崩落
イヴのほうが次期領主の座にふさわしい事は分かっていた。
誰もが見惚れるような美しい容貌を持ちながら能力も全てがハイスペック。几帳面でしっかりしており頭の回りも良い。武術においてもその能力は飛び抜けている。
杜撰でだらしなく、通っていた貴族学校でもあらゆる面で一位をとって完全な勝利を収めたことのない中途半端な己よりとてもふさわしい。
だが、それでも易々と次期領主の座を渡すわけにもいかなかった。
今回の試合もガレスが「せめて一矢報いてやろう」と彼が最も得意とする剣術で勝負を挑み、領主を決める戦いへと話を伸ばしたのだ。
その結果は惨敗というガレスにとって酷い結果となってしまったが。
「あまり多くの荷物は持っていけないか、必要最低限のものだけまとめよう」
ガレスは今、家を出るための荷造りをしている。
家出でもするつもりか、試合に負けて自暴自棄になったのか? いや決してそういうわけではない。
彼には家を出て行く以外選択肢がないからだ。そしてそれを彼自身それを前々から了承し決意している。
順を追って説明しよう。
試合にガレスは敗れ領主はイヴに決まった。長男でありながらも領主を任せられないというのは大変恥である。男が女に、ましてや年下に負けてしまうなど。当時の貴族社会ではあり得ないこととされていた。
領主の道が絶たれたガレスに残された選択肢は二つ。どこかの家に婿入りをするか、家を出て行くかである。前者の選択肢は有り得ない。妹に負けてしまうような情けない男を、事情を知らずとも何かあったと思われる訳ありの男を果たして誰が貰ってくれるやら。
貴族間の結婚に愛はない。政治関連で他家との関わりを持つための政略結婚が常だ。領主になれなかった以上、有力な家との婚姻を結ぶ事が家や親のためにできる唯一の奉公。
そしてその選択肢ももはや消された。
ならば残された選択は一つ。
食い扶持を減らすこと……つまりは家を出るのだ。
「ふう……これで準備は終わったか」
ガレスは最低限の衣服と思いつく限りの大切なものをまとめた。
正直旅に出る際必要なものとか、そういうのは分からない。だからなんとなくで揃えたに過ぎない。
「外で重要になるのはやっぱり金だよな……あとは食料」
大量の金銭の持ち出しはダメだろう。だけど少しくらいの食べ物なら持ち出しできるだろうか? あとで厨房に行って料理長に掛け合ってみよう。
日持ちのする食べ物といったらなんだろうか。果物……は腐りやすいか、ならば干し肉とか干し野菜しか思いつかない。
外の世界で生きるのは厳しいと聞く。果たして無事に生きて行く事はできるのか。
「……屋敷を廻ろう」
ガレスはこの家を出る前に一度屋敷を歩き回るべく、ドアノブに手をかけた。
ーーー◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇ーーー
「……そうか。もう家を出るつもりなのか」
「はい。準備はとうに終えています。このまま家に残ってタダ飯を食べるつもりは更々ないので、今日中には出て行くつもりです。父様にはその報告と私の貴族位の返上に参りました」
最初はドクトリン子爵本人の執務室に行き改めて家を出る報告をする。
前々の時点でガレスがすでに話していたので大きく動揺する事はなかったが、それでもやはり悲しそうな顔を浮かべている。
「お前には酷な判断をさせてしまったな」
「……いえ、私などよりイヴが次期領主に収まるのは自明の理です。すでに決意は固まっております」
「我が家にもっと金があれば……お前を騎士の養成学校に送ることもできたのだが……」
実を言うともう一つ選択肢があるにはあった。
それは15で成人してからの五年間、国を守る騎士を育成する養成学校へ行ってそこで本格的な武術を学び国へ慕える忠誠の騎士となる道だ。
戦う事が一番得意なガレスには最も似合った道だったかもしれないが、ドクトリン子爵家は五年間にも及ぶ高い教育費を払う事はできなかった。
イヴを領主としての教育させるため高等部へ行かせないといけないのに、追加で騎士へとなる事ができる余分な金など貧しいこの家は持っていない。
故にこの道も諦めざるを得なかった。
「私は領主になりたかったわけではありません。あの試合は単なる気晴らしのようなものです」
「気晴らしか?」
「はい、妹との格付けを。……最後くらいは勝ちたかったんですがね。私に領主の器がない事は理解してますので、もし勝っていたとしても最初から地位は譲るつもりでした」
これは紛れもない本当のことだった。
お世辞にもガレスは頭が良くない。よく言えば純粋でまっすぐ、悪く言えば単純でアホだ。そしてその事は何より彼自身が理解している。
領主になっても土地が荒れるのは必然、剣を振るのが精々だ。
「では、初めから家は出るつもりだったと……?」
「そうです。なので父様が気を重くする必要はありませんよ。私は平民になっても自分で幸せを掴み取って見せます」
「……家を出たとしてもお前には是非とも幸せになってほしい。ユーニスもそれを望むだろう」
ユーニスというのはガレスとイヴの母親である。
二人がまだ幼い時に不治の病にかかり、若いながらも九年前に亡くなってしまっている。ガレスもすでに顔を思い出す事はできなくなっているが、とてもよく愛してもらっていたのは分かる。
イヴは母親であるユーニスの血を多く受け継いだ。
光を受けて綺麗に輝く銀髪も、見るものに冷たい印象を与える銀色の目も。ガレスも完全な銀色ではないが少しくすんだ銀の髪と目を持っていた。
ガレスは7対3の割合で、イブに至っては父の遺伝子は皆無である。
「それでは父様、いくらか日持ちのする食べ物を持ち出しても良いでしょうか」
「許可しよう。食堂に行っていくらでももらってきなさい。そして僅かながら金銭を渡そう。せめての援助だ」
「食べ物の件は有り難いですが、お金は遠慮します」
「だが移動はどうするつもりだ?」
「歩いて行くか、乗合馬車でうまく乗せてもらうかします。少しのお金でもそれはイヴに使ってやってください」
子爵は長い間思い悩んでいたが、最終的には「分かった」と了承してくれた。
ただし『一年に一回は顔を見せに来る事』を条件として出された。「貴族位を返上して平民になったとしても、お前は私の子供なんだから」と言われたときは嬉しさと申し訳なさで胸がいっぱいになった。
子爵と軽くハグをして、ガレスは執務室を出た。
ーーー◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇ーーー
日はすでに高く登り始めている。家を出た後の数日間は野宿する事は絶対なのだろうが、少しでも早く街場に着くために移動時間は長いほうがいい。感傷に浸っている暇もなく、急ぎ足で食堂までの道を急ぐ。
「坊ちゃん」
早歩きの彼を呼び止める声が背中から聞こえる。
ガレスはその声の主が誰なのかはすぐに分かった。元から数少ない使用人の中で自分のことを『坊ちゃん』というのは彼女しかいない。
「マーサ、私はもう坊ちゃんではない。ついさっき父様に貴族位は返上してきたところだ」
「この家を出て村の門を潜りぬけるまでは、あなたは私達使用人一同の敬愛すべき相手なのですよ。坊ちゃん」
恭しく頭を下げるその使用人にガレスは思わず顔を渋くする。
彼女はマーサ、この家で働く使用人一家の娘である。マーサは七歳、ガレスとイヴが三歳だった時に初めて顔合わせをし、幼い頃は歳が近い子供同士でよく遊んでいた。
ガレスとイヴにとって旧友であり、彼女が立派な使用人となった後も二人の専属世話係として関係はずっと続いていた。
「坊ちゃんはこの家を出てゆくつもりなのですか?」
マーサが真顔で直球に質問をしてくる。
一瞬答えるのを戸惑ったが、ガレスはすぐに戸惑いを消して答えた。
「勿論そのつもりだ。マーサは私を止めるのか?」
「いえ、坊ちゃんがご自身で決めたことなら私はその意思を尊重します」
「………」
“ちょっぴり言いとどめて欲しかったな”と思うガレスである。
「こちらをどうぞ」
「……これは?」
マーサに少し大きめの袋を押し付けられる。
持ってみると大きさの割りには軽く、揺すってみると中からは多くの物が擦れ合う音が聞こえた。
「厨房で分けてもらった食べ物です。それだけでも一ヶ月は持つでしょう」
「今からちょうど厨房へ行って来ようかと思ってたんだが……動きを見事に先読みされたな。ありがたいけど、よく分かったな?」
「当たり前です。何年一緒にいると思ってるんですか。それに私は坊ちゃんとお嬢様の専属メイド、二人の動きの先読みくらい出来て当然です」
どこか得意げな顔で語るマーサにガレスは思わず顔が緩む。
マーサはその緩んだ顔を見て、嗜虐的な笑みを浮かべる始めた。
「それにしても坊ちゃん、私に何か言う事はないんですか?」
「……? 特には……」
「『私が君のことを守る。だから是非ついてきてくれないか!』みたいな言葉をマーサは期待していたんですがー」
「……いやいやいや、君はこの家の使用人なんだから勝手にそんな事は決められないだろう」
膝をつきながらマーサの手を取り、騎士のようにそう宣言する自分の姿を一瞬浮かべてしまったガレスだったが、そんなキザな言葉は死んでも言えないと妄想を振り払った。
すると見事なクソデカ溜息を吐かれてしまった。
「っはぁぁああ…………マーサはがっかりですよ。まさか今世の別れかもしれないというのに、坊ちゃんは初恋相手に特別な言葉の一つも言えないとは」
「うっ……だって現実的に考えてそんなことをするのは無理だし……」
「それでも別れの言葉くらい用意しておいてくださいよ」
全くもって彼女のいう通りであった。
マーサは初恋の相手だった。そして10年以上たったいまでもその初恋は続いている。貴族の子息と使用人の恋愛なんて認められるわけない上に、マーサもガレスのこと弟のような存在としてしか見ていないので、ガレスは恋を諦めようとしているのだが、マーサはたまにこうやって揶揄ってくるのだ。
「まあいいです。坊ちゃんに限ってその辺で野垂れ死ぬような事はないでしょう。無駄にしぶとくて生命力高そうですし」
「それは褒めてるのか?」
「あら、信頼している証ですよ」
頰に手を当てて作り物なのか本物なのかわからない笑顔を浮かべる。
そんな彼女にガレスは嘆息して一番聞きたかったことを尋ねた。
「それで要件はなんだ」
「お嬢様……妹様のことです」
先ほどまでの緩んだ空気が嘘のように張り詰めた。
真面目モードのガレスにマーサも顔を正して要件を告げる。
「イヴのことか。大方予想はしていたが」
「これは完全なお願いですが……出立前にイヴ様とお話をなさってください」
「……喧嘩でもしろってか?」
マーサのお願いとやらが少し予想からずれていたが、ガレスは表情を崩さずにぶっきらぼうに聞き返す。
「違います。二、三言でも良いのです。会話をしてください」
「何の為に?」
「お二人の間にある溝を少しでも埋める為です」
溝……確かに溝はある。
お互いから話し始める事はない。ここ数年間は兄妹二人で楽しく会話した記憶がない。ガレスとイヴの間にはギクシャクした空気があった。
「お嬢様は天才です。一を聞いて十を知る。何でも万能にこなしてしまう。私もイヴ様は稀代の天才だと思っております」
「そうだな、あいつは神の寵児と言うべき奴だ」
「イヴ様の才能が露見してからというもの、随分と状況が変わってしまいました。あんなに仲の良かったお二人がこんなことになってしまうとは」
マーサは悲しそうに目を伏せて「ヨヨヨ……」と泣き真似をしている。
そして泣き真似をピタッと止めるとガレスを正面から見つめる。
「才能云々は置いておくとしても、仲が拗れた元の原因は坊ちゃんにあるのですから溝の処理はご自分でなさってください」
その言葉にガレスは難色を示さずにはいられなかった。