第八話 ヨゼフィルド
兄様が怒りのあまり校舎の一角を氷漬けにするという事件から半年。ようやく片付いた一連の騒動の始末に、僕はゆっくりと息を吐いた。
公爵令嬢のセシル・ネルフィアはあの事件の直後に退学にさせた上で、修道院へと押し込んだ。ネルフィア公爵家はセシルの他に子もいるから交渉自体は楽であったけれど。義姉に知られずに動くのに少々手間取ってしまった。兄様とユーリアは庇護対象のように思っているが、あの人は変なところで鋭いことがある。社交界の華と呼ばれた彼女たちの母親の血をきっちりと継いでいるせいだろうか。油断はできない。
「エドアルト様ったらお姉様を独り占めにするのよ。いくら結婚できたからって、ひと月の間、一度も実家に帰さないって有り得ないわ。バルトス公の別宅を新居にしているのだから、うちからそんなに離れてるわけでもないじゃない」
バルトス家の執務室、まあほとんど僕の私室になっているけれど、そのソファで僕の婚約者がぷりぷりと怒っていた。やけ酒ならぬ、紅茶の暴飲をしている。
義姉とは学園で会ってるじゃないか、とは口が裂けても言えない。そんなことを言えば、攻撃対象が兄様から僕に移るだけだ。そうだねひどいね、としたり顔で頷いておいた。
いわば二人は新婚なのだから、独占する兄様の気持ちも分からなくはない。あれだけ可愛がっていた婚約者を、ようやく自分のものにできたのだ。いっそ学園にすら出したくないと考えていてもおかしくない。結婚した直後など、人前では公爵令嬢らしく振舞う義姉が、珍しく覚束ない足取りをしていた日が何日も続いていた。嬉々として兄様が世話を焼いていたのも記憶に新しい。結婚して一ヶ月、兄様の無体に慣れてきたのか、このところは前のように優雅な立ち居振る舞いに戻っているようだ。ユーリアが心配すればするほど、義姉が赤くなって言葉に詰まる姿は面白かった。兄様に睨まれたくないから、これも黙っておく。
「結婚するのだって、卒業してからでもよかったのに。お姉様もエドアルト様も、一年早く卒業する予定なのよ。学生のうちに聖騎士になられるし、飛び級もなさるし、その上私のお姉様と学生結婚もなさるし、規格外にもほどがあるわ」
侍従は下がらせているけれど、ユーリアは慣れた手つきで紅茶のおかわりを淹れた。香りをたてるようカップに注いでいく。乱暴なようでいて洗練された仕草は、さすが公爵令嬢といったところか。口調はだいぶ、崩れているけれどね。感情のままに喋っている方が、ユーリアらしくて僕は好きだ。
喉を潤してまた文句を言い始めたユーリアを、少し離れた位置にある机に座ったまま眺める。この子は、家に帰っても義姉がいなくて寂しいのだ。だから、僕のところへ入り浸る。僕のできる最大限の力をもって、兄様を援護した甲斐があるというものだ。
ユーリアは知らない。兄様が騎士団の入団試験を受けられるよう、父上や兄様の友人のストラトス殿下を焚きつけたことを。優秀な者を輩出した学園だと箔がつく、と学園長や教育に関わる貴族へ情報を流したことを。兄様と義姉をとっとと結婚させるために、周囲の人間を使ってセシルの嫉妬心を煽ったことを。
アダーシェク公爵は分かっているだろうに、何も言ってこない。義姉の愛情も兄様の実力も本物だ。親元から巣立つ時期が早くなっただけだと、僕から言わずとも分かっているのだろう。
宰相としてのアダーシェク公爵は、ユーリアが知っている子煩悩な父親の顔と随分違っている。今回の件では僕が色々と手を回したけれど、公爵は僕が動いていると分かった上で静観していた。まるで、僕を値踏みするかのように。実際、僕がユーリアにふさわしいのか見極めているのだろう。付け入られるような隙を見せてあげるほど、僕はお人好しじゃない。
しかし、まだまだ目指す道は遠い。アダーシェク公爵家に婿として入り、ユーリアを手に入れる。数年前から変わらない、僕の目的だ。
「はあ……、もう私、ヨゼフのところに住みたいわ」
「そうしたら、毎日楽しいね」
僕は、兄様よりもずっとしたたかに獲物を狙っている。ユーリアはいつ気付くだろうか。もしかして気付いていて、僕の手の中にいるのだろうか。まあ、それはないか。
「ええ、絶対に楽しいわよ。ヨゼフは優しいし、甘やかしてくれるでしょう?」
「勿論」
くふくふと楽しそうに笑うユーリアに、僕も微笑んでみせた。ユーリアは何を血迷ったか僕のことを可愛いだなんて言うけれど、忘れてもらっては困る。僕は、男だ。時々、思い出させるように迫って、ユーリアが困惑したように逃げる、ということを繰り返していた。僕の婚約者殿は僕のことを一番仲のいい友人、とでも思っているらしい。
そろそろ、一歩前進させないといけないかな。婚約者になった程度じゃ、ユーリアには届かない。
「僕たちも、早めに結婚しようね」
「えっ!?」
「兄様たちは、学生のうちに結婚したじゃないか。僕たちだって出来るよ」
だからこそ、兄様に協力したんだ。自分の姉もしたのだからいいだろう、とユーリアの警戒を緩めるためだけに。
「で、でも、その、私たちはほら、お姉様たちのような感じではないし!」
ユーリアの言うお姉様たちのような、というのは、二人揃った瞬間から甘い雰囲気を醸し出すような関係、ということだ。僕から迫れば及び腰になるくせに、彼らを逃げ道にするなんてね。都合よく解釈させてもらうよ、ユーリア。
「そっか。ユーリィは僕ともっと睦みたかったんだね。気付かなくてごめんね」
執務机から立ち上がって、僕はソファに座るユーリアに歩み寄る。ユーリアは、上手く笑顔を作れずに僕を見上げた。
「僕も、もっとユーリィに近付きたいな」
逃げ出さないよう、ユーリアに覆い被さるようにソファの背もたれへ両腕をついた。にっこりと微笑んでみせると、ユーリアは笑顔になっていない笑顔を浮かべたまま、怯えたように身を竦める。
「僕が怖いの?」
「そんなこと、ないわ!」
「そう?」
怯えたことを隠すように、ユーリアは肩から力を抜いた。自分を囲う僕の腕に手を添えてくる。ユーリアはよく余裕ぶって、まるで自分の方が年上だとばかりに振舞うけれど、ちっとも説得力がない。
「そうだよね。僕は君の婚約者だから、多少睦みあうくらいは当然だよね。さすがに、君の不名誉になるようなことは我慢するよ」
「ふめっ……!」
何を意味しているのかは、正しく伝わったようだ。未婚の女性が同衾したなんていう醜聞は、貴族の恰好の的になる。僕は、ユーリアを傷つけたいわけじゃないんだ。ただ、この子を僕のものにしたい。確実に、僕以外を選べないように、一つ一つ逃げ道を潰してあげるからね。
「ユーリィ、僕のこと嫌い?」
「き、嫌いじゃない!」
尋ねれば、ユーリアは慌てて僕を見上げる。義姉は濃紺の瞳をしているけれど、ユーリアは晴れた青空のように透き通った青の瞳をしていた。いつか舐めてみたいな。君の瞳は、どんな味がするのだろうか。
「よかった」
上体を屈めて、隙だらけの彼女の額に唇で触れる。びくりとユーリアの体が揺れた。
「僕も大好きだよ、ユーリィ」
だから、早く僕の元に堕ちておいで。可愛い可愛いユーリア。
怯えて僕を見上げてくるユーリアに、僕は満面の笑みを浮かべて見せるのだった。
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