悪そうな顔で明日美を見つめながら、ぽつりと謝罪の言葉を紡ぎ出す。
「でも……これだけはどうしても、自分で買いに行きたかったから」
「それって……」
「バースデーケーキ。ここのお店のケーキ、前に美味しいって言ってたよね?」
咲斗がビニール袋から白い箱を取り出して、ことさら繊細な手付きで明日美の前に掲げて見せた。その箱の表面に刻まれたロゴには、見覚えがある――半年くらい前、駅前にオープンした洋菓子店のものだ。
外出自粛が叫ばれるようになる少し前、その店でケーキを買って二人で食べた。その時明日美が「スポンジがふわふわで美味しい」と絶賛していた事を、彼は覚えていてくれたのだ。
「気持ちは、ありがたい……けど」
そんな些細な出来事を覚えていてくれた事も、わざわざケーキを買いに行ってくれた事も、嬉しいと思う――明日美は自分の口元が自然と緩むのを感じながら、顔をうつむけた。
嬉しくて、幸せで、瞳にじんわりと涙が滲む。けれど、それでも――歓喜より不安の方が勝って、言わずにはいられなかった。
「でも、ケーキまで今日じゃなくても……色々、自粛するのが終わって、普通に出掛けられるようになってからでも良かったのに」
明日美には、『記念日は当日に祝わなければいけない』というこだわりがない。幼い頃から両親が共働きで忙しく、誕生日などは土日にずらして祝われる事が多かったからだ。
対して咲斗は、『記念日は必ず当日に祝いたい』という意識が強いタイプらしく――互いの感覚の違いに戸惑いはありつつも、別に問題はないからと、明日美は彼に合わせていた。
しかし今は、少しの外出ですら困難がつきまとうご時世だ。さすがの咲斗も、バースデーケーキだけは諦めて後日にするだろうと思っていたのに――よもや自分に黙って出掛けるとは、明日美も予想していなかった。
そこまでしてケーキを買いに行ってくれた彼の厚意。それを台無しにするような事しか言えない自分が情けなくて、顔が上げられない。自らのつま先に視線を落としたまま、明日美はしばし黙り込む。
咲斗もまた、何も言葉を発しない。彼の静かな足音と、冷蔵庫にケーキを納める物音が、気まずい沈黙を満たして行く――
「……今日じゃなきゃ、駄目なんだ」
やがて、咲斗の足音が明日美の前で止まった。黒い靴下を履いた彼のつま先が、うつむいたままの視界の端に映り込む。
「『不要不急の外出は控えて』なんて言われてるけど。俺にとっては不要でも、不急でもない。どうしても今日、ケーキを食べてお祝いしたいから」
男性としては小柄で痩せているが、それでも彼は明日美より十センチ少々背が高い。頭上から降って来た穏やかな声が、いやに切なく胸に響いて、明日美はおずおずと顔を上げた。
こちらを見下ろす彼と視線が交錯する。
その顔には、いつものように静かな――けれど、ひどく寂しげに見える微笑が浮かんでいた。
***
「少し疲れた」と言う咲斗を促して、明日美はリビングのソファに彼と並んで腰を下ろした。背もたれに体重を預けた咲斗が、ふう、と大きく重い息をつく。
それも仕方のない事だ――何時間もキッチンに立っていた挙げ句、往復で三十分も掛からない距離とはいえ外出までした。普通の人がごく当たり前にやっている事でも、彼にとっては大変な重労働なのだ。
――そうしてしばし、身体を休めてから。
咲斗は正面にぼんやりと視線を向けたまま、静かに口を開いた。
「……母親が、俺が子供の頃に死んだって話は、前にしたと思うけど」
訥々(とつとつ)と発せられる声に、明日美はうつむいたまま、小さくうなずいて応える。
咲斗の母が彼と同じ病を患っていた事や、その症状が彼よりずっと重篤だった事、そして咲斗が小学生の時に亡くなった事。それらは、彼と付き合い始めてすぐの頃に聞かされた話だ。
「母が死ぬ少し前に、俺の誕生日があって」
「……うん」
「その時期は俺も母も、わりと体調が良くて家にいたから……母さんが俺の好きなもの、たくさん作ってくれて。ケーキも買って来てくれて、家族で食べてお祝いして……」
「……うん」
「でも次の日、母さんは体調崩して入院して……頑張ったんだけど、そのまま」
「…………うん」
彼の母が若くして亡くなった事は知っていたけれど、その詳細を聞かされたのは初めてだ――掛ける言葉が見つからなくて、明日美はただ繰り返し首肯し続ける。
耳に届く彼の声は淡々としていて、感情の起伏に乏しい。なのに、奇妙に物悲しく聞こえるその声は、明日美の胸をひどく締め付けた。
「病院には何度かお見舞いに行ったんだけど……いつ会いに行っても母さん、『入院する前に誕生日をお祝いできて良かった』なんてにこにこ笑ってて」
抑揚の薄い声でそう続けながら、咲斗が明日美の手をそっと取った。
冬の入院中はいつも冷たかったその手は今、ほんのりと温かい。そんな些細な事が、明日美の心にほのかな安堵をもたらした。
「母親が死んでから、もう十五年くらい経つけど……あの時の事は、今もはっきり覚えてて」
「……うん」
「誕生日のごちそうが美味しかった事も、大きなケーキが嬉しかった事も……最後の入院の時に、母がいつも笑ってた事も」
そこで一旦言葉を切ると、咲斗が明日美の手を握る自らの掌に、ぎゅう、と力を込めた。
少し痛みを感じるほどの、病弱な彼のものとは思えない力強さに明日美は驚く。けれど何も言わずに、痩せたその手を握り返した。
彼のその仕草は、まるで明日美の手に縋り付いているようにも見えて――振りほどく事など、できるはずもなかった。
「……明日美は」
それから数秒の沈黙の後、咲斗はまた唇を開く。吐き出された声は、少し苦しげで悔しげな響きを伴って、明日美の耳に届いた。
「俺が体調悪くて出掛ける約束が駄目になっても、『また今度で大丈夫だよ』って、笑って許してくれるけど」
彼の体調が良いかどうかは、その日の朝目覚めてみるまで分からない。だからデートの約束が当日朝にキャンセルになった事は、これまでに何度もあった。
けれど、明日美がそれで彼を責めた事は一度もない――咲斗の病気の事は承知の上で、それでも彼と共に生きる道を選んだのは、他ならぬ明日美自身だから。
「それはすごくありがたいけど。でも俺には、その『また今度』がちゃんと来るなんて保証、どこにもなくて……今日は調子が良くても、明日は急に体調崩して、そのまま死んでしまう可能性もゼロじゃないから」
「そんな事、言わないで」
彼の口にした『死』という言葉。それがナイフのように、鋭く胸に突き刺さる感覚に襲われながら、明日美はぱっと顔を上げ、傍らの咲斗の顔を見上げた。
「『死ぬ』とかそんな事、簡単に言わないで……お願い」
無意識に口調が、懇願するようなものになる。明日美のそんな反応に咲斗はほんの少しだけ目を見開き、驚いたような表情を形作った。
けれどすぐに、その顔には穏やかな微笑が戻って来る――怒りも悲しみも恐怖も全て、どこかに置いて来てしまったような、静寂に満ちた表情。それを目の当たりにした明日美の胸が、再びぎゅうっと締め付けられて、上手に息ができなくなった。
「ごめん」
明日美の顔を見返しながら、咲斗は再び謝罪を口にして――それから言葉を続ける。
「俺だって、死にたいわけじゃないけど……それでも、いつ死ぬか分からないっていうのは、俺にとって当たり前の事だから」
――それは、ただ事実だけを並べる、淡々とした声だった。
咲斗はいつも、死と隣り合わせの場所で生きている。楽しい時間を過ごしていても、体調が良くても、彼の頭の中から『死』の一文字が消える事はない――それは明日美も、今まで幾度となく実感した事。けれど、そうと分かっていても改めて突きつけられると、胸の内から複雑な感情が込み上げた。
涙が出そうになるのを、懸命にこらえる。目の奥がじんじんと疼き、鼻の奥がつんと痛んだ。
悲しみや切なさ、そばにいるのに何もできない自分への情けなさに苛まれて、明日美はきっとひどい顔をしている。けれど、そんな明日美とは対照的に、咲斗は自らの顔に浮かぶ笑みを深くした――愛おしげに双眸を細めて、幸福そうに、満足げに笑いながら、持ち上げた片手で明日美の髪をくしゃりと撫でる。
「だから明日美の誕生日は、どうしても今日、祝いたいんだ」
発せられた声は静かだったけれど、強い決意と深い喜びに満ちていた。
「明日美の好きなものをたくさん作って、ケーキを食べて、おめでとうってお祝いして……もしも明日死ぬ事になっても、後悔しないように。母さんみたいに、笑って逝けるように……今日、お祝いしたかったんだ」
「……さ、き………」
――彼の名前を呼ぼうとした声は、上手く形にならなかった。こらえきれなくなった涙がぽた、ぽた、と二人の繋いだ手の上にこぼれ落ちる。
彼が記念日にこだわりを示すその裏には、明日美の知らなかった理由と、強い決意と、そして深い愛情があった。それが切なくて、哀しくて――けれど、とても嬉しくて。心の奥からあふれたたくさんの感情が涙となって流れ落ちるのを、明日美は止められなかった。
「ごめん、ね………私、ひどい事、言って………」
それでも、知らなかったとはいえ彼を傷付けてしまったのは事実だから――止まらない涙の隙間に、明日美は切れ切れに言葉を紡ぎ出す。
「泣かないで、明日美」
途端に咲斗が困ったように眉を下げ、幾度めかの「ごめん」を口にした。
「今日は明日美に笑って欲しくて、頑張ったんだから」
そう言って彼は、大きな両手で明日美の頬を包み込み、流れる涙をその細い指で拭い取る。
「まだ仕上げが残ってるけど、ご飯も上手くできたと思うし。ケーキも、せっかくの誕生日だからホールケーキにした。だから……ね」
笑って――そう繰り返した咲斗が、明日美の身体をそっと抱き寄せた。
男性の中では小柄とはいえ、彼の身体はやはり明日美よりも大きい。抱き込まれた広い胸から伝わって来るのは、規則的な鼓動と穏やかな体温――彼が今ここで生きているのだと、伝えてくれるもの達。
それが言いようもなく嬉しくて、明日美は咲斗の痩せた背中に自らの両腕を回す。
「………ありがとう」
そして、口元に小さな笑みを浮かべながら、感謝の言葉を口にしたのだった。
***
少し休憩してから咲斗は再びキッチンへ戻り、バースデーディナーを完成させた。
ルーを使わず、赤ワインとトマト缶から作ったビーフシチューと、モッツァレラチーズとトマトのサラダ、エビピラフ――どれも明日美の大好物だ。「すっごく美味しい」と明日美が笑うと、彼もまた「上手くできて良かった」と安堵と歓喜がないまぜになったような微笑を見せる。
そして、夕食が終わったらケーキの時間――彼が買って来てくれたのは、白いクリームと真っ赤な苺で飾られたホールケーキ。久しぶりに口にしたその店のケーキは、ほどよい甘さのクリームとふわふわのスポンジが、やはりとても美味しかった。
「ねえ、咲斗」
彼が淹れてくれた紅茶とケーキを楽しみながら、明日美はふと彼の名を呼んだ。
「もうちょっと先になるかもしれないけど、安心して出掛けられるようになったら……一緒に温泉にでも行かない?」
そして、急に呼ばれてきょとんとする咲斗の瞳をじっと見返しながら続けたのは、そんな提案。
「ちょっといい旅館に泊まって、体調が良かったら観光に行って……調子が悪くて出掛けられなくても、お風呂に入ったりして、二人で旅館でゆっくりするのも楽しいし」
『「今度」が来る保証がない』――それは先程、彼が口にした言葉。
生きる事そのものを諦めているわけではないけれど、常に『死』がつきまとう彼は、いつも心の片隅に諦観の念を宿らせて、どこか刹那的に日々を過ごしている。もしも今日死んでしまっても、悔いが残らないように――行動の端々に、そんな考えが透けて見えるのだ。
そんなふうに生きている彼に、『未来に希望を持て』と言うのは、酷な事かもしれない。しかしそれでも、ささやかでも希望を持つ事が、彼に明日を生きる活力を与えてくれると信じて――明日美はあえて、未来の約束を口にした。
そんな明日美の想いを、察しているのかいないのかは分からないけれど。
咲斗はしばし、不思議そうに目を丸くしながら、明日美の顔を見返して――
「……うん、いいね。楽しみ」
やがて、とても楽しそうにつぶやくと、ふわりと相好を崩したのだった。
読んでいただきありがとうございました。