第三話 エドアルト
数日ぶりに顔を合わせた婚約者は、随分と印象が変わっていた。何なんだ、この愛らしい生き物は。私の婚約者はもっと冷たく、いけ好かない女性ではなかっただろうか。どうしてこうも、隙だらけなのか。
随分と血色の悪い顔をした婚約者、アリシアを席まで送り届けて、しかし、あまりの顔色の悪さに放っても置けず、私は彼女のそばに控えていた。友人のスティアートは面白い物を見るようにこちらを窺っているが、とりあえずは無視だ。
「やはり、医務室に向かえばよかったか」
「ん……、だいじょうぶ……」
私の言葉に、舌足らずな返答がくる。ぐらり、とアリシアの華奢な体が揺れた。
「アリシア!」
思わず叫んで彼女の体を抱くと、アリシアは深い青の瞳を私へ向ける。紙のように白い顔色で、か細く私を呼んだ。瞬間、私の中で芽生え始めていた感情が爆発する。アリシアは、私が今まで考えていたような都合のいい婚約者ではない。私が囲い、守るべき、か弱い女性だ。
「エド、早く医務室へ」
「ああ、すまない。後は頼んだ」
頷くスティアートに後を任せて、私はアリシアの体を抱き上げる。羽のような、とは思わないが、それでも同い年の人間として、この軽さは不安になる。極力揺らさぬように、だが出来るだけ急いで医務室に向かうと、先に連絡を受けていたらしい保健医が待ち構えていた。スティアートが生徒を走らせたのだろう。さすが、抜け目のない男だ。
「恐らくは貧血だろうけれど、随分と顔色が悪いですね。そちらのベッドへ運んでください。できるだけ、温めましょう」
「はい」
指示の通りにアリシアをベッドに運んで、厚めの毛布をかける。制服から覗く細い脚や腕には、意識して視線を向けないようにした。
「このまま、彼女についていてもよろしいでしょうか」
私の提案に、保健医は一瞬驚いたように目を瞬かせる。まあ、それもそうか。私は婚約者とあまり親しくしていないと、学園の中では有名だからな。
「婚約者が倒れたまま、大人しく授業は受けていられません」
「ええ、分かりました。教師には伝えておきましょう。……彼女が目を覚ましたら、また呼んでください」
「はい、ありがとうございます」
気を利かせたのか、保健医はそのまま医務室を出ていった。公爵家の不興は買いたくない、といったところか。
いや、それよりも、アリシアだ。ベッドの脇にある椅子に腰かけて、彼女の顔を覗き込む。細く息をするアリシアの顔色は、やはりよくない。寝不足だと言っていたが、それだけだろうか。
しばらく、眠る彼女を眺めていた。今までは彼女をあまりじっくりと見ることはなかったが、こうして見ると随分と可愛らしい女性のように思う。以前のような、冷たくきつい印象は感じられなかった。
「ん……」
どのくらいそうしていただろうか。彼女の唇が震えて、か細く声が漏れた。ゆっくりと開かれた瞼からは、深い青の瞳が覗く。二度、三度と瞬きを繰り返して、アリシアは視線を左右に揺らした。
「!エドアルトさま、っ……」
「まだ起き上がらない方がいい」
私に気付いて体を起こそうとするアリシアを、私は片手で制する。上手く力が入らないのだろう。容易くアリシアはベッドに戻った。その顔色は、未だ白いままだ。アリシアをベッドに留めたその手で、白い頬に触れてみる。ほんのりと返ってくる温もりに、少しだけ安心した。
「あ、あの……」
じわりと、アリシアの頬が染まる。血色がよくなってよかったとも思うが、体調がよくなったわけではないだろう。意識をしてもらえて、男としては嬉しいが。
「気分はどうだ?どこか苦しいところはないか?」
「え、はい……。だいじょうぶです。ありがとう、ございます」
舌足らずに、アリシアが微笑む。これが、私の婚約者か。どうしてくれようか。というか、何故気付かなかった。他の男に取られる前に、気付けて良かった。体調が悪いから弱気になっているのか。まさか、演技ではあるまい?
「いい。私は、君の婚約者だからな」
「こっ……」
かあっ、と耳まで朱に染めて、アリシアは隠れるように毛布を口元まで引き上げてしまった。添えていた手も、毛布に阻まれてしまう。アリシアの可愛らしい仕草に、思わず頬が緩んだ。
「アリィ、と呼んでも?」
「っ!……は……、はい……」
「私のことはエド、と」
アリシアは朱色に染まったまま、何度か視線を揺らす。これが演技だというのならば、私はきっと、人間不信になるだろう。
「エド、さま……?」
ああ、それでもいい。もっと早く気付けばよかった。こんなに可愛らしい女性が婚約者であったのに、随分と長い時間を無駄にしてしまった気分になる。
「様、もいらない。と言いたいところだが、あまり急ぐとアリィが沸騰してしまいそうだ」
「うぅ……」
からかうと、アリシアは眉間に力を入れて睨んできた。だが、以前のような凍りつくような視線とは違う。睨まれてなお、笑み崩れてしまいそうになった。さすがに、彼女の前でそのような情けない表情は出来ないな。
「さあ、もう一度眠るといい。眠れないようならば、添い寝でもしようか」
「だ、だいじょうぶですわ!」
ふるふると力なく首を振って、アリシアは完全に毛布の中に引っ込んでしまう。からかいすぎたか。零れる笑みを片手で抑えて、私は深く椅子に腰かけた。そのままアリシアを観察していると、恐る恐る彼女が毛布から顔を出した。
「エドさま、じゅぎょうは……?」
「君の体調が戻ったら、な。ほら、目を瞑って」
ぐずる子を宥めるように、アリシアの瞼の上へ手を乗せる。ひくりと一瞬震えたが、アリシアは私の手を退けようとはしなかった。おやすみ、と囁くと、アリシアは小さく私の名を呼んだ。堪らない気分になる。
もう一度寝たアリシアは、一時限目の終了を告げるベルで目覚めた。少し血色が戻ってきてはいるが、それでもあまりよくない。授業に戻ろうと起き上がったアリシアを止めていたら、妹のユーリア嬢が医務室に駆け込んできた。令嬢に似合わず、肩で息をしている。金の髪も乱れているから、恐らくはアリシアのことを耳にしてここまで走ってきたのだろう。
授業に戻るというアリシアを二人がかりで止めて、私はユーリア嬢と教室へ戻った。道中、アリシアをきちんと見ているのかとユーリア嬢からちくりと言われてしまう。確かに、今までの私はアリシアの何を見ていたのか。
不仲であると学園中で噂されていたユーリア嬢が、これほどにアリシアを慕っている。どうにも、私の作り上げていたアリシアの像は、随分と惑わされ、間違っていたようだ。噂に翻弄されるとは、全く情けのない。婚約者として、もっとアリシアを労り、尽くそう。贖罪の意味も込めて。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
その日、授業を終えた私は一度帰宅してから、アダーシェク公爵家へ向かっていた。早退したアリシアを見舞うためだ。
私から訪れることなどほとんどないためか、応対したアダーシェク公爵家の者は少々不審そうだった。さすがに、表に出すようなことはしないが。
「お嬢様はまだお加減が悪く、休まれております」
「ああ、私は彼女を見舞いに来たのだ。少し顔を見るだけでいい」
「かしこまりました」
洗練された仕草で、侍女が私を案内する。アリシアは起き上がっているかと思ったが、案内されたのは彼女の寝室だった。さすがに婚約者とはいえ、未婚の女性の寝室に入るのはまずくないかと侍女を見やっても、彼女はどうぞとばかりに身を引いているだけだ。
試されているのだろうか。いや……、滅多に訪れることのない私が来たのだから無碍には出来なかったか。
どちらにせよ、アリシアの不名誉や負担とならないようにしなければな。
軽くノックをして、私は部屋の中のアリシアに声をかけた。どうぞ、と今朝よりはしっかりした彼女の声で招かれる。
部屋の中で、アリシアはベッドの上に腰かけていた。淡い色のカーディガンから覗くネグリジェが、普段秘されていたアリシアの色香を引き立てる。私は何を考えているのだ。アリシアは体調が悪いというのに。
「このような恰好で申し訳ありませんわ」
「かまわない。無理に訪ねたのは私だ。それよりも、具合はどうだ?」
「ええ、もう随分と回復しましたの。ご心配をおかけいたしました」
緩やかに頭を下げる彼女に歩み寄って、そばに置かれていた椅子へ腰かける。ああそうだ、これを渡さなければ。
「見舞いの品だ。受け取ってもらえるだろうか」
あまり香りのきつくない花を束ねて、アリシアに差し出す。アリシアは深い青の瞳を見開いた後、綻ぶように微笑んだ。
「嬉しい、ありがとうございます」
可愛らしい笑顔に、私は抱きしめたくなる衝動をぐっと堪える。先程、ここまで案内した侍女が、部屋の片隅にいるのだ。そうでなくとも、信用して部屋へ招いてくれたアリシアへ、不埒な真似はできない。
「喜んでもらえたようでよかった」
「エド様……」
微笑み返すと、照れたようにアリシアは花束へ顔を寄せた。愛らしい。その華奢な肩を抱き寄せて、細い顎を掬い上げたい。いや、駄目だ。何を考えているんだ。全く、私はいつからこんなに自制心を失ったのか。
「アリィ、あまり無理はしないように。また倒れるようなことがあれば、私は君を囲ってしまうかもしれないぞ」
「まあ、エド様ったら」
冗談だと思ったのだろう。アリシアはくすぐるように笑った。私は、どうにか理性を掻き集めて、アリシアの細い手を取る。
「あまり長居をしても、君を疲れさせてしまうな」
緩く彼女の手を握ると、アリシアも私の手を握り返してきた。後ろ髪をこれでもかと引かれてはいるが、彼女は病み上がりだ。こうして顔を見れただけでも良しとしよう。
「早く元気になってくれ、私の姫君」
そっとアリシアの手の甲に口付けて、名残惜しいが席を立った。アリシアは私の口付けた手を胸元に抱いて、朱に染まる頬のままに私を見上げてくる。
「おやすみ、アリィ。決して無理はしないように、な」
肩に流れるアリシアの髪を軽く撫でて、私はアリシアに背を向けた。これ以上は、自制できなくなりそうだ。
「あ、あのっ……」
引き留めたのは、アリシアのか細い声だった。振り向くと、アリシアは凶器じみた上目遣いで私を見上げてくる。
「おやすみ、なさい……エド様……」
私を殺す気だろうか、この婚約者殿は。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
翌日、学園の校門の前でアダーシェク家の馬車を見かけた。教室へ向かおうとしていた足を止めて、馬車から降りる人影を待つ。隣のヨゼフが楽しそうに忍び笑った。
「僕もユーリアさんを待とうかな」
まだ婚約者を持たないヨゼフは、しかし、どうもユーリア嬢を気に入ったらしい。僕が婿に行っても構わないよね兄様、と念押しまでされた。私は構わないが、父や母はどうだろうか。こいつのことだ、上手くやるだろうが。
「あまり、ユーリア嬢に負担をかけるなよ」
「兄様がそれを言う?今までアリシアさんのところになんて行ったことがなかったのに、体調が悪いっていう彼女を訪ねたりして」
それ以上言うなと睨むと、ヨゼフはまるで気にしていないかのように笑って見せる。我が弟ながら、食えない奴だ。
溜め息交じりにヨゼフから視線を外すと、丁度、馬車からアリシアが降りたところだった。御者に礼をして、アリシアの視線がふわふわと彷徨う。何を探しているのだろうかと思っていたら、アリシアは私を見つけて視線を固定した。どうやら、愛らしい婚約者殿は私を探していたらしい。
自然と早まる足をどうにか抑え込んで、私はアリシアの元に向かった。まだ距離があるというのに、アリシアが頬を染めるのが分かる。隣のユーリア嬢が、アリシアの背を押したようだった。頑張れお姉様、とユーリア嬢の口が動く。
「おはよう、アリィ」
「お、おはようございます、エド様……」
昨日のような、今にも倒れそうな顔色はしていない。むしろ、随分と血色がいい。よく休めたようだ。
「あ、私、ヨゼフィルド様と教室に行きますね。お姉様、また後程」
「ゆ、ユーリア!」
待って、と引き留める前に、私はアリシアの腰を抱いて引き寄せる。小さく可愛らしい悲鳴を上げて、アリシアは私の隣に収まった。
「酷いな、アリィ。私と二人では嫌なのか?」
「ち、ちがっ……、そうじゃなくて、あのっ、エド様っ」
慌てて私を見上げてくるアリシアが、可愛らしくて思わず笑ってしまう。からかわれていると気付いたらしい、アリシアが上目遣いに睨んできた。
「酷いですわ、エド様、意地悪ですっ」
「すまない、アリィ。君があまりにも可愛らしくて、つい」
「かわっ……!?」
耳まで赤く染め上げて、アリシアは口をぱくぱくと開閉させる。淡い朱色の唇に触れたら、どんな感触がするのだろうか。とても気になるが、今はまだ、駄目だ。
「さあ、教室までエスコートしよう。今日は私と昼食を共にしないか?君とはまだ、一緒に食べたことが無かったろう」
「そ、それは……」
「それとも、私とは嫌か?」
「そんなことは!……ええと、よろしくお願いいたします……」
この可愛らしい生き物を抱き上げて撫でまわしたい。自分の婚約者へそんなことを思うのは、おかしいのだろうか。