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蟲王 〜Vermin Lord〜  作者: 猫丸 犬角
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プロローグ

 太陽の光が大地に降り注ぎ、畑一面に実った黄金色の小麦を熱を帯びた風が揺らしていく。小麦の首を垂れる程に実った穂は風にあおられ、小麦畑に波が立つ。


 小麦畑の波は豊作と共に収穫の時期を表すが、不思議なことに畑の周辺に人の姿は一切なく微かな動物の気配すらなかった。


 その美しい情景を押しつぶすように、巨大な黒い塊が全てを飲み込みながら進行していく。黒の中にいくつもの赤い眼光が輝き、まるでいくつもの生き物の意識が混在しているかのように見える。


 実際にその黒塊は魔物の群れだった。その魔物たちは人間の数倍以上大きいという違いこそあるが、その姿はゴキブリと呼ばれる虫に酷似していた。


 侵攻するゴキブリたちは触れる物全てを喰らい尽くし、通った跡には草木は残らず枯れた土地が広がる。増殖と共食いを繰り返すことでより強力な個体だけが生き残り、時が進むと共により強大な存在へと変化し続けていた。


 そして、ゴキブリたちは巨大な城壁に囲まれた大きな都市をその眼前に捕らえていた。



 ★★★★★★★★★★★★



 立ち並ぶいくつもの建造物に自然を取り入れた観賞用植物、道に沿うように水路が作られ、それが集う都市の一部には小さな小川が流れる。


 都市の中心部には巨大な大公城―他国における王城―が都市の象徴となり、国の繁栄を見守っていた。


 水路を用いて物資の運搬を行う、まさに水の都の名が相応しい。それがウォーサー公国最大の都市―スキユラ。


 幾つもの河の合流地点に立つ巨大都市であり、その豊富な水源を用いた大規模な農業と川の流れを利用した運搬業で大きく栄えている都市だ。


 その影響力は計り知れぬ程に大きく、公国ということで王国から分離した属国としては類を見ないほどに発展している。実際にその異常な発展の速度から、本国である王国もその手綱を取りそこねていると言われる程だ。


 本来であれば水の都として活気に溢れ喧騒の絶えることのなかった都市スキユラだが、今ばかりは都市を流れる水もどことなく濁って見えてしまうほどに活気を失っていた。


 人がいないのではない。人が多すぎるのだ。あまりの人口密度に人の往来すらままならない状況で、痛いだの狭いだのと怒号が飛び交っていた。


 本来、大都市スキユラの人口は5万人程だが、今に限っては20万人に及ぶ人民が集まっていた。しかし、スキユラは物資の出入りが激しいが故に人の入れ替わりも苛烈になる。


 その結果、スキユラは極端な大人数を収納する造りにはなっていない。その都市に20万人が押しかけたため、人が隙間なく肌身を寄せ合う状況を作り出してしまっていた。


「お母さん、大丈夫だよね」


 都市に籠る群衆の中で、1人の少女が震えた声で問いかけた。


「ええ、大丈夫。安心しなさい。私たちには神の加護が付いているわ」


 母親は娘を落ち着かせるように宥め、ふと視線をずらした。それにつられて少女もその方向へと視線を移し、安堵した様子で微笑んだ。


「うん!」


 親子の視線の先にある物、それは都市を囲むように作られた巨大な城壁だった。


 スキユラを守る城壁―レヴィアン


 この城壁は建国から二百年もの間、外部の脅威から都市の人々を守り続けてきた。数万にも及ぶ敵国の進軍、毒に狂い暴走した地龍の突進、突発的な魔物の 大量発生 スタンピード、それらすべての都市への侵入を阻み退けてきた。


 故にウォーサー公国の国民は城壁レヴィアンへと絶対の信頼を置いていた。だからこそ、このスキユラに逃げ込んだのだ。


 押し込められ窮屈な都市の人々であったが、言葉数こそ少なくともその表情に恐怖はなかった。


 迫りくる黒塊と人民の両者の間に聳え立つ高く堅固な城壁、それこそが彼らの心のよりどころであった。


 それは城に籠城するこの国の君主である大公―他国における王とほぼ同じ存在―も同じだった。籠城よりも逃走を選んだ魔物学者たちの警告を一蹴し、玉座の上で葡萄酒を片手に嗜んでいた。


「ふっ、馬鹿な学者どもだ。神壁レヴィアンが崩落するはずがないだろうに」


 城壁を絶対的なものと信じていたからこその余裕だった。彼らにとって城壁とはいわば神にも近い存在であった。


「全くです。あのような者どもに少なくない給金を渡していたとは…嘆かわしいことでございます」


 王の学者たちへの非難の声に側に仕えていた臣下たちも同調する。


「そうであろう。冒涜が過ぎるというものだ。あのような輩は死した後に、その身の罪を業火に焼かれるであろうな」


「その通りでございます」


 王と臣下は顔を見合わせ、王の間に響くほどの声で高らかに笑った。王の間にいたメイドも騎士もそれに同調していた。外面だけではない、心からそう思っていた。


 彼らは魔物学者たちを笑った。城壁が破られるはずがないと、壁を信じぬ背教者だと、その過度な信頼がより強大な恐怖を生むと知らずに…。




 ゴキブリの群れはまるで波のようにうねりながら城壁へと迫る。眼前に堅牢な城壁が聳えるというのにまるでその勢いを落とす様子はない。


 そして、己の身を案じることなく全力で城壁へ衝突する。ドゴッという大公城まで届くほどのけたたましい音が立ち、都市のすべての人間がビクリと肩を震わせる。


 ゴキブリたちの猛突進を受けた城壁には小さくない亀裂が入るが、崩壊には程遠く未だに城壁として健在だった。その様は神と崇められるにふさわしい姿だ。


 その一方で、ゴキブリたちはただでは済まなかった。直接城壁へと衝突した数百匹の個体は押し潰されて緑や黒、茶色といった色とりどりの体液をまき散らしていた。




 城壁上部の歩廊からその光景を目の当たりにした兵士は、城壁の偉大さを再確認して安堵の息を漏らす。


 そして、手元の青旗を勢いよく振り上げた。その旗は敵の進行停止、つまり壁の勝利を示す合図だった。


 他方の兵士からも同色の旗が掲げられ、それは兵士だけではなく民衆へも晒される。


 この一色旗は兵士同士の情報交換として、そして民衆への宣布としての役割をなしていた。


 つかの間の安全が保障され、民衆は互いに顔を見合わせて城壁の勝利を称える。そして誰からということもなく歓喜の声を上げた。その声は瞬く間に都市全体に広がり、皆が拳を掲げ身の安全と城壁の偉大さを噛みしめていた。


 城壁の兵士も歩廊から民衆が喜ぶ姿をほほえましく見ていると、自らの後方―城壁の外側―から突然何やら不快な音がするに気が付いた。


 ガリガキッ、ガジガリガキッガキリ、ガジガリッ


 まるで刃物で岩を削るような耳障りな音が響き、兵士は顔をしかめながら前のめりになり城壁の外を眺める。


「うっ…おえっ」


 そこには数千数万を優に超えるゴキブリたちが蠢いていた。あまりに不快な光景に兵士は吐き気を催してしまう。兵士はすかさず口に手を当て目線をずらそうとするが、その時ふと、ある異変に気付く。


「何だ…少しずつ前進している?」


 ゴキブリたちは城壁に遮られているにもかかわらず、確かに兵士が感じた通りに僅かに前進していた。


 兵士は目の錯覚かと袖で目元を何度も拭うが、目の前の光景は変わらない。一体どういうことかと兵士は頭を悩ませ、ついにある真実にたどり着く。


「まさか、壁を喰っているのか…」


 あの不快な音は壁を喰らう音、そして喰いながら進んでいるからこそ、壁に遮られようとも前進できるのだと判断できた。


 真相に気付いた兵士は驚愕の表情を浮かべたかと思うと、手元にある赤旗を必死に左右に振る。


 その赤旗が意味するのは、緊急事態または敵の進行を意味するものだ。


 しかし、他方の兵士たちは民衆と喜びを分かち合っており、必死に振られる赤旗に気が付かない。民衆も同様だ。


「くそっ」


 兵士は即座に城壁塔へと向かう。そして、彼の人生で最速の走りで城壁塔の階段を駆け降り、未だに騒ぐ民衆へと叫ぶ。


 声を荒げながらも必死に叫ぶが、兵士の声は歓喜に沸く民衆には届かない。それでも兵士は叫ぶ、絶望がすぐ目の前まで迫っていることを自分しか知らないのだから。


「くっ…仕方ない」


 兵士は腰に下げた火薬銃へと手を伸ばす。本来は魔物に対する威嚇兼注意を引くためのもだが、兵士はそれを上空へと向けて放つ。


 火薬の弾ける爆音が鳴り、幾人かの民衆もこれには注意を向けた。


「壁はもう駄目だ!早く、逃げ―」


 ドゴッ


 何かが破壊され崩れ落ちる音と共に兵士の声が途切れる。その音は火薬のそれをも上回っていた。


 火薬の音にも反応しなかった者も、これには気づき騒ぎがピタリと止んだ。


 そして、まるで古びた機械仕掛けの人形のように首をぎこちなく動かし、音のした方向へと顔を向ける。


 グチャグチャ


 民衆の視線の先には口から人間の下半身が飛び出た状態で、口に含むそれを咀嚼する巨大なゴキブリの姿があった。ゴキブリの口からは人の内臓が零れだし、僅かに湯気を上げている。


 そのゴキブリは人の倍近く大きい。しかし、ゴキブリたちの中では最小に近い体格だ。


 そのゴキブリの後ろには城壁に開いた穴も見えるが、それ程大きなものではない。他のゴキブリたちが後続しないのはその大きさ故だろう。


 民衆たちは絶句し目の前の真実を受け止められず、呆然と立ち尽くしていた。一瞬の静寂が辺りを包む。


 しかし、正面のゴキブリが咥えていた下半身をゴクリと飲み込み、次の獲物を狙う視線向ける。次の瞬間には、静寂は民衆の恐慌によって打ち破られた。


「「「うわぁああああああ!!」」」


 安堵し歓喜していた民衆の姿はなくなり、何としてでも恐怖から逃れようとする醜く哀れな民衆で溢れかえる。


「い、いやだああああ!」


「助けてくれええええ!」


「来るなああああ!」


「お母さん、お母さあああん!」


 前の者を押し倒しそれを踏み越えながらも、民衆はすぐそばにある絶望から逃れようとする。女子供であろうが老人であろうが関係がなかった。


 判断が鈍く非力なものが押しのけられ、ある者は水路に落ち、ある者は人の波に溺れる。逃げ惑う民衆の手でその命を奪われていた。


 その必死な逃走を嘲笑うかのように、ゴキブリは置き去りにされた獲物には目もくれない。本能に従うままに逃げる相手を追いかけ、そして捕食する。


 生きたまま喰われていく者たちの顔は苦痛に歪みながらも、なぜ自分がという表情が浮かぶ。そして、それが他の民衆にさらなる恐怖を与えていた。


 悪夢はそれだけでは終わらない。民衆が逃げた先の城壁にも僅かに穴が開いたと思えば、その穴はみるみる広がっていく。


 やがてその穴から細い触覚が飛び出し、ゴキブリが顔を出す。そして、そこから新たにゴキブリたちが都市の中へとなだれ込む。


 もし、目の前に恐怖の対象が現れればどうするか、当然のことながら逃げて引き返す。


 後続の者は自ら死地へと向かっていることに気が付かない。また、条件反射で引き返した者もその先が地獄だということを忘れている。


 人の波と人の波、ぶつかり合えば双方ともただでは済まない。人間は血の詰まった肉袋、同量の水よりも密度が高い。


 そのような大重量同士が衝突し、お互いが傷を負い、行き場を失う。


 混乱に混乱、恐慌に恐慌が重なり民衆は完全に冷静さを失っていた。正に袋の鼠状態である民衆へゴキブリたちは鋏打つように襲い掛かる。


 その現象は都市の至る所で発生していた。都市全体を恐怖と絶望が覆いつくしていた。


 城壁は至る所に穴が開き、もはや城壁としての役目を果たしてはいない。民衆の信じる堅牢な神は既に醜い魔物たちに喰われてしまっていたのだ。


 当然のことながら神喰いの化け物たちは神を喰った程度では止まらない。鉱石でも草木でもましてや同族でもない、久方ぶりに味わう柔らかく肉汁溢れるヒトの味。


 ゴキブリたちにとってヒトの血肉はもはやただの食べ物ではなく、匂いだけでも莫大な快楽をもたらす薬物にも近い存在へと昇華していた。


 悲鳴と共に血しぶきが舞い、水路に血が流れることで水の都は真っ赤に染まる。人の臓物や体の一部が流れる都市を水の都と称賛するものはもういないだろう。


 一瞬にして地獄絵図と化した都市は、人よりもゴキブリの数の方が上回っていた。都市は既にゴキブリたちの餌場と化していたのだ。




「相変わらずすっごいなぁ」


 誰もが目を覆いたくなるその悲惨な光景を、城の最頂から1人の道化師が楽しむように眺めていた。


 道化師の骨格は随分と華奢で、12,3歳の少女と変わらない。真っ黒なゴシックドレスに身を包み、目が痛くなる程に明るい桃色のツインテールを風になびかせていた。


 一見愛らしい恰好に対して、顔を隠す道化の仮面は歪にゆがめられ、その裂けた口で浮かべる笑顔は本能的な恐怖を誘う。


「まるでお祭りみたいだよ、ねぇ?」


 道化師は舌足らずな声で左手で掴む()()()()へと問いかける。しかし、堅く閉じられた口からは応答の声はない。


「…ちぇっ」


 道化師は少し機嫌を損ねた様子で首を放り投げ、再び鼻歌交じりに観戦を続ける。


「それにしても良い音だよねぇ。人が死ぬ前の絶叫と肉の潰れる音。はぁ…おかしくなっちゃいそう」


 道化師はうっとりとして顎に手を添えた後、クンクンと匂いを嗅ぐ。


「そんでもってこの匂い。火事が起きてるのかなぁ。人の焼けるいい匂いがするんだよねぇ。ゾクゾクしちゃう。こんな思いできるなんて蟲王様には感謝してもしきれないなぁ」


 道化師は観戦を楽しむこと数分、道化師は唐突に何かに気が付いたかのようにそっと耳元に手を当てる。


「は~い。何かな?」


 そして、そのままの体勢で数秒経った後、先程までの悠然とした態度から豹変し慌てた様子で声を荒げる。


「ええっ!蟲王様が消えた!?」


 その声は悲鳴と怨嗟の声が木霊する喧騒の中でも、明確に聞き取れるほどに響いた。


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